2007/02/13

勝者のキス



「その高揚とした幸福感を、ニューヨークのタイムズ・スクエアで一カメラマンがとらえた。
彼の写真は一冊の本よりも雄弁に状況を物語っている。偶然にこの場にきたとおぼしき看護婦に、一水兵がキスをしている。
ほとんどアクロバット的な熱烈な抱擁。精力的にして大仰な「勝者のキス」である。この一瞬の情景に、いつ訪れるかもしれなかった死の終焉に対する、世界の安堵が見て取れる。

この日の陶酔をこれほど見事に表現している場面はない。これを演出したのは偶然と幸運であり、カメラマンの醒めた目である。

われわれはまず、そのカメラマン探しから行動を開始した。彼の名はアルフレッド・アイゼンシュテット。1898年生まれで、1935年にニューヨークに移住したドイツ人。プロイセン生まれのユダヤ人である。愛称はアイジー。ベルリンで育ち、第一次大戦では砲兵として出陣して重傷を負った。二十年代末、ベルリン・イルストリールテ紙とAP通信で有名になり、ゲルハルト・ハウプトマン(ドイツの劇作家)やマルレーネ・ディートリッヒといった有名人の写真を撮った。1936年にライフ誌が創刊されたとき、そのカメラマンの一人。

以来彼は二千にのぼるルポルタージュに写真を載せた。雑誌の表紙を飾った回数も九十回以上もある。もう九十歳を越えているが、いまなお、マンハッタンの七番街にあるタイム・ライフ・ビルの十五階に、小さなオフィスを構えている。窓のない小部屋だが、どこをみても有名人の写真だらけ。ケネディ家の人たち、キング牧師、ソフィア・ローレン、マリリン・モンロー、トーマス・マン、アルバート・アインシュタイン、いずれもスナップ写真だ。額のしわが何本も見える写真もあれば、口元を吊り上げている写真もある。
とりすました文章を読むより、よほど被写体の人格がにじみでている。

彼の秘密?

「私は大勢の人を撮ってきた。自分の好きな人たちばかりだが、嫌いな人も何人かはいたな。私はいつも本質を引き出そうとしてきた、被写体の最良の面をな」

フォトジャーナリストであるアイゼンシュテットの、これが共感の基本姿勢なのだ。かつてイギリスの外相アンソニー・イーデンは彼のことを「優しい死刑執行人」と評した。彼の優れた写真には、時代が濃密に表現されている。
雰囲気のエッセンスがこめられているのだ。アイゼンシュタットの天賦の才はおそらく、一瞬の象徴的な内実を本能的に知覚すること、あるいはそれを予感するところにあるのだろう。

彼はこう言う。

「いい情景というのはな、向こうからやってくるものなんだ。さっと写せば瞬間がとらえられる。それが永遠に消えてしまう前にな」

この言葉はとりわけ、この伝説的な写真「勝者のキス」に当てはまる。写真の成り立ちを聞こう。

「ライフ誌から「タイムズ・スクエアに行って、お祭り騒ぎを写してこい」って言われたんだ。五、六人のカメラマンがニューヨーク市内の各地に、いろんな指示を受けて飛んでいった。私はライカ二台とポケット一杯のフィルムを持って、タイムズ・スクエアに行った。何千人、何万人という人々が駆けまわっていて、そりゃすごかった。なかでも目立ったのは水兵たちだ。連中はあちこちでキスの雨を降らしていた。誰も彼も有頂天。私はひっきりなしに撮った。フィルムをどのくらい使ったかわからない。


そのあと、一人の水兵が通りを走ってきて、出くわした女性全員にキスをしているのが目に飛び込んできた。そして彼は何か白いものをさっとつかんだ。それが何か全然わからなかった。結局は女の子だったんだが、もちろんその娘が太っているのかやせているのか、背が低いか高いかなんて全然。でも私は四枚写した。そして私は駆け出した。
同行していた女性記者は、その男女の名前すらメモできなかった。晩の八時に現像した。翌日、編集者がこう言った。

「おい、アンジー、こりゃ素晴らしい写真だな!」」

実際そうだった。結局、ライフ誌でも一番多く掲載された写真になったが、それだけじゃなかった。記念碑的な「世紀の写真」になったのだ。

(中略)

彼の名はジョージ・メンドンサ。ロードアイランド州ミドルタウンの漁師である。当時は水兵だった。

彼とはニューヨークのホテル、マリオネット・マーキスで会った。歴史的な現場を眺めるのに格好の場所。

「ジョージ、あのときの状況を説明してください」

「俺たちは全員、太平洋の戦争に戻るって思っていたんだ。あれはニューヨーク最後の日だった。ラジオ・シティ・ミュージック・ホールにいたんだ。あとで結婚した女性と二人でな。急にドアを外から激しく叩く音がした。ホールの支配人がショーを中止させ、戦争が終わったって言った。日本が降伏したって」

(中略)

「相手の女性の顔はよく見えたのですか?」

「いや全然、アッという間だったからね。彼女にキスしたとき、俺は目をつむっていたんだ。だからアイゼンシュテットの姿も見えなかった。以後二十年間、あんな写真があることすら知らなかった」

(中略)

だがライフ誌は最後の最後まで抵抗した-「メンドンサ」があの写真の当人だとは証明されていない」と言い張ったのである。

メンドンサは四枚の写真を持って、エール大学のリチャード・ベンソン教授を訪れた。教授はアメリカで、写真判定の絶対の権威だった。


(中略)

メンドンサはシャツの袖をたくし上げて、私に前腕部を見せた。何かが太く浮き出ている。

「教授はこれに特に注目した。神経節っていうんだ。ライフ誌から渡された写真には、それがはっきり写っていた。俺は今日、ベンソン教授が作成・サインしてくれた書類を持っているが、そこで教授は、百パーセント私があの水兵だと断言してくれた」

「ジョージ、さっきあなたは、あとで妻になる女性とラジオ・シティ・ミュージック・ホールにいたって言いましたよね。その女性は、あのキスの現場にいたんですか?」

「いたどころか、彼女こそ私の証拠になってくれたんだ。実はアイゼンシュテットの三枚目の写真でうしろのほうに写っていたんだ-全身がね」

 見てみると、本当にいた。彼女の現在名はリータ・メンドンサ。もちろん笑顔で写っている。

「となると、のちの奥さんになる女性とロマンスが始まっていたのに、別な女の子にキスしたんですか?」

「いや、彼女とは知り合ってからまだほんの一週間だったんだ。あの日はみんなが興奮してたけど、俺たちはまだ別にどうということもなかった」


(中略)

では写真の女性は一体誰なのか?これも、候補者が何人も名乗りを上げた。

(中略)

本物は現在ボルチモア在住のグレタ・フリードマンだった。ヴィーナ・ノイシュタット(オーストリアのウィーン南方の町)の生まれで、1938年のオーストリア併合後、第二次大戦が勃発する直前に、一家といっしょにアメリカに移住した。

(中略)

「私は歯医者の手伝いでしたが、当時は看護婦みたいな服を着るのがふつうだったのです。白い帽子もかぶっていましたが、でもお昼を食べに行くときはとりました。あの日は午前中に、患者さんの間でいろいろな噂が広まりました。
戦争が終わったとかおっしゃった方も、何人かいました。私は本当はどうなのかを確かめに、タイムズ・ビルまで行きました。蛍光板には「日本に勝利! 日本に勝利!」と書かれていました。周囲の人たちがお祝いを始めていました。赤の他人が抱き合っていましたし、
通りではみんながキスしていました」

「そこへあのキスの水兵がやってきたんですね。ドギマギしましたか?」

「ええ、本当に。最初は、抱き締められたこともわかりませんでした。急に起こったことなんで。私は身を振りほどこうとしましたが、そのとき急に彼はキスをしてきたのです」

「何としても彼から離れたかったんですね?」

「ええ、もちろんです! 何だかひどくヘンな感じがしましたからね!」

彼女はフォト・ジャーナリストが、しかもあの高名なアイゼンシュテットがそのキスの瞬間を撮影したことなど、気づいていなかった-気づくはずもない。彼女はいま、この写真を見てどう思っているのだろうか?

「これは人生の特別な瞬間を反映していますね。この写真は平和のシンボルになりました。この写真の一部分になってるなんて、すばらしいと思いません?」

これ以上の言葉はない。

(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)

アルフレッド・アイゼンスタット:(Alfred Eisenstaedt, 1898年12月6日 西プロシア・ディルシャウ
Dirschau (現ポーランド・トチェフ Tczew) - 1995年8月24日)はドイツ領ポーランド出身のアメリカの写真家・
フォトジャーナリスト(報道写真家)。1935年アメリカに移住。30年以上、「ライフ Life」誌の専属カメラマンとして活動した。

アメリカにおける報道写真家の草分け的存在。報道写真を芸術的な形式まで高めることに貢献した。(Wikipediaから引用)

無論この日は日本が降伏を世界に向けて宣言した日でもある。光と陰、勝者と敗者の一方の姿がこれほど表現されている写真もないかもしれない、日本が敗者となった象徴的な写真の一枚を問えば、僕はアメリカが落とした原爆のキノコ雲の写真を挙げる、そしてその写真も、それ以降の世界を象徴的に現している。(Amehare)