ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2008/02/13

投げ纏頭の禁止

風紀を正す改革のもと、力士の芸人根性は真っ先に槍玉に挙げられた。

投げ纏頭(なげはな、投げ祝儀、投げ花とも書く)は芸人根性の最たる象徴であった。国技館開館直前頃の投げ纏頭の実態についてまず述べることにする。

贔屓にしている力士が勝ったら、祝い金を贈ろうと目論んでいた人は、その力士の方に軍配が上がると、土俵に向けて自分の帽子や羽織を投げ込んだ。力士はそれを拾い上げ、支度部屋に持ち帰った。当の贔屓は帰りに支度部屋の力士を訪ね、その物と交換にお金を与えた。稀であるが、投げ込まれた物を付け人がすぐに好角家のところに持って行き、それと交換にお金を貰うこともあった。

このような現金贈与が投げ纏頭と呼ばれるものであった。投げ込んだ物が山のようになることも稀ではなかった。

投げ纏頭は国技館開館の場所から禁止された。実は、禁止令は開館以前の数場所前からすでに出されていた。しかし、守られていなかったのだ。だから、開館を機に禁止が徹底されたというのが実情である。

(中略)

投げ纏頭を拾う力士には、投げ銭を拾う大道芸人を連想させるものがあり、このため投げ纏頭が禁止となったのだろう。

(中略)

投げ纏頭で力士が貰う金額のデータはその性格上乏しいが、わずかながら次のようなものがある。元大関荒岩の花篭年寄は現役時代に自信が貰ったときの話として、横綱常陸山に勝ったとき五、六百円貰ったと語っている(東京日日新聞 明治四十四年六月十一日)。また同紙で、海山が常陸山を敗ったときは三千円位になっただろうと、関脇伊勢ノ濱が語っている。

こういう話の常として、貰った最高の金額が引き合いに出されていると見てよいが、関取が貰う本場所興業での報酬(歩方金と給金)が横綱の常陸山でさえ二百円足らずだったことを考えると、投げ纏頭の金額が大金だったことは確かだ。

投げ纏頭を貰った力士は普通、それを全部弟子たちに与えた。当の力士には贔屓よりお座敷が掛かり、お座敷がいくつも重なったときは、祝儀が五、六百円から千円にもなったという。こんな祝儀があったから投げ纏頭の金を惜しみなく弟子に与えることができた。この祝儀は国技館開館後も無くならなかった。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



2008/02/12

相撲が唯一の国技に

国技なる言葉が初めて使用されたのは、江戸時代の化政期に、隆盛した囲碁に対して使用された時であったという。明治時代に入ってからの使用は、「国技館」が初めてだった。

「国技館」は響きのよい名称と受けとめられ、各地に国技館が開館するに及び、「相撲は国技」の認識が出始め、これを一歩進めた「相撲が唯一の国技」の認識も出てきた。

このようになった大本の原因は、皇室との深い関わりを国技の条件としたことにあったわけだが、このような関わりを持っていたのは相撲だけというわけでもなく、剣道もそうだった。

当時の皇室は剣道(撃剣と鎗術から成る)を重視し明治政府が明治十五年に官吏に文武を学ばせるために設立し、その後、皇宮警察の武術鍛錬場となった皇居内の済寧館(さいねいかん)で、、剣道の鍛錬を日常的に行っていた。明治四十五年五月一日には同所で、百四十組の試合から成る大々的な剣道台覧が開催されたこともあった。

この関わりは、相撲の千年も前の関わりと違って、現行の関わりであるから、剣道こそ第一の国技としてもよかったのである。しかし、この認識はまったくといってよいほど広まらなかった。原因が「相撲が唯一の国技」の認識の浸透にあったことは言うまでもない。

昭和九年五月四、五日の両日、済寧館で皇太子ご誕生奉祝の「展覧武道大会」が開催され、各府県から選抜された百二名の選手による剣道と柔道の試合が行われたが、この大会名が示すように、この頃すでに、武道と言えば剣道と柔道を指すようになっていた。明治時代は武道の範疇に入っていた相撲が武道から外されたのである。

相撲と同じく、剣道と柔道の殿堂を作りたいと考えた国会議員剣道連盟と同柔道連盟の働きかけにより、昭和三十九年、国会近くにその殿堂が完成した。そして、日本武道館と命名された。当然の館名だった。

相撲が武道から除外されたことは、相撲が唯一の国技とされて剣道や柔道より一段高い位置づけになったことによる、とも見ることができる。

同類のものが各国に発生した相撲と違って、日本にだけ発生した柔道はいまや世界的に普及してオリンピック種目にもなったが、この柔道に対して当然、日本の国技という声が出てもよさそうである。しかし、出ない。この背景は、「相撲が唯一の国技」の認識の定着だろう。このような結果をもたらした国技館なる名称は傑作であったといえる。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



国技館の命名経緯

明治四十二年六月二日の開館式が間近に迫った五月二十九日に、板垣伯爵を委員長とする常設館委員会の会合が回向院大広間で行われた。主要議題は館名の決定であった。こんな間際になってもまだ館名が決まっていなかったのである。

板垣伯爵は角觝(すもう)尚武館を提案し、衆議に諮った。ところがこの案では決まらず、ほかの委員から尚武館、東京大角力尚武館、大相撲常設館尚武館、相撲館といった対案が出された。尚武館という案に対しては、ある委員から「相撲には必ずショウブ(勝負)があるのだから、いまさらショウブカン(尚武館)と呼ばなくてもよいだろう」という発言が出た。発音した時、尚武館は勝負館と聞き間違えられるという問題点を指摘したものだが、冗談半分で言ったのかもしれない。相撲館は、相撲を活動写真で見せる所のようだという理由で退けられた。結局まとまりが付かず、委員として参加していた協会年寄に一任することにして散会した。

当の協会年寄は早速協会役員を集めて館名について協議した。尾車文五郎検査役は国技館を提案した。この館名は少し前に作られていた一枚の初興業披露状の中にある「角力は日本の国技」からヒントを得たものであった。尾車検査役は検査役の中ではトップの友綱貞太郎(一年後に取締になった)に次ぐ地位にあり、物言いをてきぱきと処理することで有名であった。明治四十四年夏場所後に行われた取締改選のとき立候補したが、二十山重五郎検査役と争って敗れた。

初興業披露状とは、「大角力常設館完成」を表題、「初興業御披露」を副題とし、本文の後に発行者を示す「大角力協会・年寄力士行司一同」と、本文の作成者を示す「江見水陰筆記」を入れたものである。

江見水陰(水陰はペンネームで本名は忠功)は小説家であるとともに、自宅に土俵を作り、自らが勧進元となって文士相撲を催すほどの好角家であったから、初興業披露文の文章作成を任されたのであろう。

本文の核心部分は、「大角力常設館全く成り、来る五月初興業仕るに就いて、御披露申し上げます。(中略)。事新しく申し上ぐるも如何なれど抑も角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、相撲節会の盛事は、尚武の気を養い来たり。年々此議行われて、力士の面目ために一段の栄を加え来たりしも、中世廃れて、遺憾ながら今日に及んで居ります」であり、ここに「角力は日本の国技」があるわけである。

奈良時代に始まり1174年まで続いた、宮中定例儀式の相撲節会(せちえ)を「角力は日本の国技」の根拠としていることは文脈より明らかである。皇室との深い関わりから国技としたのである。国技館なる館名は一同の賛同が得られた。そして板垣伯爵の了承を得て正式決定の運びとなった。

板垣伯爵は六月二日の開館式で会館委員長として式辞を朗読したが、冒頭で国技館と命名したことについて触れている。そして、開館式が終わった後、この館名について次のようなコメントをしている。

国技館なんて云ひ悪(にく)い六(むず)かしい名を附けたのは誠に拙者の不行届きで今更栓なけれど、実は式辞言句中にある武育館とすれば、常設館の性質や目的も明判し、且、俚耳(りじ)にも入り易いのに惜しいことをした。(東京朝日新聞 明治四十二年六月四日)

館名決定を協会年寄に一任した手前、協会が決めてきた国技館を自動的に了承したものの、これは自分の不行届きであったと反省し、後の祭りであるが武育館にすればよかったと後悔しているわけである。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



国技館設立の目的

上記談話の中には、次のような注目すべき部分も入っている。

常設館の設立と同時に相撲の改革を行ふことにした。一体昔の力士は一種の侠気がが有って義の為には身命を抛(なげう)って盡くしたものだが、世道人心が退廃し、人情が段々と軽薄になったとともに力士も一種の芸人根性を出して漸く昔の俤を失うようになって来た。之れは一般識者の夙に憂えて居る所である。処で今回此の機会を幸いに大に力士の風紀を正し、併せて従来の慣例中新時代の今日に適しない事は之を改めることにした。茲(ここ)に其の一、二の例を挙げていふ。力士の養老方法を設くる事や優勝旗を出して力士を奨励する事などで、是等は確に相撲道に一大光明を与えたものであると思う。

国技館設立と合わせて、芸人根性になっている力士を叩き直し、諸制度を新時代に相応しいものにし、こうして相撲道の改革をしたと言っている。国技館設立を相撲道の改革の好機と捉えたのである。

ここで相撲道とは、土俵のルール、力士が取組みを行う際のルール、行司と勝負検査役が判定を下す際のルール、団体戦のルール、報酬のルールなど、プロスポーツとしての相撲に当然要求される諸ルールのほかに、行司や力士の服装や番付方法、相撲関係者や観客のマナーに関するルールなどから成るものとしてよい。

上記の二つの話から国技館設立の目的が何であったかを考えてみると、外国人が見に来ても恥ずかしくない立派な相撲場を作ることが第一の目的(主の目的)であり、相撲道の改革が第二の目的(従の目的)であったとすることができる。なお、相撲場の改革という表現を使えば、立派な相撲場を作ることは相撲場の改革だった。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)

補足:「上記談話の中には・・・」、上記談話とは、「国技館開館前日発行の東京日日新聞明治四十二年六月二日に、「相撲と国技館」という見出しで、板垣伯爵の常設館設立の委員長としの立場としての談話記事」のこと。



2008/02/11

板垣退助 「相撲と国技館」

国技館開館前日発行の東京日日新聞明治四十二年六月二日に、「相撲と国技館」という見出しで、板垣伯爵の常設館設立の委員長としの立場としての談話記事が載っており、この中には以下のような国技館設立の目的を明らかにした部分がある。なお、国技館と常設館の言葉が入り交じっており、この点に注意して読む必要がある。

国技館の設立は時勢の要求に応じて出来たものである。維新前、未だ外国と交通が無かった時は兎もかく、今日の如く欧米諸国から貴賓が来るようになる、随て我国固有の相撲が海外人に見られるようになっては、如何にしても常設館が無くては不可ない。茲に於て、古来嘗て其の例の無い常設館を建てることになったのである。

仮小屋(掛け小屋)が粗末な相撲場であることを暗黙の前提として、こんなところで欧米の相撲を見てもらうのは大変恥ずかしい、だから国技館を建てることになったと言っているわけである。明治の初めでは、外国人に野蛮だと思われたくないと、裸体を禁止し、これが引いては相撲禁止の風潮を生むことにつながったことは第一章で述べたが、今度も外国人を強く意識したのである。明治時代の日本人は外国人の目をひどく気にしたのである。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



2008/01/03

『翻訳と日本の近代』 あとがきから

徳川時代の文化の大きな部分(主として知的・思想的な領域での大きな部分)は、翻訳文化であった。いわゆる「読み下し漢文」は、
狙徠も指摘したように中国語文献(主として古典)の翻訳であり、その語彙や表現法を採り入れて消化した日本語を媒介とする文化-
すなわち徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味での翻訳文化である。その経験が明治の西洋語文献からの大がかりな翻訳を助けたのであり、
近代日本を作りだした、ということができる。


翻訳文化は必ずしも独創を排除しない。徳川時代の文化の独創性は、「読み下し漢文」に依るところが少ない浄瑠璃や俳諧ばかりでなく、
漢文の概念を駆使しての、儒者の思想的な仕事にもある。日本の学者は必ずしも同時代の中国の後を追ったのではなかった。
明治以後の文化についても、少なくともある程度までは、同じことが言えるだろう。


翻訳文化はまたその国の文化的自立を脅かすものではない。むしろ逆に文化的自立を強化する面を含む。
翻訳は外国の概念や思想の単なる受容ではなく、幸いにして、または不幸にして、常に外来文化の自国の伝統による変容だからである。
外来の思想は、必ずしも知識層と大衆との間の溝を、長期にわたって拡げるようには作用しない。そのことを明治初期の翻訳者たちは-
少なくとも一部は-あきらかに意識していた。もし文化的創造や革新的な思想が、知識人と大衆との深い接触を通じて成り立つものとすれば、
翻訳文化は創造力を刺戟しても抑えはしないはずである。


(『翻訳と日本の近代』 岩波新書 加藤周一)



2007/07/09

奴隷制廃止ということ

英国人は中国人労働者を名目上は「自由な」存在として描いたが、「苦力」
たちはアフリカ人奴隷を運んだのとまさに同じ船で目的地へと送り出された。ある者は病にかかり、命を落とし、暴虐に耐え、反乱を起こした。
三ヶ月にわたる航海を生き延びた者には、到着と同時に強制的な監禁状態が待っていた。この意味で、「原始的奴隷制」から「自由労働」
への転換の決定を宣言する英国の政治的言説は、近代功利主義の所作だったのかもしれない。奴隷制廃止は便宜的なものだったのであって、
たまたま同時代の「啓蒙的」空気に合った解決であったにすぎないのである。年季契約移民労働が「自由に」契約されたものであるという表象は、
かつての奴隷への自由というリベラルな約束を裏支えするものとして現れたが、その一方で、プランターがいわゆる
「奴隷制から自由労働への転換」から -すなわち実際には、借用奴隷から分益小作農、囚人奴隷、日雇い労働、債務奴隷、出来高払い制、
年季契約移民にいたる、幅広い強制的労働の媒介的な形式から- 利益を得ることを可能にするものであった。中国人は、
この十九世紀前半の植民地言説の中でひとつの形象として、「自由」ではあるが人種化された年季契約移民という幻想として、
道具主義的に利用されていたが、自らの身体や仕事、生と死の所有からあらかじめ排除されていたことは、奴隷化された者たちにとっても、
年季契約で連れてこられた者たちにとっても同様であった。


(『人種化された労働』 リサ・ロウ 浜邦彦訳 現代思想 2007年6月号 青土社)



ディアスポラの概念

「ディアスポラ」の比較研究というコンセプトは、
アフリカやアジアといった単一の地域や場所に起源をもつ人々の移動とつながりを理解するための、示唆的でポジティブな枠組みを提供し、
通常は国民に基礎をおく歴史からは取り残されてしまう、グローバルなプロセスに光を当てる分析を可能にするものである。
撒種を意味するギリシャ語に由来する「ディアスポラ」の概念は、離散してはいても宗教、テクスト、文化によって結びつけられている。ユダヤ・
ディアスポラの完潔性(integricy)と同質性を表すために、主として使われてきた。それは近年の研究においては。
「もともとは均質であったが、のちに移動した人々」の、「社会性の個別的な形式」を指すものへと拡大してきた。「アフリカン・ディアスポラ」
の研究は、アフリカ大陸の外で生きているアフリカ系の子孫のグローバルな歴史を強力に概念化している。それは、
アフリカ系の子孫の数世紀にわたるさまざまなコミュニティを、
ナショナルな境界線を横断して統一的に議論することを可能にする用語でもあると同時に、補囚、奴隷化、
そして大西洋奴隷貿易につづく強制労働の歴史を取り戻す議論のための方法でもある。1500年から1900年までの間に、
およそ400万人のアフリカ人奴隷がインド洋の島々のプランティーションに、800万人が地中海に、そして1100万人がアメリカスという
「新世界」へと移送された。アフリカン・ディアスポラにはアフロ・ラティーノ(その集団は8000万人のアフロ・ブラジリアン)、アフロ・
アラブ、アフロ・ヨーロピアンおよびアフリカン・アメリカンが含まれている。研究者たちは「アジア・ディアスポラ」を、東アジア、南アジア、
東南アジアからのさまざまなナショナルな出自をもつ人々の、グローバルな移住(migration)の広がりを指す言葉として使っている。
アジア系の人々の、十九世紀を通じた広大でグローバルな拡散は、グローバル経済の拡大の出現にとって中心的(な出来事)であった。
インド洋におけるフランスやオランダの植民地、スペイン領キューバやペルー、英領西インド諸島、ハワイ、そしてアメリカ合衆国においても、
アジア人労働者はしばしばアフリカ人奴隷やその他の不自由労働を含む多人種的な労働力の一部であった。「アジア系ディアスポラ」はまた、
二十世紀後半における移住の爆発とアジアからの移民、そしてアジアの故郷との感情的紐帯や同一化の保持を指し示すためにも用いられている。
アフリカ系、アジア系のどちらの表現においても、「ディアスポラ」は統一された集合的な文化的遺産を維持していたり、
あるいは作り直したりしている人々が、地理的に別々の場所にいるというパラドックスを表している。
それはさまざまな結びつきを可能にする批判的な概念であり、より最近では、人種的・民族的な原初主義、
あるいはナショナルな形態の本質主義への批判をも含んでいる。


(『人種化された労働』 リサ・ロウ 浜邦彦訳 現代思想 2007年6月号 青土社)



2007/07/03

中華街の歴史過程 その2

しかし、「中華料理のテーマパーク」に至った原因はこれだけではない。実は、それよりも深い根があることも見落とすことができない。
それは、日本の対中国人政策ともいえる歴史に見ることができる。


すでに触れたように、海港当初、外国人の生活、商業活動は居留地に限られていた。
今では同じマンション内や隣に外国人が住んでいることは、珍しいことではなくなってきたが、一世紀前の日本では、日本人が住む「内地」
を外国人にも開放するか否かは大きな議論を呼ぶ問題であった。なかでも、隣国であり、
廉価な労働力を提供する中国人の内地雑居を許可するか否かという問題は論争の焦点となった。


1899年、欧米諸国との改正条約により外国人居留地が撤廃され、外国人が日本人と同じように、どこにでも生活し、
商業活動を行うことができる「内地雑居」が実現する。その際、「勅令352号」が内地雑居する外国人の管理規則として公示された。
文面上では明らかに記してはいないが、これは事実上、中国人を対象としたものと見られている。この勅令は、
中国人の旧居留地以外での居住や経済活動を制限し、また中国からの未熟練労働者の流入を困難にした。これにより、日本に進出する中国人は、
貿易商か「三巴刀(洋服の鋏、理髪店の剃刀、コックの包丁)」の職業に就くという特徴が生み出されたのであった。


日本において職業制限されていた中国人たちは、限られていた選択肢のなかで生活を営む方法を模索せんばならなかった。また、
関東大震災や1937年の日中戦争などにより、貿易商は商売を続けていくことが困難となった。そのため、貿易商たちのなかには職業替えをし、
コックとして修行をして、料理店を始める者が多かった。


「三巴刀」の職業である、テーラー、理髪師、料理人の職業を比較すれば容易に想像することができるだろうが、
洋服を仕立てるのは年に数着、そして髪を切るのも月に一回程度、しかし食事は一日に三食と、人々の生活において最も需要が高い職業であった。
もちろん、客は毎日外食をするわけではないので、一日三食というのは言い過ぎだが、職業を選ぶ側の立場に立って見ても、飲食業は、
理髪やテーラーに比べ魅力的であった。なぜなら、飲食業は、商売をしながら子供の食事の面倒を見ることができたからである。また、
子供達も皿洗いなど家業の手伝いをすることは他の職業にくらべ比較的容易であった。移民は家族経営を始めることが多いが、
職業選びにもこうした点が考慮されている。また、既製品が大量生産されるようになると、テーラーから転職し、中華料理に従事する華僑・
華人がますます増えていったのである。


(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P86-87)



中華街の歴史過程 その1

現在のように、街が中華料理一色の観光地となったのは、実はそう古いことではない。私は、横浜中華街で生まれ育ったが、
かつては八百屋や肉屋、薬局や洋服店など生活に密着した店、そして蕎麦屋やとんかつ屋などがあった。中華街といえども、
街に暮らす6000人の約半数が華僑・華人で、その他の半分が日本人や朝鮮人などであった。幼いころの記憶では、
朝鮮人の人たちも多く暮らしており、現在の市場通りの反対側は「朝鮮人街」と呼ばれていた。キムチや香辛料など韓国食材が売られ、
また山下公園まで台車をひいてアイスクリームを売りにいくオムニたちを見かけることも多かった。子供たちは、国籍や出自にかかわらず、
チャイナタウンの一角にある山下町公園で、缶けりや鬼ごっこなどをして遊んだものだった。街には人々の生活がにじみ出ていた。ちなみに、
山下町公園は、まだ居留地があった頃、会芳楼という劇場があり、そこは居留地の人々の娯楽の場だったそうだ。その後、
跡地に清国領事館が建てられていた。領事館は、関東大震災で倒壊し、戦後、跡地は山下町公園として地元の子が遊び、
夏には盆踊りやのど自慢大会などをすることに使われるようになった。2000年、歴史にちなんで会芳亭という中国風の東屋を建ててからは、
地元の人よりも、むしろ、観光客の憩いの場となっている。


観光地としての色彩が色濃くなる1980年代ごろまでは、街に住む華僑・華人たちが中華料理店を営み、日本人がその材料となる肉や魚、
野菜、酒、食器などを提供するという分業が行われていた。しかし、日本はバブル経済に伴ってグルメブームとなり、
チャイナタウンの料理店がメディアでしばしば紹介されるようになると、街はいっきに「中華料理のテーマパーク」
としてのイメージが強くなっていった。その後、肉屋が豚まん屋に、魚屋が中華の海鮮料理店に転身するなど、日本人が経営していた店が、
軒並み「中華色」を打ち出した商売に変わっていったのである。街に食材をおろすより観光客向けの商売に転向するほうが、
利益率が高いので当然といえば当然である。こうして、チャイナタウンに暮らす日本人が。「中華ブランド」を利用し、かつ自分の
「アイデンティティ」とすることによって、チャイナタウンの「中華色」がいっそう濃くなるという、興味深い現象が起きている。


(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P85-86)



2007/06/14

サハリン残留韓国人への支援について

終戦時、サハリンには約40万人の日本人がいた。昭和21年に結ばれた「米ソ引き上げ協定」によって、日本人ついては、
引き上げが許され(24年までに約30万人が帰国)たが、ソ連にとって終戦と同時に「無国籍者」とされた、朝鮮半島出身者については、
ソ連が出国を認めなかったために、サハリンへの残留が余儀なくされた。


これについて「日本人だけが、さっさと帰って朝鮮半島出身者だけを見捨てた」という悪質なプロパガンダが流されたが、当時、
占領下にあった日本は、そうした決定に関与すらできなかったのである。先にも書いたが、彼らがサハリンに留め置かれたのは、
ソ連が国交のない韓国への出国に難色を示していたからだ。背景には、北朝鮮への配慮があったという。2005年に、
韓国政府が公開した外交文書によれば、1974年にサハリンから日本経由で韓国へ帰国しようとしていた残留韓国人約200人が、
やはり北朝鮮に配慮したと思われるソ連の拒否によって出国が認められなかったケースが明らかになっている。


各国政府が無関心を決め込むなか、当事者の一人で、昭和33年に日本に帰国していた故・朴魯学氏・堀江和子さん夫妻ら、
日本にいた民間人の力によって、一時帰国、永住帰国への道が開かれたことも既に述べた通りだ。そのままなら「美談」に終わるはずの話が、
政治問題・外交問題になってしまったのは、50年12月、残留韓国人4人を原告にして東京地裁に提訴された「サハリン残留者帰還請求訴訟」
がきっかけである。18人の大弁護団の中心的な立場にいたのは、後に「従軍慰安婦」訴訟でも”活躍”した人物だった。


日本政府の見解は一貫して、「法的責任はない」というものだったが、やがて「人道的支援」を行うことに追い込まれる。
そしてこの問題はやがて、人道的支援から、「戦後補償」へとすり替えられて行くのだ。


日本政府に法的責任がない、というのはまったく正しい。昭和40(1965)年の日韓条約で、「解決済み」の問題であり、
先の韓国の外交文書公開では、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることも明らかになっている。


しかも”そもそも論”で言えば、戦前、戦時中に朝鮮半島からサハリンへ渡った人たちの多くは、外地手当などによる「高給」
に魅力を感じて企業の「募集」に応じて、自分の意思で行った人たちである。つまり、日本政府に無理矢理連れて行かれたわけではない。
先の新井佐知子氏は「私たちが帰国を支援した人たちも、ほとんどが「募集」でサハリンへ渡った人たちでした。
(1944年から朝鮮半島で実施された)正式な徴用令状で行った人は数百人にも満たないでしょう。当時は『強制連行』
なんて言葉すら無かったのです」と断じている。


実際、安山の『故郷の村』に住んでいる住民(一世)に聞いてみると、多くの人は「募集で行った」と答えている。
帰国運動を行った朴魯学氏(故人)も、昭和18年に樺太人造石油会社の募集に応じて、サハリンへ渡った一人だ。朴氏は、
サハリンで貰った給料で、韓国の家族に、家一軒が建つほどの仕送りが出来たという。妻の堀江和子さんによれば、
何が何でも日本政府の責任を主張する仲間(残留韓国人)に対して、「強制連行などではなかったじゃないか」と、
朴氏が咎めることがたびたびあった。


韓国政府や残留韓国人の団体は、こうした見解を認めようとはしない。「たとえ募集や官斡旋で行ったとしても、日本支配下のことであり、
事実上の強制であった」(韓国政府関係者)というのである。そして理論上、苦しくなると、「人道的支援」を持ち出すのだ。


だが、新井氏は、「私たちが世話をした人の中には、募集でサハリンに渡り、お金を稼いで、いったん戻ってきた後、
ばくちでスッテンテンになって、もう一度、自らサハリンへ行った人もいました。もちろん、強制などではありませんでした」と反論している。


結局、日本は外向的摩擦を怖れるあまり、求められるままに、「理由なき支援」を続けてきたのだ。もちろん、
国際社会で責任ある立場として、日本が「人道的支援」を行うのはいい。だが、70億円は、明らかにその範囲を超えている。


(月刊誌『正論』 2007年6月号 「サハリン 残留韓国人への追加支援で密かに盛り込まれた「3億円」」)


補足:「故郷の村」とは、韓国・安山市に2000年2月に完成した、サハリンからの帰国者支援のために建設したアパート群(八棟)。
建設費27億円は日本が出している)

70億円とは、一時帰国支援金・住宅施設建設費(安山アパート、仁川療養所など)・サハリン残留者支援金・永住帰国者支援金などの、
現在までに日本政府が支援した費用総額。



2007/06/11

アイヌと日本の分業化

アイヌ社会を「狩猟採集」社会の原型として再構築したのは、まさに初期近代の発展過程にほかならない。
交易の増加が日本とアイヌとのあいだによりはっきりと仕切られた分業を促進した。すなわち、アイヌの生活圏は漁撈と狩猟に特化し、
日本は農業と金属加工に特化した、そのような分業である。この意味で、アイヌ農業の衰退は、
徳川期日本における農業技術の発展と同じひとつの過程をなしていた。すなわち、西日本の綿作地の繁栄は、
アイヌ経済のモロコシや野菜作物の衰退と平行して進んだのだ。経済発展、交易、
いっそう複雑化する分業が数多くの近代社会のうちのある部分に脱産業化を生み出したのとまったくおなじように、
それらはアイヌ社会の脱農業化を促した。もちろん、この過程を経たからこそ、明治国家が「日本」と農業とを同一とする視座で、(未農業化の)
アイヌに農業を「伝える」ことによりアイヌを旧土人化するのが可能だった。


(『辺境から眺める』 テッサ・モーリス=鈴木 大川正彦訳 みすず書房 P61)



2007/06/09

北方領土のこと

二十世紀が終わろうとしている1997年、日本政府とロシア政府はようやく重い腰をあげ、アジア・
太平洋戦争以来決着がつかないままになっていた懸案事項の解決に乗り出した。すなわち、和平条約の調印と両国国境の確定に関わる作業である。
両国の交渉で焦点となる事項のうちもっとも重要なものは、いわゆる「北方領土」-国境線のロシア側では、南クリル(千島)として知られる、
ハボマイ(歯舞)、シコタン(色丹)、クナシリ(国後)、エトロフ(択捉)-の統治管轄という問題である。これまで、
この問題をめぐる論争は、国家間の権力政治という古典的な言語を用いておこなわれてきた。ロシア政府の視座からみると、
クリル諸島を自国領だと請求する根拠は、これが十七世紀にロシアの探検隊によって「発見」されたという事実に求められる。他方、
日本の観点からみると、この列島は北海道の地理的延長として定義される。それゆえ、日本政府は「北方領土」を「我が国固有の領土」
の重要部分であるとみなし、これを領土として認知するようにと要求するのである。


現在にいたるまで、交渉の表舞台で繰り広げられてきたのは、首脳外交、つまり御歴々が演ずるドラマであった。しかし、
この舞台の袖から非公式の声がかすかに聞こえはじめている。クリル諸島の現在の居住民は、
ロシア中央政府から長年にわたって受けてきた侮蔑的扱いに憤慨の意を表明し、独自の計画にもとづき、島を日本に貸与すると提案した。一方、
参議院議員(当時)萱野茂(かやのしげる)をはじめとする著名なアイヌの活動家たちは、ロシア人や日本人が「発見」するはるか昔から、
したがって日本政府がロシアに隣接する日本領土として北海道を創出する以前から、すでにこの列島にはアイヌ住民が居住していたのだ、
と政府首脳にむけて主張した。萱野は、アイヌにはこの列島の将来にかかわる交渉に参加する権利があると主張する。しかもこれは同時に、
国境線の北側の先住ニヴフ共同体の指導層からも、正当な主張だと認知されている。ニヴフ共同体の人びとからすれば、
クリル諸島及び近隣のサハリン(樺太)島とは、幾世紀にもわたり、アイヌ共同体とともに形成してきた相互活動領域にほかならないのである。


(『辺境から眺める』 テッサ・モーリス=鈴木 大川正彦訳 みすず書房 P1-2)


補足:北海道は、英国人にとっての北アメリカ同様に先住民から土地を搾取することで領土化された、という明白な事実を時として忘れる。
萱野茂氏は2006年5月6日に79歳の生涯を閉じた。
アイヌの英雄叙事詩ユーカラを紹介するなどアイヌ文化の振興に多くの功績を残された方でもある。



2007/05/10

生活習慣病とは

プロパガンダの一つの特性は、形容詞を多様することにある。ナチ政権下では「抜本的」や「永久的」ということばや、「悪い科学」とか
「適確な・不適格な」という表現を多用した。


例えが好きで、ガンを「ユダヤ腫」と呼び、「遺伝子欠陥者は国家のガン」とか「ガンは内戦を画策する革命分子、無政府主義者、
ポリシェビキ、共産主義者だ」といった。「発生期のガンは身体中の、他の人種と異なる細胞の新しい人種とみなすべきで、
治療の目的は病因となる人種の撲滅にある」とも述べている。


ベルリン大学教授のハンス・アウラーは「第三帝国が国民の健康維持を基礎としていることは幸いである。遺伝学・教育・スポーツ・
大学院研究・ヒトラーユーゲントや突撃隊・親衛隊での体育・結婚資金貸付・家庭衛生・隣保事業・職業斡旋等々の政府の政策はすべて、
ガン予防の措置と見なしうる」と政策の全てを称賛した。


なぜナチのことを紹介したか。ナチと同じ心性操作が今のアメリカや日本に多いからだ。2000年に日本の社会保障審議会で、「成人病」
を「生活習慣病」と改称することに決定した。命名したのは委員の一人、日野原重明である。


1937年、ドイツの遺伝学者カール・ハインリヒ・バウアーは「ガンの発生は生活習慣病」という論文を発表し、1939年、
アルトゥル・ヒンツェは「生活習慣と宗教が世界各地のガン発生率の違いを生む」と研究発表し、両説は熱心なナチ党員に支持された。(
「健康帝国ナチス」 プロクター 草思社)


生活習慣病には自己責任の意味が含まれる。健康保険が赤字の現在、自己責任で自己を管理し、医療費を抑制し、
ゆくゆくは公的保険を廃止し、民間保険に切り替えることを目指す。すでに混合診療の名のもとに民間医療保険が開始されている。


ナチ政権下で国民健康保険が実施されたが、自己責任を果たさなかった者に医療費の支給を抑えた。同じく日本でも、
このことばがでてきた直後に、健康増進法がだされ「健康は国民の義務」とされ、介護保険が改正され、
多数の老人や障害者が公的施設から追放された。


矢島嶺は病気の原因は三つあると説く。一つは有害物質や細菌や事故やストレス、二つ目は遺伝や加齢、
三つ目は食生活や運動や喫煙や休養の生活習慣である。この三者の内生活習慣のみを強調するのは、政治的意図以外何ものでもないと説いている。
(Bricolage 0六年五月号)


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢 P117)



2007/04/05

多言語主義と多数性

言語を可算名詞として考え、
数えられる統一体として捉えられた言語が複数並存する状態を想定することから多言語主義の考察を始めてはならない点は、あらためて、
確認しておかなければならない。この点は、すでに多文化主義の文脈でも私が何度か論じてきた主題にかかわっており、
多文化主義や多言語主義の多数性や複数性を、単純な加算的な統一体の複数の並存と考えるや否や、
ここでいわれている多数性の持つ政治的な意義が見失われてしまうように思えるのである。と同時に、英語、フランス語、日本語といった具合に、
各々の言語を名詞として指定することができるために、世界には言語の名前の数だけの言語が存在し、
世界はこれらの言語の複合体であるかのように理解するのを避けることは非常に難しい。雑種やクレオールを賛美するのはよい。
だが雑種性を理解するときの概念の動きそのものまで干渉し、
最も卑近な文脈でも雑種性を考える仕方そのものを方法論的に絶えず検証し変更してゆかない限り、雑種やクレオールの賛美は、
政治状況が変われば、純血性の賛美へと結局回帰してしまうだろう。


「日本文化の重層性」といった修辞に現れているように、
文化や人種の同一性を強調する議論は必ずしも雑種性を拒絶してきたわけではなくむしろ雑種性を横領し同一性の力学の契機としてきたからである。
だから、雑種性を同一性に横領できないような形で考え抜くことが、多言語主義をめぐる議論ではまず初めにある課題であると私は考えている。


(「多言語主義と多数性」 酒井直樹)



2007/03/29

分け隔てるもの、「歴史」

母の写真の大部分を私から分け隔てているのは、「歴史」であった。「歴史」とは、
単にわれわれがまだ生まれていなかった時代のことではないであろうか? 母が身に着けている衣服を見て、
私は自分がまだ存在していなかったということを読み取る。私はその時期の母を思い出すことができない。
身近な人がいつもとちがった服装をしているのを見ると、何か唖然とさせられるものだ。1913年頃の写真を見ると、外出着姿で盛装した母は、
トック帽をかぶり、羽根飾りをつけ、手袋をはめ、袖口と襟まわりに薄地のフリルをひらひらさせ、《小粋な》身なりをしている。が、
その身なりとは裏腹に、母のまなざしはやさしく気取りがない。こんなふうに母が一つの「歴史」(生活儀式や流行や布地)
のなかに埋もれている姿は、後にも先にも見たことがないので、私の注意は、母からそれて、
いまはもうすたれてしまった服飾のほうに向けられる。というのも服装は、はかなく消え去るものであり、
われわれの愛する人の第二の墓となるからである。母を《ふたたび見出す》ためには、もっとずっとあとになって、
母が整理だんすの上に置いていた品々、象牙のコンパクト(私はその蓋を閉める音が好きだった)や切子ガラスの香水壜や、あるいはまた、
現在私のベッドの脇に置いてある背の低い椅子や、さらにまた、母が長椅子の上のほうに飾っていたラフィア椰子の装飾板や、
母が愛用していた大型のハンドバッグ(その使いやすい形は、《ハンドバッグ》というブルジョア的な観念にそぐわないものだった)を、
何枚かの写真で見ることが必要となるのだが、母を《ふたたび見出した》といっても、悲しいかな、それはつかのまのことで、
そうしたよみがえりは決して長続きさせることができないのだ。

このように、われわれが生まれる少し前に生きていたある人間の人生は、その特殊性のうちに、「歴史」の緊張そのものを、「歴史」
の隔離する作用を含んでいるのである。「歴史」とは、ヒステリーのようなものである。誰かに見られていなければ、成り立たない-
そしてそれを見るためには、その外に出ていなければならない。生きている人間であるかぎり、私はまさに「歴史」とは正反対のものであり、
ただ自分だけの生活史によって「歴史」を否定し、破壊する(私は「歴史」の《証人》なるものを信ずることができない。少なくとも、
私がその一人になることは不可能である。ミシュレは、自分自身の時代については、いわば何も書くことができなかった)。
母が私よりも前に生きていた時代、私にとってはそれが「歴史」にほかならない(それにまた、私にとって歴史上もっとも興味があるのは、
その時代である)。どのような過去想起(アナムネーズ)をおこなっても、自分自身から出発してその時代をかいま見ること
(これが過去想起の定義である)は、決してできないだろう。ところが、母が幼い私を胸に抱いている写真を見ると、
私はクレープデシンの縮じわの柔らかな肌ざわりと脂粉の香りを心によみがえらせることができるのである。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)



2007/03/28

ストレンジネス効果の創造

ヘーゲルが「絶対知」と呼ぶものは、現在のグローバル化の予示であり、「歴史の終わり」と共に現れます。精神は、
その発展段階のすべてを経ると、歴史的プロセスの終わりを記す、ある完成状態に到達します。

この完成を、ヘーゲルはどのように定義しているか。それは、本質的に政治的な意味を持っています。歴史は、
最高レベルの自由が実現した時に終わりを遂げます。

人間の内的自由あるいは思考の自由に関していえば、この最高レベルは、ヘーゲルにすれば、プロテスタンティズムによって導かれた
「自省の原則」に相当します。

言い換えれば、みずから自分を裁くことができ、自分の行為に関する責任をきちんと判断できる時、人間は完全に自由なのです。

外的自由、政治的自由、社会的自由に関して言えば、自由の最高レベルは近代民主主義の台頭に相当します。
自己の意識と社会生活において解放された人間は、それ以上望みえないほどの完全な自由を手にします。

歴史が終わったといっても、もちろん何も起こらないという意味ではなく、それから先の出来事においては自己批判と民主主義以上のもの、
それ以上に羨望されるようなものは何ももたらされないという意味です。

絶対知とは、概念の領域でこのような政治的完成に相当するもの、すなわち最高レベルの完成に達した哲学的思考です。すべての問いは、
はたして絶対知が歴史と思考の停止を意味するのかどうかを知ることにあります。

ヘーゲルに批判的な読み手の多くはそう肯定し、たとえばハイデガーは、弁証法的哲学は最終的に時間と歴史を追い出し、その代わり、
国家の絶対権力に表されるような人間の有限性を、神の永遠性と無限性に置き換えたと論証しました。

フランシス・フクヤマは、絶対知にグローバル資本主義の勝利を見て取り、つまりグローバル資本主義に代換するものなどいっさいなく、
地球上における唯一の生産手段として君臨すると述べています。

たしかに、民主主義が資本主義と一体化していることは、今日、地球規模ではっきりうかがえます。

しかし私の考えでは、絶対知の登場によって、解放のプロセスすべて、
つまり人間が完全な自由を獲得するプロセスすべてが停止することを意味しません。ですから、新たな営みとは、
既存システムの外部に存在するもの、すなわち既存システムの内部には存在しないものを見つけることではけっしてありません。

絶対知は閉じた世界の思考であり、超越性はなく、部分修正されることもありません。グローバル化が意味するところはさまさにそこにあります。
各地で戦争や紛争が起こっているにもかかわらず、同じモデルが至るところで君臨しています。

とはいえ、グローバル化は「ストレンジネス(奇妙さ)効果」(同一性に他者性が混ざり合うこと)を妨げるものではありません。
まさにこの点を、私は絶対知に内在している「未来の根源」と呼んでいます。

そしてこれは、ストレンジネス効果の創造、つまり他者性のない世界において他者性を創造することなのです。
この逆説をあくまで維持し実践することが重要です。要は、歴史の終わりが告げられた現在、どうすれば我々は自己変革できるのか、
その術を知ることなのです。


(哲学者 カトリーヌ・マラブー氏インタビュー ダイアモンド・ハーバード・ビジネスレビュー 2007年4月号)



2007/02/20

ベトナム戦争、処刑



このとき撃たれたのは誰か? そして撃ったのは誰?

それは明白にわかっている。犯人は南ベトナムの国家警察長官グエン・ゴク・ロアン、撃たれたのはベトコンのバイ・ロップ。だがこの凶行を、よりによって何人かのジャーナリストが目撃していたことが、ロアンにとって運の尽きだった。テレビ班もこの出来事を撮影していた。

しかしテレビ映像がいかに心を揺すぶられる内容であり、いかに恐怖の場面を写していても-深みはなく、心に食い込むこともない。一瞬にして消え去ってしまう。だが写真はわれわれの頭から離れない。この一枚の写真、ロアンがロップを射殺するシーン、撃つほうと撃たれるほうが同時に写っている一枚。

ライフ誌に初めて発表され、世界中でいく度となく掲載されたこの写真はその後、戦争の残酷さをショッキングに示すシンボルとなりベトナム戦争終結に向けて、数個師団にもまさる働きをした。この写真をみて以降アメリカ人は、こういう戦争で「自由のために」命を賭ける価値があるのかと、自問するようになったのである。この犯人の自由のために?

撮影者であるカメラマンのエディー・アダムスを、われわれ取材班はニューヨークに訪ねた。彼の回想を聞こう。

「兵士たちが捕虜を一人連れて、私たちと同じ方向に歩いてきたんだ。記者というのは誰しもこうした、捕虜がどうなるのか、捕虜が連れてこられるような場合には、その先何が起こるか、まず観察するものだ。ふつうは、捕虜が連れ去られるまでずっと見守っている。
あのときは、兵士たちが街角で立ち止まった。途端にやつが現れた。ジープだったと思うが-さっと姿を現したのだ。何が何だかわからなかった。
私は、捕虜からわずか1メートル半ぐらいのところに立っていた。やつがピストルに手を伸ばした。威嚇だろうと思った。そういうことはよくあったからね。でもやつはピストルを取り出すや、次の瞬間には腕を上げていた。私もカメラを上げた。やつは発射した。

あとでわかったことだが、私がシャッターを切ったのは、ちょうど弾が発射されたときだった。そんなこと、あの瞬間にはわからなかった。やつは相手の頭部を撃っていた。ベトコン兵が倒れ込み-ああいうのは見たことがない-血が1メートル以上の高さまで飛びはねた。
私は顔をそむけた、見ていられなかった。撮影などしてしていられなかった。あとになってようやく、遺体の写真を一枚撮った」

(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)

補足:
ロアン国家警察長官は当時37歳だった。十一人兄弟の長男で、裕福な、とても裕福な南ベトナムの出身。「一番の馬鹿」というのが彼の口癖だったが、実はフランスの三大学を卒業していた。薬学と自然科学と工学を専攻。そして人にこわれて警察入りした。バカどころではない。ベトナム語同様にフランス語をあやつれるし、アメリカを旅行したことがあり、フランスとイタリアを知っていて4人の子供がいる。

現在も(?)アメリカに潜伏している。商売を何回か始めたが全てうまくいかなかった。CIAに友人がいるため、沈黙を守ることにより彼ら一家のアメリカ滞在は延長される。

一方の撃たれたロップの家族、当時妊娠中の妻がいた、は彼がベトコンである事を全く知らなかった。ベトナム戦争が終わり、生計を立てるため苦労するが、1988年にベトナム共産党がロップを英雄とあつかったため、その後の生活はかなり改善された。彼女はアメリカ人を恨んではいないが、ロアンだけは憎んでいる。(amehare)

赤旗を振ったソ連兵

hspace="0"
src=
"http://amehare.lolipop.jp/quotes//media/img_20070220T130651157.jpg"
align="absmiddle"
border="0" />


この写真を撮られた時の状況はどうだったのか?時は1945年4月。ソ連軍は最後の戦闘に向かっていた。
ドイツ帝国の首都ベルリンでの決戦である。そしてソ連戦車二万両にスターリン・オルガン(ロケット砲)、それに重火器が、かつて
「ゲルマンの世界都市」になるはずだったベルリンを攻撃した。街は廃墟と化す。
スターリン軍団が通りという通りで戦いを繰り広げていく一方で、守勢のヒトラー「総統」が「総統防空壕」から指揮したドイツ軍は、
もはや幽霊軍団でしかなかった。4月30日午後、最初の突撃隊が首相官邸を中心とする官庁街に到着し、ヒトラーは自決。


このときが勝利のクライマックスだったのか?いやちがう。なぜなら、民衆は別なシンボルを求めるからだ。神話が必要になるのだ。


われらが「神話」は、ソ連軍モスクワ博物館の二階に飾られていた。戦勝トロフィーが並ぶホールの中央で、それはスポットを浴びている。
いまなお学校の生徒たちは日に何千人と訪れては、それを見て目を見張る。それとは、
当時ドイツ帝国議会議事堂の屋上で振られた伝説の赤旗であり、ヒトラー・ドイツに対する勝利のシンボルなのだ。そしてこれを振ったのが、
勇敢なグルジア人ミリトン・カンタリアであり、彼の足を支えていたのがロシア人ミハイル・エゴロフである。


(中略)


その二つ先の部屋で、公式のソ連映画「ベルリン征服」が「小説」のほうを宣伝している。何人かの赤軍兵が昂然と頭をもたげ、
銃剣を持ち、旗をたなびかせながら、廃墟を駆けていく-この前庭は現在「共和国広場」という名になっている。荘重なナレーションが入って
「これは4月30日の突撃を映したものです」と解説している-だが議事堂をめぐる戦闘は、実際には一回もなかった。そもそも、
何の隠れ場所もない広大な広場であちこちから砲撃を受けているとすれば、兵士たちが頭をもたげ、直立の姿勢で走りながら、
軍旗をたなびかせているはずはない。


兵士たちはそれから議事堂に突撃していく。だがなぜ議事堂に入っていくのか? この、ヴァロット(ドイツの建築家)
の設計になる1894年完成の建物は、周知のように、1945年当時にはすでに空虚な存在だった。ヒトラーが1933年の炎上でまず最初に
「廃墟」にしたのがこの議事堂だったからである。定例の帝国議会などは、いわゆる第三帝国時代に一度も開かれたことがない。
だから厳密にいえば、ソ連兵は、とうの昔に冒涜された民主主義のシンボルの上で、赤旗を振ったのである。映画では例の旗は最後に、
焼け落ちた丸屋根の上でたなびき、ナレーションが次の言葉で全編を締めくくる。

「スターリンの命令は実行されたのです」


では真相は? まずグルジア人のカンタリアとロシア人のエゴロフが撰ばれた理由だが、
それはどうしてもロシア人がその場にいなければまずかったし、「全国民の父」スターリンはグルジア出身だったからである。話の先をどうぞ、
ミリトン?


「われわれの指揮官はシンチェンコ大佐だった。4月30日、そう昼ごろだったな、大佐はわれわれを大声で呼び止めて、こう言ったんだ。
「おい、議事堂に突撃して、旗を振ってこい。それがすんだら、本官のところへ戻ってこい」われわれは実行した。
最初は旗を中央玄関の上の窓から振ってみたが、晩の九時ごろには丸天井の上で振ってみた」


そういうことだったのだ。だがまだ銃撃戦が続いていたし、この4月30日には現場にはまだ、
カメラマンや映画の撮影技師などは一人もいなかった。あの映画は、ベルリンが陥落したあとに、見栄えを考慮して作られたのである。


それが5月2日だった。ロングショットや逆方向からの撮影をまじえて、公式映画が作られたのだ。そのとき旗は丸屋根の上で振られた-
だが写真撮影用には別な場所で振られたのである。

つまり。カンタリアが旗を振り、エゴロフが彼を支え、軽機関銃カラシニコフ持参の将校一人が写っているあの世界的に有名な写真は、
5月2日に撮影されたのだ。場所は見てのとおり議事堂の東面であり、ブランデンブルグ門の方角を向いている。カンタリアはこのとき、
カメラマン用にポーズをとったのである。


(中略)


この写真は、5月3日付けの何千という新聞の一面に掲載され、世界中に 「見よ、われわれがベルリンに一番乗りした。
勝利はわれらのものだ!」と伝えることになった。


だがカンタリアによれば、このときすでに何百本という赤旗が議事堂のあちこちになびいていた。議事堂は廃墟とはいえ壮観だったから、
ソ連軍はこの建物を重視したのだ。大体が、他のどこで旗を振ればいいというのだ?小さなブランデンブルグ門でに上がっても場所は狭いし、
ラジオ塔では貧弱だ。


「真実と伝説はもっと壮大でなければならぬ」-そういうことだったのだ。あるいはほぼそういう成り行きだったのだ。


(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)



Wikipediaからの参照「日本の民族問題」より「日本国内の少数民族」

日本国内の少数民族


日本国内で生活し、日本国籍をもつ者にも、日本固有の民族意識(「日本人」としての意識或いは単一思想又は大和民族)
とは異なった民族的自覚を持ち続ける人々がある。在日外国人以外、多くは日本国民としての国籍を有し、多数民族の個人と同等の権利・義務が、
民族としてではなく一国民(個人)として憲法上保障されている。


これらの少数民族の人々は個別の文化と帰属意識を伝承している。在日外国籍の場合(朝鮮人など)は、
永住権を持ち全てが民族的自覚を持つとは限らないが、日本に帰化した人々に比して民族的自覚は非常に強固なものがある。


また、少数民族の人々は民族的出自を理由に就職や婚姻において差別を受けるケースがあった他、特に朝鮮人は、
「代々差別を受けてきた経緯から差別を回避するために朝鮮名を使用しない。朝鮮系であることを隠す」ということが行われるケースもあり、
「民族や出自(系譜)を気軽に公表できない」とする人々が多い反面、
堂々と本名を名乗り日本社会に違和感なく溶け込んでいる人々も多数存在する。


国民としてのナショナルなアイデンティティや帰属意識とエスニックな帰属意識は別であり、必ずしもそれが葛藤を生むとは限らないが、
近代の日本は強い同化主義をとったため、しばしば衝突や多数派エスニシティ(大和民族)による自文化の押し付けを結果した。


主要な少数民族


    * アイヌ民族 北海道(アイヌモシリ)・樺太・千島の先住民族

    * ウィルタ民族 樺太の先住民族

    * ニヴフ民族 樺太の先住民族

    * 琉球民族(独自の民族であるかには異論もある)

    * 小笠原諸島の欧米系島民等 - 開拓・移民の末裔。

    * 在日華僑、華人、華裔(在日中国人、在日台湾人)

    * 在日コリアン(在日韓国・朝鮮人) - 元朝鮮籍など。国籍に関わらず同胞コミュニティが存在。


    * 日系ブラジル人 - 多くの場合国籍やエスニシティはブラジル人であり出稼ぎが多い。


    * 白系ロシア人 ロシア革命による亡命者

    * 元ヴェトナム・インドシナ難民とその家族。政治難民が注目されるが経済難民も多い。


(「Wikipedia 日本の民族問題 日本国内の少数民族」から引用)