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2007/05/06

写真のポストモダニズム

プリンスやシャーマンの作品に採用されているアプロプリエーションという手法を、最もラディカルな方法で提示したのはシェリー・
レヴィン(1947~)である。彼女は1979年から82年の間に、エドワード・ウェストンやウォーカー・エヴァンズ、エリオット・
ポーターといったモダニズム写真の巨匠として評価されている写真家が撮影した写真を複写し、
その写真を自らの作品として展示する展覧会をおこなった(法的な観点から見るならば、
このような手法は写真家の著作権を侵害する違法行為である)。このシリーズ作品の一つである「無題-エドワード・ウェストンに倣って」
(1981年)という作品は、ウェストンが1925年に息子のニールを撮影した写真を流用したものである。ちなみにこの作品は、
シャーカフスキーの『写真を見ること』でも取り上げられている。このカタログでシャーカフスキーは
「ウェストンほど天賦の目と直感に恵まれている写真家はいない」のであり、「ウェストンの視覚は、
日常のなかで体験される物事を有機的な彫刻へと変容させている」と述べている。さらにこの写真について、
「クローズアップで捉えられた幼い男の子の胴体は、彫刻のような美しい線を描いている」と高く評価している。


このように芸術作品として高く評価されている写真に対して、
レヴィンがおこなったアプロプリエーションは次のような考えに基づいている。
ウェストンが息子のニールを撮影したネガからは数多くのプリントが制作されている。つまり写真は同じソース(原型)
から制作されているのだから、どのプリントもオリジナルとは考えられない。また、作品の元になったネガも「オリジナル」
という地位に位置づけられるものではない。「オリジナル」と呼ばれうるのは、撮影されたニールの体でもない。なぜなら、
アプロプリエーションをおこなう側から見るならば、その対象となっているのは、(当然のことながらニールの体ではなく)
ウェストンが制作した作品だからである。このように捉えてみるならば、ウェストンの写真には「オリジナル」は存在しない。つまり、
レヴィンは複写という手法によって、写真作品における「オリジナルの不在」を提示したのであり、彼女の主張は、
芸術としての写真の価値を擁護するシャーカフスキーのそれとは対極的なものだったと言えるだろう。


(「写真を読む視点」 小林美香)



2007/02/16

アメリカ「ライフ」誌における第二次大戦での戦争の描き方

数あるグラフ雑誌のなかでも、1936年にアメリカで創刊された「ライフ」がプロパガンダ活動で果たした役割は大きい。「ライフ」
の創刊にはナチスの迫害を逃れてアメリカに渡った写真家や編集者たちがかかわっていて40年には毎週三百万部の売り上げを誇るまでに急成長を遂げていた。
キャパやユージン・スミスなどに代表される戦争特派員たちは、小型カメラを携えて前線に赴き、
兵士たちが戦う様子やその表情を間近に撮影した。「ライフ」の編集者たちは、
戦争特派員たちが捉えた写真に航空写真や前線の状況を撮影した写真などを組み合わせて、戦局のフォト・ストーリーを仕立て上げていった。
編集企画にかかわるさまざまな段階で、編集者側がすべての決定権を握っており、
写真家はテーマについての選択権をもつことも独自の解釈を加えることもできなかった。また、
政府当局からも写真の掲載に関して厳しい規則が課せられていた。


たとえば太平洋戦争が始まって最初の二年間、アメリカ政府は、
死亡したり重傷を負ったアメリカ兵の写真を一般に公開することを禁止していた。当局側は、
戦争の現実をさらすことによって国民の士気がくじかれるのではないかと恐れていたのである。しかし敵軍の兵士であれば、
重傷を負っていようと瀕死の状態や死体であろうとも、恐ろしいほど克明な写真が掲載された。ガダルカナル戦線の戦局を伝える記事(「ライフ」
 1943年2月1日号)では、現地でのアメリカ軍兵士の活躍を紹介するフォト・ストーリーの最後のページに、
爆撃された日本軍の戦車の上に置かれた日本軍兵士の焼けただれた首を捉えた写真がページ全体を覆うほどの大きさで掲載されている。
このように敵軍の兵士の、見るも無惨な状態の死体を掲載することによって、戦争の代償を支払っているのは敵だけであり、
アメリカ軍にとって戦局は有利に展開しているというメッセージを巧妙に伝えていたのである。


しかし次第にアメリカ国内の士気が緩んで、配給制や賃金・雇用の規制に対する不満が高まると、
当局も規制の方針をせざるをえなくなった。フランクリン・ルーズヴェルト大統領は軍部に対して、
アメリカの犠牲と苦痛を捉えた写真を公開するように要請した。ジョージ・ストロックが撮影した「ブナ・ビーチのアメリカ兵の死体」(
「ライフ」 1943年9月20日号掲載)は、アメリカ兵の死体 - 顔を判別できないような角度から撮影されている -
 を初めて誌上で公開したものである。この写真は、戦時国債の購入を促進するための広告も添えられていた。
つまり死という高価な犠牲を払って戦った戦死者を見せることが読者の感情を揺さぶったのである。
結果として国債の売り上げが伸びることになった。


敵国である日本軍の兵士の死体とアメリカ兵の死体を捉えた写真の取り扱い方を比較してみても、
自国の兵士と敵国の兵士の描き方に大きな違いがあることがわかる。また、
このような違いは第一次世界大戦期のポスターに見られた兵士の描き方、すなわち英雄的な自国の兵士と、
怪獣としての敵軍の兵士の描き方を継承したものと言えるだろう。


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)



小型カメラの登場

「写真機材の発達で画期的な一歩を記したのが、小型カメラの登場である。
1924年にエルマン社が発表した小型カメラのエルマノックスは、当時としてはコンパクトかつ軽量なボディで、
容易に持ち運びができるものであり、大口径の明るいレンズが採用されていたため、
マグネシウムのフラッシュを使わなくても暗い場所で撮影ができるようになった。翌25年にはライツ社が小型カメラのライカⅠ型を発売した。
これは、三十五ミリ版の映画用フィルムを使って本体を小型化するとともに、連続撮影を可能にした革命的なカメラである。
これらの小型カメラは、開発当初は従来のカメラに比較して画像の粒子が粗く、鮮鋭性に欠けるなどの欠点があったものの、
それまでにはありえなかった視点や状況での撮影を可能にした。小型カメラによって撮影された写真は、
フォトジャーナリズムに大きな転換をもたらした。つまり、小型カメラで捉えられた写真は、
記事を説明するために添えられる補助的な図版としてだけでなく、それ自体が読者の注意を引き付けるものとなり、
掲載された新聞や雑誌の売り上げを左右するほどの位置を占めるようにもなっていったのである。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香)



楽園への歩み、写真展「人間家族」

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「この写真は、ユージン・スミスが第二次世界大戦で負傷した後の新しい生活を象徴したもの、
闇のなかから光あふれる世界へと踏み出そうとする彼の内面性を表すものとして位置づけあれている。「楽園への歩み」は、
1955年にニューヨーク近代美術館で開催されそのご世界各地を巡回した写真展「人間家族」展にも出品された。この写真展では、人生の旅-
世界中の人々が同じように生まれ、成長し、学び、働き、対立や問題を乗り越えて生きていくこと-が、
世界中の写真家が撮影した写真のシークエンスと言葉によって表されていた。「楽園への歩み」は会場の出口付近に展示され、
幼い子どもの後ろ姿は、世界中の人たちに向けられた希望のメッセージ - 暗闇のなかから光の方へ、
すなわち戦争という暗い過去から明るい未来へと歩んでいこうというメッセージ - が込められていた。ユージン・
スミスが父親として撮影した幼い子どもたちのスナップショットは、「楽園への歩み」
という題名の作品として発表されたり展覧会のなかに位置づけられることによって、特定の子どもを捉えたものとしてだけでなく、
彼の心情や希望や未来という抽象的な概念を表象するような図像として読み取られるようにもなったのである。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)


「ホイットマン流の国家のエロチックな抱擁の最後の溜息は、それを普遍化して一切の要求を剥ぎ取った形ではあるが、
スティーグリッツの同時代人で、フォト=セセッションの共同設立者であったエドワード・スタイケンが1955年に組織した写真展、
「人間の家族」の中で聞かれた。68ヶ国、273人の写真家の503枚の写真は一点に集中し、人類は「一つ」であり、
人間は欠点もあれば卑劣でもあるが、やはりいいやつだということを証明することになっていた。写真にはあらゆる人種、年齢、階級、
体型の人びとが写っていた。多くはとりわけ美しい肉体をしており、あるものは美しい顔をしていた。
ホイットマンが彼の詩の読者に彼とアメリカに同化するように迫ったように、スタイケンは個々の観客が描写されている多数の人間と、
そしてできることならどの写真の主題とも、つまり世界の写真術の市民全員とも同化が可能になるようにその展覧会を構成したのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



2007/02/10

ダゲレオタイプとポートレート

「ダゲレオタイプとは、1839年にフランス人のルイ=ジャック=マンデ・ダゲールが発明し、
その製法が公表された世界最初の写真術であり、金属板(銀メッキを施した銅板)を使用した1点限りの画像を作り出す技術である。
ダゲレオタイプはポートレート写真を制作するための手段として欧米を中心に広まっていき、
都市部を中心として肖像写真が次々と開設されていった。人々は肖像写真館や地方を巡業する写真師に依頼するなど、
こぞってポートレート写真を撮影してもらったのである。ダゲレオタイプの発明と普及を契機として、
それまでは王侯貴族などの限られた階級の人しか所有できなかったポートレートが、広く人々の手に行き渡ることになった。


ダゲレオタイプの撮影に使われる金属板のサイズは通常5×6センチから16.5×21センチくらいであり、
ポートレート写真はほとんどの場合、手のひらに収まるような大きさだった。ダゲレオタイプの特徴は、
細密画のような鮮明なディテールと階調の豊かさにあり、顔や衣服の写っている部分に彩色を施すことによって、
よりリアルな印象を作り出すような試みもおこなわれていた。表面を覆う被膜はきわめて薄く傷つきやすかったため、
表面にはガラスがかぶせられ、紺色やえんじ色のような深い色合いの革やベルベットの布を内側に貼ったケースの中に収められていた。


ダゲレオタイプのなかには、ボタンに埋め込んだり、指輪やブローチ、ペンダントのようなアクセサリーに仕立て上げられるものもあった。
つまりダゲレオタイプのポートレート写真は、壁に掛けて眺めるというよりも、手鏡やアクセサリーのように肌身離さず持ち歩いたり、
身につけたりすることができるものだった。ダゲレオタイプを手に取って見る人は、
写っている人に接近したり触れたりするような親密な感覚を感じ取っていたのだろう。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)



2007/02/08

没後写真

「先に述べたように、ダゲレオタイプの発明によって、
1840年代から50年代に書けてポートレート写真を撮影することが一般の人々の間に徐々に普及していったが、
生涯の間に一度も写真に撮られることがなかったとしても、当時としては珍しいことではなかった。
女性と膝の上の少女を撮影したダゲレオタイプを見てみよう。この写真の中で少女はあたかも眠っているかのように見えるが、
実は亡くなっている。つまりこの女性は娘の遺体を膝の上にのせてポートレート写真を撮影したのである。
写真に写っている少女にとってこのポートレート写真は、彼女の人生のなかで撮影された最初で最後の写真であったかもしれない。「没後写真」
と呼ばれるこのような写真は、ある人物が亡くなったことの揺るぎない証拠となるものだった。とくに子どもの没後写真を撮影する場合には、
あたかもまだ生きていて眠っているかのように見せるための工夫がなされていた。

子どもの遺体を撮影した没後写真は、現在見ると奇異なもののように見えるかもしれないが、
子どもたちを取り巻いていた当時の生活環境を振り返ってみるとその理由を理解することができるだろう。欧米では、
十八世紀末から十九世紀半ばにかけて肺結核が流行し、1850年初頭にはアメリカ東部の都市でコレラが蔓延するなど、
衛生環境は劣悪な状況にあり、そのうえ医療技術も未発達の段階にあった。幼児死亡率は高く。
十九世紀末でも出生児五人のうち一人が一歳になる前に亡くなっていた。したがって当時の人々の生活のなかで、
子どもの死は避けがたい出来事の一つとして位置づけられていたのであり、
子どもを亡くした親たちはその死を受け入れ哀悼するための通過儀礼として子どもの没後写真を撮影していたのである。
親たちは写真師に依頼して、子どもの遺体を家の中のベッドやソファ、揺りかごに横たわらせたり、
親が子どもの遺体を膝の上にのせたり抱きかかえたりして撮影した。ときには、
子どもの遺体を肖像写真館に持ち運んで撮影をおこなうこともあった。このような没後写真からは、「記憶を持った鏡」
としてのダゲレオタイプに託された思い、
すなわち子どもがこの世に存在したことをいつまでも記憶に留めておきたいという肉親や家族の切実な思いを感じ取ることができるだろう。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社 2005年)


追記:写真とは本書に掲載してある写真で、アルバート・J・ビールズ 「母親と亡くなった娘-「病気の子ども」の絵画に倣ったポーズ」
 1852年、と書いてあった(Amehare)



ダゲレオタイプの露光時間

「このようなこわばった表情は、ダゲレオタイプの撮影に必要とされた長い露光時間によるものである。
ダゲレオタイプが発明された当初は、一回の撮影に二十分から三十分もの露光時間が必要とされた。
のちに感光剤が改良されて露光時間は徐々に短縮され、1840年代後半には十秒から一分の間で撮影することが可能になった。とはいえ、
長い露光時間中に身動きせずにいることは子どもでなくても苦痛を強いられるような経験だったに違いない。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社 2005年)