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2007/04/21

子どもの自殺は「親の代理死」

世の中にいじめがあるということと、それで自殺する子どもがいるということは、分けて考えなくてはなりません。

僕は、青年期以降はともかく、本来ならば子どもはそう簡単に「自殺するしかない」というほど精神的ショックを受けないと思います。
日本で年間に三万人いる自殺者のうち、九割九分までが大人でしょう。

実際、ひどいいじめを受けても、死なない子は死にません。

逆にいえば、いじめられて自殺する子どもは、育ってくる過程のなかで深く傷ついた「問題児」なのだと思います。
傷ついた親に育てられた子どもは、死を選びやすい。無意識の中で「死にたい」と思いつつ抑圧している親もいます。その、死への傾きを、
子どももまた無意識のうちに感じ取っている場合もある。

酷な言い方かもしれませんが、子どもの自殺は「親の代理死」なんです。


自殺した子どもの親の態度を見ればわかりますよ。学校がいじめ自殺を防げなかった責任をとれと、市や国に、
二千万円の損害賠償をもとめて訴訟をおこした親がいますが、何を馬鹿なことを言っているんだと思いますね、僕は。二千万円という金額は、
どういうつもりなのか。将来その子が老いた自分たちを世話してくれるはずだったのに、死んじゃったから、
その分をよこせと言っているのと同じことでしょう。


おそらく裁判には、真相究明とか、教育行政を問うとか、立派な名目がついてるんでしょうし、訴訟をおこせるのだから、
社会的なレベルでいえば相当しっかりした人たちなんだと思いますが、親と子の関係からいったら、てんでお話になってないよ、と言いたい。


彼らが、子どもをしっかり可愛がったことのない親だということは、インタビューすればすぐわかるはずです。
時代や経済状況など理由が何であるにせよ、子どもの育て方が悪かったんです。


結局、文科大臣が子どもに「命を大切にしましょう」といっても何の意味もありません。教育やいじめが親の問題から離れて、先生、行政、
それから大臣とどんどん「目上の人」が出てくるのでは、理念的にいって上手くいくわけがない。


それは子どももよくわかっています。「私は自殺します」という予告の手紙を文科大臣に送るのは、
半分は真面目に助けを求めているかもしれないけど、あと半分は、もっと騒ぎを大きくしてやれとか、大人を脅かしてやれと思っているんです。
文科大臣が真に受けて、自分が何とかできると思っているなら、お前さん、お門違いだよ、という感じですね。


(「文藝春秋」 2007年1月号 「いじめ自殺 あえて親に問う」 吉本隆明)



2007/04/19

子どもにとって親は宿命

子どもがいじめられて自殺したり、それを予告する手紙を文科大臣に送りつけたりする事件が続いています。

さらには、いじめを見逃したと責められて校長先生が自殺したり、子どもに自殺された親が、
学校や教育委員会を裁判に訴えたりする事態まで起きた。新聞やテレビでは、毎日だれかが「いじめや自殺はやめましょう」と呼びかけています。


僕のところにも、「いじめられても、自殺するな」とか「いじめっ子にやりかえせ」とか、
子どもへのメッセージを言ってくれと新聞社がきたりしますが、他のひとが何を言おうと僕は出さないよ、と断っている。

そんなこと意味ないよ、まったくおかしいぜ、と僕は思っています。


いじめられて自殺する子も、いじめっ子も、例外なく「問題児」だと思うからです。いじめられる子は感受性が繊細で、
いじめっ子は鈍感だから乱暴なんだ、ということはありえません。どちらも同じように、心が傷ついて育った子どもです。

では、誰が子どもを傷つけたか。結局のところ、「親の育て方が悪いんだ」というしかないと思います。

「親の育て方が悪い」というのは、子どもを厳しく叱りすぎたとか、逆に冷たく放っておいたとか、親のなんらかの言動が悪い、
という意味ではありません。そうではなく、子どもが育つ過程で、親との関係性によって、傷つけられるのです。

僕の持論では、一歳までに、母親が子どもにどう接したかで、その子の人格形成の格の部分は決まります。赤ん坊は、
感覚器ができあがってくる胎児期の終わりから、授乳されている一歳くらいまでは、母親の無意識からおおきな影響を受けるものだからです。


胎児のうちは文字どおり母親と一体ですし、お乳をもらう、抱っこされて眠る、排泄の世話をしてもらう、こうした人間の基本要素が、
母親との接触のなかにあります。その時期に、母親が安定した精神状態にないと、
この世に生まれてきたことに安心感が持てないまま育つことになる。

これが、「傷ついた子ども」と僕が言う意味です。


なにも母親のせいだけではありません。ちょうどそのころ夫と仲が悪かったとか、経済的な事情でパートに出て、
両親とも子どもをかまえなかったりとか、母親を不安定にさせる状況が背後にある。あるいは、仕事をもつ女性の
「子どもの世話なんかしていたら一年間ブランクができてしまう」という焦りも、乳児の心に刷り込まれていくかもしれません。
さまざまな家庭や社会の事情が、母親を不幸にしている。親も傷ついているのです。

つまり、傷ついた親が子どもを育てるから、子どもの心も傷つく。大人になると自分の傷には無自覚なものですから、
子どもを傷つけていることに気づかないと思いますが。


「親の育て方が悪い」といっても、親だけが悪いとは言えません。悪い親だから子どもをかまわないのではない。
かまえなかった理由はそれぞれにあるし、それは仕方がない。

子どもにとって「親は宿命」なんです。

乳幼児期が人間にとって決定的だということは、文学者の例を見てもわかります。夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、
彼らはみな実母から引き離され、惨憺たる乳幼児期を送っています。それを乗り越えるために狂気と独創を獲得し、あるいは刻苦勉励して、
いい芸術家になったわけです。


でもそれで報われたのかどうかは、本人にしかわからない。とくに太宰や三島さんは、「傷ついた子ども」のまま、
自殺したように思えてなりません。


(「文藝春秋」 2007年1月号 「いじめ自殺 あえて親に問う」 吉本隆明)



2007/02/09

アーバスの自殺

「アーバスはおそらく、異形人たちと親しく交わることの魅力、偽善、不快を至極単純に考えていたのだろう。
発見して大いにもえたあとには彼らの信頼をかちえたこと、彼らを恐れなかったこと、嫌悪感を乗り越えたことの震えるような喜びがあった。
異形人の写真を撮ることは 「わたしにはぞくぞくするような興奮でした。わたしはただもううっとりしていました」
 とアーバスは説明している。


ダイアン・アーバスが1971年に自殺したときは、写真関係者の間では彼女の写真はすでに有名になっていた。しかし、シルヴィア・
プラスの場合と同じく、彼女の作品が彼女の死後集めた注目はまた別種のもので、一種の神格化であった。彼女の自殺の事実が、
彼女の写真は誠実なものであって覗き趣味ではなく、またいたわりのあるものであって冷たいものではないことを保証しているように見える。
彼女の自殺はまた、その写真が彼女にとって危険なものであったことを証明するかのように、その写真を一層恐ろしいものにしているようだ。


彼女は自分でもその可能性をほのめかしていた。 「なにもかもがそれはすばらしく、息を呑むようです。
わたしは戦争映画でやっているように、腹這いになって進んでいるんです」。

写真はふつうは遠くから神の視点で眺めるが、ひとが写真を撮ることで殺される状況がひとつある。
人びとが互いに殺し合っているのを撮影するときである。戦争写真だけが覗き趣味と危険を結びつける。
戦争写真家は彼らが記録する死の活動に参加しないわけにはいかない。彼らは階級章はつけないが、軍服さえ着用する。人生は 
「ほんとうにメロドラマ」 だということを(撮影を通じて)発見すること、カメラを攻撃の武器として理解することは、
人的損害もあるということを意味する。 「もちろん限界はあります。部隊がこちらに向かって進撃開始しようものなら、
それこそあの絶体絶命の感じに近づきます」 と彼女は書いた。アーバスの回想の言葉は一種の戦死について述べている・・・・・・
ある限界を超えたところで、彼女は自分の誠実さと好奇心の損傷という精神的待ち伏せに会ったのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



2007/01/25

あなたの子どもは、他でもない、あなたの代わりに死んだのではないですか



親が子どもに「命は大切だぞ。いくらいじめられても、死んだりするものじゃないよ」などと、いくら言っても無効です。
なぜなら、子どもの自殺は、親の代理死なのですから。

ひどいいじめを受けたとしても、死なない子は死にません。

自殺する子どもは、育ってきた過程の中で、傷つけられてきた無意識の記憶があるのだと思います。子どもが受ける無意識の傷とは、
前に述べたように、子どもを育てる親自身が傷ついていたということです。傷ついた親に育てられた人は、死を選びやすいのです。


「もう自殺するよりほかにない」というほどの体験を、子どもが単独でするとは考えにくいとぼくは思います。

いまの子どもは、加減というものがわからなくなっているから、
たとえば鉄棒でひっぱたいて相手を死なせてしまったというようなことは、起こりえないとは言えないでしょう。しかし、
精神の体験としては、死を選ぶほどの体験を、子どもがみずからしているわけがありません。

結局は、親の真似なのです。

心の奥のほうで、無意識のうちに「死にたい」と思っているけれども実行には移さない親がいる。その死への傾斜を、
これまた無意識のうちに感じ取った子どもが、何かのきっかけで実行に移してしまうのです。

臨床心理学の先生がこんなことを話していました。

ある人のカウンセリングをして、その帰りに駅で電車を待っていた。ホームに電車が入ってくると、なぜだか知らないけれど、
飛び込みたくて仕方がなくなることがあるのだそうです。

自分は自殺したいという気持ちはまったくないのに、いったいどうしたんだろうと思ってよくよく考えてみると、
その日カウンセリングをした患者さんが、強い自殺願望をもっていたと考えるよりほかないのです。

その自殺願望が転移したとしか考えられないと言っていました。大人同士で、赤の他人でさえそうした影響を受けるのです。
親の心の傷を子どもが自分のものとしてしまったり、親の死にたい気持ちを自分でもって現実化してしまうことは、
十分にありえることだと思います。

自分の子どもに自殺された親たちが、同じ境遇の人同士で集まって会を作り、
子どもの自殺を防ぐための活動を行っているという話を聞きます。そうした親たちは、
何か考え違いをしているという気がしてなりません。残酷なようですが「あなたの子どもは、他でもない、
あなたの代わりに死んだのではないですか」と言いたくなるのです。世間を啓蒙して回る前に、
自分自身を見つめたほうが早いのではないか。そう思うのです。






(「ひきこもれ "FONT-SIZE: 0.8em">ひとりの時間をもつということ」
 吉本隆明 
大和書房)





江藤淳の死

江藤淳は、なかなか「死」に際がすっきりした人だなと思いました。遺書みたいなものがありましたが、あれはいい文章だと思っています。
しかし、大江健三郎(1935~)や老人介護の専門化の三好晴樹(1950~)は、「そんなに潔いわけでもないし、
ああいう自殺は決してよくない。江藤淳と同じように脳梗塞でリハビリで苦労している人はどう思うだろうか」と否定的に捉えています。でも、
僕は太宰治の自殺以降、思い切った決断力のある文章だと思っています。江藤淳も格別書くものがなくなったとか、
行き詰まったということでもないし、奥さんに先立たれて時間のずれはあるけど、一種の心中みたいなものだという理解の仕方もあるでしょう。
ただ、僕は奥さんのことを言うなら、看病でものすごく疲れてしまった。さらに年齢から起こる前立腺炎の苦しみや脳梗塞になって、
気持ちを立て直すうちに老いてしまった。そういうことが自殺の原因ではないかと思っています。


(「老いの流儀」 吉本隆明 NHK出版)