「この目撃者の女性、当惑する/嫉妬する女性こそ、父権制下において同性愛を選択する男性どうしの人間関係の中で、
女性が置かれている立場の表象にほかならない。これはホモソーシャル理論において、
ミソジニックでホモフォビックなヘテロとナルシスティックなホモとの挟み打ちのなkで、居場所を失う女性の、まさに位置(付け)
の政治学の問題ともからむ。
そしてまたこれは、
正装の男性ふたりのあいだに裸体の女性を配したマネの<草上の昼食>を表紙に選択したセジウィックの Between Men から、
セジウィックの次著「クロゼットの認識論」への移行とも重なりあうだろう。はたせるかな「クロゼットの認識論」
へと成長した議論の原基ともなった、「密林の野獣」(ヘンリー・ジェイムズ作の中編小説)論であつかわれている当の作品そのものが、
セジウィックによれば、傍観者へと追いやられた女性と男性同性愛との関わりを軸に展開するものだった。
ならば同性愛的欲望の力学において女性が、男性主体の欲望の容器となっている可能性をも考慮しつつ、
ホモソーシャル関係を異性愛的女性を中心にして反復され生産されていることを一瞥してみよう。
「密林の野獣」は数年ぶりに再会した男女が親密な交際をつづけながらも、男のほうが自分の人生にはカタストロフ
(密林に潜んでいつ何時襲ってくるかわからない野獣)があると確信しているため、結婚にも肉体関係にもいたれないまま終わる。
ふたりは年老いて、女のほうが死ぬ。男は、この女性の友人の死こそがカタストロフであり、手遅れになった時点で女性への愛を確認し、
自分の人生には情熱が欠けていたことを知る(ただしジェイムズのこの作品は、他の作品の例にもれずきわめて曖昧なため、
このような一義的解釈を拒むところはあるが)。
従来の解釈は、この作品あるいは主人公の自己解釈を複製し、彼は彼女を愛していたにもかかわらず、自分では認めようとしないまま、
彼女を失い、いっぽう彼女も彼を愛していたが、それを理解してもらえずに終わるといった類の異性愛言説を君臨されてきた。
いっぽうセジウィックは、これを同性愛をめぐるものに読みかえる。状況証拠を参照し、作者の性的傾向をも参照しながら、
主人公の男性は同性愛者かもしれないし、そうでないかもしれないが、
自分が同性愛者であるかもしれないという可能性に怯えるホモセクショナル・パニックがあるというように。
セジウィックの解釈に対してはデイヴィット・ヴァン・リーアの批判がある。このゲイ批評家が、その反論のなかで
(ただし反論の全体像はここではとりあげないが)、セジウィックの議論では、ここにいる女性は、
ゲイの差別的スラングでいうところの男性同性愛者を愛する女性、「ファグ・ハグ faghag」(いわゆる「おこげ」)
ではないかといっているところが興味深い。「密林の野獣」は男女一組の物語で、第三の男は存在しない。だがヴァン・リーアのひとことで、
この作品は同性愛男性と女性の三人組(スリーサム)の物語へと変貌をとげる可能性にも開かれた。
また「ファグ・ハグ」問題にふれたとおぼしき一節で、セジウィックは、ホモセクショナル・パニックにある男性、
あるいは危機的状況にある男性に対して、女性はかぎりない魅力を感ずるものだと論証ぬきで述べ、「わたしたちはみな、
それを知っているのではないか」と、直感的・経験的同意を読者に求めている。
(平成8年11月1日発行 第28巻第13号 「ユリイカ」 11月号 「ご主人を拝借」 大橋洋一)