2007/02/28

ベッヒャーの無人世界

超越論的主体の場所、無人風景はこの境位で現れる。それは私と世界に先立つ、非人称的な風景であり、そこにおいて人間は何も見ない。
見るのは風景である(セザンヌ)。無人の「風景」に現れているのは「私」と「世界」(複数形)のあいだの「境界」に「潜在」するものである。
この潜在性・中間性をどのように理解するかが問題となる。これは、写真は何を表現するのかという問題でもある。


無人風景の中間性の第一の理解は、汎神論に接近する。例えば、我々は光そのものを見ることは出来ないが、
偏在する光によって映像を見ている。同様に、我々は質量=物質をその形式(現在態)において認識しているが、物質そのもの(可能態)
を認識することは出来ず、このとき物質とは先天的諸形式の彼方の物自体というよりは、むしろ光のような偏在である。
世界を構成するあらゆるものの存在は、そのままmでは見ることが出来ない。だから問題なのは、水蒸気を水に、水を氷にするように、
それ自体としては不可視のものを目に見えるようにするレンズであり、偏在する物質そのものを映像化するフィルター、つまり、ブレヒトの
「方法」なのである。


この場合、写真には物質の存在感(物の瑞々しい存在感)が表現される、と言うべきなのだろう。そしてその存在感に、さまざまな要素
(例えば歴史や記憶)を連携させ、こうして人は写真を雄弁さで覆い隠す。しかし、たとえこの偏在が、
何か包括的な全体集合ではなくおのおのの存在者への内在であるとしても、これはまさしく神秘主義(汎神論)と言うべきである。
あらゆる記号性の彼方で、宇宙は神(魂、存在、カオス、アウラ)に満たされている。魂はあらゆるものに宿っており、
芸術家の秘蹟によって顕現する、というわけなのだから。


中間性の第二ヴァージョンは反転したイロゾイズムIlozoism(物質生命論)である。イロゾイズムでは、
物質から離脱したり物質へ宿ったりする「魂」を認めず、おのおのの物質は独立して生きていると考える。
人間の生と自然の生は独立した二つの生命であり、さらにある物質の生と別の物質の生は独立した二つの流れである。この考えを反転させると、
すべての生の流れの外にある世界が現れる。そこにおいて、あらゆる生の流動が遭遇し、融和し、また崩壊するような真空地帯。例えば、
人間というシステムという自然というシステムが浸食しあう場所、それはビュスタモントやボルツの、
無表情な無人の風景に相当するかもしれない。ここにはなるほど神秘的な深みのようなものはない。無人風景は、
時間と空間をすり抜けて単に存在し続けるだけの、感動とも絶望とも無縁な宇宙の退屈な有り様にすぎない。定義上、全ての思考可能性、
知覚可能性をすり抜けるこの世界は、人間には絶対的に無関心であるから、「非人間的」でも「無機的」でもない。
原子核と一番内側の電子雲のあいだに広がる距離のように真抜けてはいるが、人を発狂させるには充分なほど絶対的に愚鈍である。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)