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2007/05/11

ダイアン・アーバスが恐れていた評判

ダイアンが恐れていたのは、自分がただ「奇形者を撮った写真家」として知られるということだった。自分の動機が誤解されるのは、
たまらないことだった。他の写真家以上に覗き趣味があるわけではなかったし、「病的」でもなければ「異常」でもなかった。ただ、社会が
「倒錯」とか「不浄」というレッテルを貼ったものに魅せられた自分の気持ちを正直に表現しただけなのだ。


ダイアンに言わせれば、顔や境遇に興味をひかれた人たちの写真を撮りたかっただけなのである。その頃には、
1959年から書きためてきたノートがかなりの量に達していた。そこには、何百人もの人生の短い挿話-ロマンス、苦悩、災厄-が、
ほとんど判読しがたい文字で走り書きされていた。だが、名前がちゃんと書かれていないので、それが誰だかはわからない。それらの秘密は、
異常者とそうでない人びとが、撮影の過程で彼女を信頼して打ち明けてくれたものだからだ。ダイアンは彼らの話にいつも喜んで耳を傾けた。
彼らの話の内容ばかりでなく、それによってかきたてられる自分の反応にも強い興味をおぼえた。おたがいに言葉をかわし、
ダイアンがカメラのシャッターを押しはじめると、両者を隔てていた溝-人種、年齢、期待、さらには狂気という溝まで-が、
しばしのあいだ消滅してしまったからだ。


秘密を話し、分かちあうことで、ダイアンと被写体とは個人的に結びついたが、これこそがまさしく彼女の仕事の核だった。
何かを秘密にすることは、それを価値あるものにするひとつの方法でもあった。秘密が神秘性を深め、聖なるものへの信仰をうながした。
秘密が小人とユダヤの巨人の満たされぬ渇望をきわだたせ、両者を結びつけたのである。


想像力に富んだ写真家の例にもれず、ダイアンも写真というメディアの限界を感じた-したがって、
そこに物語や秘密を介在させないかぎり、彼女の映像は無意味だった。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P434-P435)



ダイアン・アーバス 近代美術館での観客反応

ダイアンは毎日のように美術館を訪れ、自分の作品のそばを歩きまわって耳をすました。そして、こう言っている。
「人の言うことを聞くのは好きです・・・・・・ひとりの婦人は写真を見てこう言いました。『このダイアン・
アーバスという写真家に会ってみたいものだわ』。つまり、こんなに気味の悪い写真を撮るからには本人も気味の悪い女だろうというわけです。
ご夫妻でやってきて、ご主人のほうが『これはいい写真だ。この人たちを昔から知っているような気がするよ』と言ったところ、奥さんのほうは
『まさか』と叫んだものです」


しかし、やがては耳をそばだてるのにうんざりしてしまった-感想のほとんどが「奇妙だ」、「醜い」、「いやらしい」、「誇張している」
、「ぞっとする」といった蔑みの言葉だったからだ。


友人たちからは、もっと心を強くして人が作品に否定的な意見をはいても平然としていられるようになれと言われた-人が何を言おうと、
それはその人間の問題であって、自分とはかかわりがないと考えるように、と、ジョン・パトナムは、ガートルード・
スタインがピカソをさとしたときの言葉を引用した。「すべての独創的な芸術は最初こそ違和感を与えるが、やがては受け入れられるのだ」と。


それでも、ダイアンはしだいにおちこんでゆき、ほめられても手放しで喜べなくなった。
じぶんとしてはひとりでこつこつ仕事をするのが好ましいと考えていたのだが、いまでは写真界のみならず、一般大衆が彼女の仕事に関心を持ち、
これ以後は何をやっても人に注目されることになったのだ。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P433-P434)



ダイアン・アーバス「ニューズウィーク」誌インタビュー

写真展が始まってからまもなく、ダイアンは『ニューズウィーク』の記者アン・レイの長時間にわたるインタビューに応じた。
ある日の午後、会場を一緒に歩きながら、小人や怒っている子どものポートレートの前に足を止めて考えながら、ダイアンはこう告白した。
「近代美術館で写真展が開けるというのはたいへん嬉しいことです。すばらしい出来映えだと思うし、展示もみごとです・・・・・・でも、
ジョン・シャーコフスキーがいなかったら、わたしは出品しなかったでしょう。彼はすばらしい人です」そして、こうつけ加えた。
「この八年間を費やして-ずいぶん長いこと写真にうちこんできたわけですが-模索し-探求して-それまでやったことのないこと-
子どものときに夢みていたことをやりました-サーカスに通い・・・・・・サイドショーを見物し・・・・・・」。しかし、突っこまれても、
自分のモデルや彼らの境遇については、あたりさわりのないことしか話したがらなかった。


レイの印象では、「ダイアン・アーバスは人の秘密を聞きだすことには自信をもっていた」が、
それだけにその秘密は自分の胸にしまっておかなければならないと考えていた。「わたしは不器用なところで仕事をしています」と、
ダイアンは言った。「それに反して、リチャード・アヴェドンは優雅なところで仕事をしています。それはどういうことかというと、
被写体を前にすると、わたしは相手を動かすかわりに、自分を適用させてしまうのです・・・・・・しかし、
まずい写真を撮るのは大事なことです-まずい写真こそが新しい経験につながるのですから・・・・・・
カメラのフレームをのぞきこむのは万華鏡をのぞくのに似ていて、いくら振ってもきれいに拡がってくれないこともあります・・・・・・
わたしは取り得のない人間です・・・・・・やりたいことが何もできません。実際、やりたいことが何もできないようなのです。ただ、
スパイになるだけ。わたしが撮った人の中にはもう死んだ人もいるし、すっかり変わってしまった人もいます・・・・・・
わたしには要領のいいところがあります・・・・・・利口というわけではないのですが、どんな状況にも自分を合わせていけるのです。
わたしの選ぶ写真のプロジェクトは、どうしてかマタ・ハリのようになります。ただ生命を賭けるのではなく、自分の人格や評判を賭けるのです-
それほどのものがあるわけではありませんが」と言って、ダイアンは笑った。
「人は誰しもひとりの人間にしかなれないという制約のために苦しむのです」


ダイアンはニュージャージー州ロゼールで撮った瓜二つの双生児のポートレートの前で足を止めた。おそらくこれは、
彼女のヴィジョンの核心-正常の中の異常さ、異常の中の正常さ-を、他のどの作品よりも端的に表現していると思われる。「可愛らしい双子で、
まったく正常だと思いました」と、ダイアンはつぶやいた。「でも、社会によっては、双子は異常だとされ、忌み嫌われるのです」


やがて、ダイアンはまた別のポートレートの前で立ち止まった。
髪を漂白した豊満なバーレスク女優が散らかった化粧台の前に坐っている写真である。ダイアンは言った。
「この人はバーレスクがすたれたときのまま変わっていないようです。いつもベティ・グレーブルの髪型をして、
コルクの中底のついたプラットフォーム・シューズをはいているのです」


意識的に歪めて撮るのかと聞かれて、ダイアンはこう答えた。「写真を撮るというプロセス自体に多少の歪みがともないます・・・・・・
でも、わたしは歪めることには興味はありません・・・・・・自分の意図とカメラの機能をあれこれとかんがえざるをえなくなります・・・・・・
カメラはまったく言うことをききません、だから、両方のバランスをとるようにせいいっぱい努力します・・・・・・詩情、アイロニー、幻想、
すべてがそこに組みこまれているのです」


彼女の作品をジョゼフ・コーネルの箱にたとえる人があり、特に安物の美術品に埋まっているアパートの「未亡人」
のポートレートを見てそう言うと聞かされて、ダイアンは喜んだようだった。「わたしはコーネルの秘密が好きです。
小さな箱につまったあの小さな秘密が。それから、スタインバーグとピンターの『ホームカミング』にはとても惹かれます。
あの劇のセリフにはたくさん秘密がありますから」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P431-P433)



マリオン・マジッドのアーバス写真に接した時の心理的体験分析

アーバスの写真に接したときの複雑な心理的体験を、マリオン・マジッドは『アーツ』誌で鋭く分析した。


「身近な人間の寝顔を見てその奇妙さに気づいた者なら知っていることだが、これを見て誰しも一種の罪悪感をおぼえずにはいない。
(アーバスの写真を)見て顔をそむけなければ、その人はかかわりをもったのである。小人や女芸人の視線をとらえたとき、
写真と見る者とのあいだに和解が成立する。あえて見たことによって、一種の浄化作用が働き、われわれはうしろめたい切迫感を解消する。
いわば写真がわれわれに見ることを許すのである。つまるところ、ダイアン・アーバスの芸術の偉大な人間性は、一見、
彼女が侵害したように見えるプライバシーを浄化しているところにあるのだ」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P430-P431)


 



2007/05/10

ダイアン・アーバス兄のハワードの写真論

「人びとのうちで、たとえば旅行者がそうだが、ある風景に接すると反射的に写真を撮ろうとする者は、わたしがみるところ、
人生にたいしてとても防衛的なのだと思う。彼らは死んだ現実を手に入れたがっているようだ。二次元の過去のみが真の(歴史的な)
実在だとでもいうように」


彼はさらに「カメラの第一の嘘」は「カメラは偽らない」とか、「一枚の写真は一千語に値する」という言葉だと語る。
物質文明の所産たるカメラが伝えるものは「『時間と空間におけるひとつの位置』(ホワイトヘッド)に置かれたもの」の外面にすぎない。
「それとは対照的に、言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、それはものそれ自体というより関係の所産なのだ。カメラは、
新聞記者がもとうと哲学者あるいは探偵がもとうと、秘密をさぐり、すべてを露出し、あらわそうとする・・・・・・カメラは知りたがる。
しかし、わたしの仮説が正しいとすれば、それによって得られる知識はつねに不満足なものであることが弁証法的に決定づけられているので、
写真を撮ることに終わりがありえない・・・・・・したがって粗略に扱われ、次の写真を撮るというかりそめの興奮の中で忘れられてしまうのだ」
。ハワードは次のように結んでいる。「写真(妹の芸術)にたいするこの批評は、無垢なものにたいする罪としての著述(わたしの芸術)と、
明確に対比させることを意図したものだ。たとえば、先に『言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、
それはもの自体というより関係の所産なのだ』と言った。これは審美的にはまったく筋の通った考えだと思うが、
もっと卑近な観点からも注目に値する。つまり、写真ではなく言葉と結びつくことによって、
わたしは両親のことをせんさくしてきたという非難からひそかに逃れようとしている。彼らの行ないはいぜんとして『目に見えない隠された』
ものなのだ」


『虚構の人生の日記』が出版されたとき、ダイアンは写真に関するハワードの考察は無視してほかの部分を読んだ。そして、
何よりも驚かされたのは、子どもの頃の記憶がそっくりだということだった。「わたしたちは同じ目録をもっている」と、彼女は語っている。
「ハワードは年のいかない少年の頃に味わった感覚を忘れることができなかった」。それは「(サンレモのアパートの)
エレベーターの前の窓のない廊下」に立ったときのもので「・・・・・・非常に不吉な感じだった。両側の扉は閉まっており、
三番目の引き戸も閉まっていた。それはぎりぎりの孤独をあらわしていた。(学校に行くためにエレベータを待っていたのだろうか?)」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



2007/05/08

年をとることについて、ダイアンアーバスの反応

一時期、ダンス教室に通って太腿の贅肉を取ろうとしたこともある。ひとりの女友だちが一緒だったが、
あるとき更衣室で着替えていたとき、ダイアンは彼女に年をとるのがこわいと打ち明けた。その頃、ダイアンはパームビーチの母親を訪ねた。
ガートルードはあいかわらず元気だった - なお美しく、「積極的で」、煙草を手放さず、買物を楽しみ、カード遊びに興じていた - が、
ダイアンの知っている他の人びとはそうではなかった。弱々しい老夫婦が -歩行器や杖にすがって - 日のあたる歩道をとぼとぼ歩いていた。
うつろな視線は虚空をさまよっていた。話題といえば心臓移植、使いやすい補聴器、動脈硬化や肝臓癌にかかった知人のことばかりだった。


そのような老人たちを目にすると、ダイアンはひどく気持ちが沈んだ。年をとりたくはなかった!
 肉体は老化するのに想像力は衰えないと思うとたまらなかった。自分の想像力が前よりもずっと鋭く、奇抜になっていると感じていたのだ。
あるとき、鏡にうつった美しい友人の顔を見つめながら、ダイアンは「あなたが羨ましいわ」とつぶやいた。年齢はあまり違わないのに、
彼女が皺ひとつなく張りきった滑らかな肌をしているので妬ましかったのである。そのあと、ダンス教室を出て通りを歩くときにも、
ダイアンは何度も羨ましいと繰り返した。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P460)



2007/05/07

ダイアン・アーバスからみたオズワルド夫人

ダイアンは、カメラを向けられる人間につきもののストイックな自己満足も観察しつづけた。その一例は『エスクァイア』
の編集室で撮ったリー・ハーヴェイ・オズワルドの母親のポートレートである。三十分しか時間がなかった。
オズワルド夫人がやってきたのは息子の手紙を雑誌に売るためだった。「息子の遺品を片っ端から売り歩いていました」と、
ダイアンは語っている。「それだけでなく、信じられないくらい誇らしげな顔をしていたのです -
 自分が世界一すごいことをやったというようでした・・・・・・経験をつんだ看護婦みたいにも見えました・・・・・・笑っていたけど -
 どこか不自然でした。何故笑っていたのでしょう? 何がそんなに嬉しかったのかしら? ほとんど話はしませんでした。
向こうは話をしたくてうずうずしていましたが。実際、彼女にとっては最高の瞬間だったのです。
(彼女の息子はケネディ大統領を暗殺したのですが)その様子は息子が何かすばらしいことをやってのけたというようでした。
息子を身籠もってからの四十年間というもの、自分がすべてを裁量してきたみたいで、信じられないほど威厳にみち、
誇らしげな表情を浮かべていました」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P392-P393)



ダイアン・アーバス、アメリカ横断旅行

1963年の晩夏に、ダイアンはマーヴィン・イズラエルにすすめられて、珍しくグレイハウンド・
バスで二週間のアメリカ横断旅行をしている。彼女は期待に胸をふくまらせていた。この旅行によって、祝いごとやページェント、
フェスティバル、コンテスト、家族の集まり、野球の試合などを撮影するというグッゲンハイムのプロジェクトが完成するはずだったからだ。


バスに乗ると、ダイアンはアメリカの広大な風景に目を奪われ、無数の新しい映像から目を離すことができなかった。
まばたきするあいだに、新しい世界を組み立てることができた。実りゆたかな果樹園、どこまでもつづくなだらかな丘、雨ざらしの廃車置場、
ネオンのきらめくモーテルがあった。工場、スラム街、葬儀屋、学校、動物園、ガソリン・スタンドがあり、
クレオパトラばりのどぎつい化粧をし、汚れたホームウェアを着た女たちがいた。あるバーでは、ジョン・F・
ケネディ大統領そっくりさんがよろよろと立ち上がり、ドイツ語で「わたしはベルリンっ子だ!」と叫んでいた。


旅先から、ダイアンは、未知のものを求める初めての冒険をともにしたフィリス・
カートンをはじめ幼な馴染みの友人に簡潔な文面の絵葉書を送り、別の友人にはこう書き送った。「何もかもすばらしく、息をのむばかりです。
わたしは映画の中でよくやるように、腹ばいになって前進しています。ばかげて聞こえるかもしれませんが、
人生がほんとうにメロドラマだということを知りました」


後年、ダイアンはこの全国横断旅行をして恐ろしい目にあったことをほのめかしたが、その経験がどういうものかはついに説明しなかった。
危険は刺激になったし、彼女はいつも危険をおかすことに喜びを感じていた。妥協は嫌いだった。危険だとわかっている相手でも話しかけて、
結果がどうなるかを確かめるのだ。それでいいではないか? 荒々しい洗礼を受けてはじめて「見ること」や「感じること」が可能になる。
カメラを盾としていればほんとうに悪いことなど起こりはしない、とダイアンは固く信じていたのだ。恐ろしいのは自分の内面だけだ、
と彼女は友人にもらしたことがある。外にあるものが自分に害を及ぼすはずはないのだ、と。


のちに、ドゥーンはこの旅行について知っているのはこれだけだと断って、次のように書いている。
アリゾナで臨時停車したバスに乗り遅れて、彼女の母親は「わっと泣きだし」、どうしてもニューヨークに戻り、
八歳になる娘のエイミーをサマー・キャンプへ迎えに行かなければならないと言った。「それを見て気の毒に思った人が、自分の車に乗せてくれ、
フルスピードでとばしてバスをつかまえた」。帰宅したダイアンは、この旅行は「力だめしだったが、なんとか切り抜けたので、
もうどこへでも行けることがわかった」と言った。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P380-P382)



ダイアン・アーバスにおける性

「ダイアン・アーバスほどあけすけにセックスを語る人はいなかった」と、フレデリック・エバースタットは言う。
「男にベッドを誘われて断ったことは一度もないと言っていた。そんな話を、ビスケットのつくり方でも説明するようにさらりと口にするのだ」


また故ジョン・パトナムはこう語ったことがある。「ダイアンによると、できるだけさまざまな人と性関係をもち、
肉体的にも感情的にも心理的にも真実の経験を重ねたいということだった。人間の殻を打ち破る最も手っとり早く確実な方法は、
性行為だとも言っていた。そういう経験を、ダイアンは『冒険』 - あるいは『イベント』 - と称していたが、実際、
彼女のすることすべてが『冒険』だった。自分の生活をそんなふうに語ることで、自分を高揚させ、正当化していたのだろう」


道徳の入りこむ余地はなかった。ダイアンに言わせれば、人間は男女を問わずに自由に、
できるだけ多くの変化にとんだ性関係をもつべきだった。しかし、そういった愛人たちから感情的に満たされるかどうかということになると、
話は別である。ダイアンは性のテクニックについては話すことができた - 硝酸アミル(オーガズムを長びかせるとされるドラッグ)
を使うとか、愛人のひとりからクライマックスに導かれ、エヴェレストの頂上に登ったような気分になるなどと。だが、
新たに長つづきする恋愛関係を保てるかどうか、あるいはそれを望むかどうか - 誰かに本当に打ちこむこと - については、
決して語らなかった。むしろ、もはや愛情など信じていないし、いわんや感情など問題ではないと言いきることが多くなった。


ダイアンの喜びは、多くの場合、いまでは自分が誘惑する側だということだった。写真の世界で成功するにつれて、
彼女はセックスの面でも積極的になった。カメラが彼女の身を守ってくれる盾であり、カメラをもっていれば禁断の場所に近づけるので、
彼女はそれを利用したのである。


ダイアンの話を聞かされた女友だちの中には、ダイアンが「安っぽいスリル」を求めているだけだと考える者もいた。
「彼女に自分の関係した男の話をされるとうんざりした」と、ある女性は語り、こうつけ加えている。「ダイアンの『冒険』
があんなに次元の低いものだとわかってがっかりしました。文字どおり流されているだけなのですから」。しかし、
中にはダイアンの勇気をほめる者もいた。ダイアンが「性交を通じて解放を求めている」(性の喜びを肯定する女性は政治的存在なのだ)
と信じたのである。つまり、ダイアンは性的要求を率直に認めるばかりでなく、実際に行動することによって、タブーを打ち破っているのだ、と。
(タブーを破ることにたいするダイアンの態度は、親しい友人たちによく知られていた。
自慰や生理の出血を誇らしく語ったのはダイアンが最初だったし、黒人に惹かれ、既婚者に欲望を感じるとも言った。)
ダイアンのためにヌードでモデルになったことのある若い画家、キャッシー・アイゼンはこう語っている。「わたしたちの世代の女性にとって、
ダイアン・アーバスはヒロインでした。でも、ダイアンは母親になる前にああいう奔放な生き方をすべきだったのです。
彼女の娘たちがどう感じているのか気になります」


だが、ダイアンは自分を革命的だとは思わなかったし、ましてや女権拡張論者だなどと考えたこともなかった。男性の愛人にたいしては、
自分の性体験を自慢しながらも、受け身の女の役割を演じつづけた。「ダイアンは二つの顔をもっていた」と、ある男性は語っている。「つまり、
性の犠牲者と貪欲な女という二つの面だった。わたしが彼女を求めなかったら、自分はだめになってしまったろうと言ったことがある」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P360-P362)



2007/05/06

ダイアン・アーバスに関する二人の証言

それに反して、ダイアンは仕事で金を得ることに複雑な感情を抱いていた。金をかせぐことを、いつも恥じていたのだ。「写真を売ると、
すぐにいい写真ではなかったという気がしてしまう」と語ったこともある。だが、こんな気持ちも、
新たな注文を引き受ける妨げにはならなかった。


『エスクァイア』のロバート・ベントンからは多くの依頼があり、ベントンに言わせると「ほぼ月に一件」の仕事があった。
こうしてダイアンは、奇抜な模様の敷物の上で子犬と踊っているストリッパーのブレーズ・スター、ジェーン・マンスフィールド母娘、
都市計画専門家のジェーン・ジェーコブズと息子、無神論者のマダリン・マレーを撮った。


「ダイアンは最新のコンタクト・シートをもって美術部にやってきたが、わたしはいつも驚かされた」と、ベントンは語る。「というより、
つねにこちらの予想をくつがえされたのだ」。乳房にスパンコールをつけたブレーズ・スターも、中流階級の理想のカップル、
オジーとハリエットも、でっぷり肥って誇らしげな母親となったジェーン・マンスフィールドも、
ダイアンが撮るとニューヨークの奇形者たちと同じような緊張感をはらんでいたのである。そのうちにベントンは「われわれ(写真を見る者)
も彼ら(撮影された人びと)とまったく変わりがない」ことに気がついたという。「それがダイアンならではの独特のスタイルだった -
 一見したところは単純だが、非凡なアプローチによってすべての対象と取り組み、相手が何者であろうと態度は変わらなかった。そして、
奇形者でも普通の人間でも、ある面では同じ存在だということを示す。ダイアンの作品の中では『奇形者』とか『健常者』
という言葉は意味がなくなってしまう。ダイアンにとってどちらも同じだし、相手によって手心を加えることもなかったからだ」


デヴィッド・ニューマン(ベントンと組んで仕事をしたことがある)もこう語っている。
「ベントンとサリーの結婚式の写真を撮ったときも、ダイアンはまったく手心を加えなかった。
あの写真はいまでもベントンの家の居間に飾ってあるが、じつにセンセーショナルな写真だ。しょせんは月並みだと思われる儀式を、
ダイアンは細部にいたるまで克明に記録している - 儀式こそ、ダイアンが執着していたものではなかったろうか?
 ダイアンは進行順序に従ってすべてを撮影し、自分もその一部になりきっていた。サリーが母親に手伝ってもらってウェディング・
ドレスを着ているそばで、ダイアンはシャッターを切りつづけていた。また、式の直後に、
リムジンの床に這いつくばって狂ったようにシャッターを切っていたのも覚えている」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P348-P349)



ニール・セルカークの証言

ダイアンの死後、彼女の焼付けをしたニール・セルカークによれば、「ダイアンはほとんどリリースを取れなかった」という。
ダイアンが生きていたら、彼女の作品をこれほど広範に展示するのは難しかったことだろう。モデルの多くが、
ダイアンの表現に強い不満を抱いていたからだ。しかし、セルカークが言うように「本人が死んでしまったので、
彼らはどうしようもないと思った」のである。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P441脚注)



2007/05/05

ダイアンアーバスとメイ・ウェスト

ダイアンは午後早くに着いた。ブラインドをおろした部屋には灯がともり、
ウェストは泳ぐような奇妙な足どりで影の中から姿をあらわしたが、いかにも傍若無人な態度だった。そして、シャッターの音を伴奏に、
健康食品や浣腸やセックスの美容上の効果などについてしゃべったが、それはいずれも若さを保つための努力だった。「日にあたっちゃ駄目よ!」
と、ウェストはしゃがれ声で警告した。「太陽の光にあたるとしわができる!」そう言って、
ウェストはもう何年も日中はアパートから出たことがないとつけ加えた。「太陽は大嫌いだわ」。ダイアンはそれに答えて、
自分もあまり太陽は好きではない。太陽はぎらぎらしすぎて神経にさわり、いらいらするし、まぶしくて目が開けられないからだと言った。
二人は、闇のほうがずっと好きだということで意見が一致した。


撮影がすむと、ウェストはダイアンに百ドル札を渡し、「ありがとう、ハニー」と言って、衣ずれの音とともに出ていった。
ダイアンはこれが習慣なのだろうと思った -1930年代に、
ウェストは映画のセットでスチール写真を撮るカメラマンにチップをはずんでいたのである。しかし、
ダイアンはお会いできてとても嬉しかったというメモをそえて、お金は返した。ところが、1965年1月号の『ショー』誌に、
ダイアンの皮肉な文章のついた写真が掲載されると、ウェストは激怒して弁護士を雇い、発行人のハンティントン・
ハートフォードに抗議する手紙を書かせた。「不都合かつ残酷で、まったく美しくない」ということだった。ダイアンは度を失った。
「モデルの中に自分が発見したものを相手が気に入らないと、彼女は本当に驚いた」と、チャーリー・レノルズは語っている。しかし、
そこにはダイアンがとらえた外面的なイメージ以上の何かがあって、それがつねに相手を困惑させたのだ。この場合、ウェストは -
肉体の曲線美を誇示しているが- 賞賛すべき女性には見えなかった。そして、
彼女の寝室の調度はハリウッドならではの現実のイミテーションでしかなかったのである。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



二人のダイアン・アーバス評

まさにこの頃 -1962年から64年- こそ、ダイアンの生涯で最も創造力とエネルギーのあふれていた時期だった。


ようやくローライにも馴れたダイアンが、それによって撮りはじめ、
1962年に撮り終えた一連の写真の中に大人の扮装をした子どもたちの写真がある。ダンス・コンテストにのぞむジンジャー・
ロジャースとフレッド・アステアのようなポーズをとる子どもたちのほかに、
おもちゃの手榴弾をもって難しい顔をしている少年を撮った有名な写真があり、これはセントラル・パークで撮影したものだ。


当時ダイアンは自分の作品をひたむきに撮りつづけるばかりでなく、『ショー』をはじめとするいくつかの雑誌の仕事もしていた。
もっとも、『ショー』のアート・ディレクターのヘンリー・
ウルフはダイアンの荒削りで生々しい作品にかならずしも満足していたわけではなかった。「グロリア・
スタイネムの記事につける写真をオハイオ州の映画館で撮影してもらったが、使えなかった -出来がよくなかったのだ- それに、
人間針刺しのポートレートも掲載しなかった。ダイアンはなんとかしてくれと言ったが」。ウルフは洗練された紳士で、その後ジェーン・
トレイヒー -のちに写真家となる- とともに広告代理店をつくって成功するが、彼はこう打ち明けている。「ダイアンを見ているといつも、
自分が人生を楽しんでいることに罪悪感をおぼえたものだ。ある晴れた土曜日のこと、重そうなカメラをぶら下げたダイアンと出会って、
『こんなすばらしい天気に写真かね』と声をかけると『不幸な人たちを探しにいくの』という返事だった。わたしはとてもついていけなかった」


しかし、1962年に『ショー』の別の記事でダイアンと一緒に仕事をしたアラン・レヴィの印象はまったく違っていて、彼は『アート・
ニューズ』にこう書いている。「ダイアンから自己紹介の電話をもらったが、笑いながらあなたの仕事をする写真家『のダイアン・アーバス』
ですと言った・・・・・・会ってみると、ほっそりとした小柄な女性で、黒いセーターに茶色の革のスカートという服装で、
十代の娘のようだった」。二人は組んで、ナショナル・シューズのテレビ・コマーシャルづくりをルポした。「雇われ仕事で、ディーアン -
誰もが彼女の名前をそう発音していた- と一緒だったこのときほど楽しい思いをしたことはなかった


(中略)


二人は一度だけ衝突した、とレヴィは書いている。『ショー』の仕事が終わったとき、レヴィは結果に満足したが、
ダイアンはそうではなく、写真の下に自分の名前が出るのをいやがった。(写真は小さく、つづき漫画のようなレイアウトだった。)
「それに反して、当時のわたしは、記事に二人の名前が並ぶことを何よりも望んでいた」と、レヴィは言う。「それで、
なんとか説得しようと思い、たしか一通だけ感情的な手紙を書いて、きみはぼくを傷つけていると文句を言った。彼女から電話があって、
名前を出してもいいと言われたのは締切日の前日だった」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスの裸の人びと

ダイアンの「裸の人びと」は、版元が見つからないために日の目を見なかったが、ヌーディスト・キャンプでの撮影は、
ダイアンにとってきわめて刺激的な経緯となった。撮られる相手にすっかり協力したからである。そもそも撮影の許可を得るために。
自分も裸になる必要にせまられたわけだが、これは彼女にとっても撮られる人びとにとっても覚悟のいるところだった。
「十分ぐらいは変な感じでしたが、それを過ぎれば何でもありません」と、ダイアンは言った。「ヌーディスト・キャンプは、
わたしにとってすごい素材でした」。ダイアンはヌーディスト撮影の体験をマーヴィン・イズラエルや娘たちや友人に繰り返し語ることによって、
その印象を整理していった。最初の印象は「幻覚の世界に入りこんだようで、しかもその幻覚が誰のものともわからない感じでした。最初は、
ほんとうにめんくらいました・・・・・・あんなに大勢の男の人が裸でいるのを見たことはなかったのです。
最初に見かけた男の人は芝刈りをしていました」


ダイアンはヌーディスト・キャンプについて多くの感想を抱いた。「あそこには社会の全階層が網羅されています。テント暮らしの人や
(ヌーディストになる人の大半は安あがりだからだということだった)トレーラーハウスの住人から、一戸 -それも大邸宅と言えそうな-
 を構えている人まで・・・・・・これは社会全体の縮図であり、そこでは誰もが平等だとされます -
ニュージャージーにはあちこちにヌーディスト・キャンプがありますが、それはニューヨーク州ではヌードがご法度だからです」


ダイアンは別の現象 -都市に住む、「かけす」と呼ばれるヌーディスト -についても語っている。この種の人びとはヌーディスト・
キャンプには参加しない -市内のアパートに住んで、帰宅すると衣服のすべてを脱ぎ捨てるのである。


ダイアンはあるとき、キャンプで刑務所の所長と会ったことがある。シンシン刑務所に勤めるその男は、
浜辺を散歩するヌーディストたちを何時間も眺めては、彼らが身につけているアクセサリーから職業をあてようとしていた。
ヌーディストたちは全裸ではあったが、男はパイプをくわえ、靴と靴下をはいていたし、煙草を靴下にはさみこんでいた。
また女性は帽子をかぶり、イヤリングやネックレスをつけ、ハイヒールやサンダルをはいていた。「ほんとうにいやらしい感じだった」
とダイアンは語っている。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスと小人・大男

ダイアンはもっと神話的なタイプに属する人びとを撮るようになった。小人や大男である。だが、
寓話の主人公のようなこうした人びとに惹かれる理由を説明したことはなかった。自分の芸術的な試みについて、
特に説明しようとはしなかったのだ。しかし、ダイアンのすぐれた作品は彼女が感じた魅力を端的に物語っている。
たとえばメキシコ人の小人のモラレスを、ダイアンは何年にもわたって繰り返し撮っており、彼の生活習慣や考え方まで知るようになった。
やがてダイアンは、上半身裸になったモラレスが帽子をかぶってベッドにうずくまるというポーズをつけているが、
この頃になると二人の親密な関係は誰の目にも明らかで、写真からはエロチックな雰囲気さえ感じられる。「写真を撮るのは、
相手を誘惑するのに似ている」と、ダイアンはジョン・ゴセージに言ったことがある。


体重495ポンド、身長が8フィートもある「ユダヤ人の大男」、エディ・カーメルの場合にも同じことが起こった。
ダイアンはエディを10年近くも撮りつづけたが、そのネガからプリントをつくったのは1970年になってからだった。
「それまでに撮ったのはただの絵だった」からである。初めてエディを撮ったのは、四十二丁目の保険会社の事務所であり、
彼はそこで投資信託のセールスマンをしていた。次に、通行人の頭上にそびえるような感じでタイムズ・
スクエアのゲームセンターを歩いているエディの姿を撮った。機嫌がよいとき、エディは詩をつくってダイアンに献げた -
「オデュッセウスを誘惑した海の精のカリュプソーみたいだった」とダイアンは語っている。「エディに一つか二つの単語を示すと、
たちどころに詩をつくってしまう」


ダイアンは彼の巨大さに圧倒されたが、彼が室内にひとりでいるところを撮るときには特に畏敬の念をおぼえた。
のちに学生にこう語っている。「横になっているときのエディは、ほんとうに感動的でした。まるで不思議の国のアリスのように見えるのです。
つまり、エディが長椅子をすっかりふさいでいる様子には特別な雰囲気があって、何と言ったらいいか-
 まるで山を前にしているようだったのです」


年とともに、ダイアンと大男のあいだにはある種の友情が育まれていった。そして、エディはこんな打明け話をしている。
すぐれた俳優になるという夢は捨てきれないが、テレビでもらえるのは怪物の役ばかりだ、と。(エディは『不死の頭』
という映画でフランケンシュタインの息子を演じ、男の腕を噛み切り、半裸の少女をテーブル越しに投げとばした。)あるとき、
エディはブロードウェイのショーの主役のオーディションを受けたと自慢した -『のっぽ物語』の背の高いバスケットボール選手の役である。
しかし、エディは背が高すぎて採用されなかった。ダイアンは『のっぽ物語』の原作、『ホームカミング・ゲーム』
を書いたのは自分の兄だと打ち明けたが、エディは特に感心したようでもなかった。


やがてエディは、ブロンクスの自宅にダイアンを招き、写真を撮ってもいいと言った。彼は、
普通の体格の両親とそこで暮らしていたのである。その当時、エディは骨の病気にむしばまれて死を免れない身だったが、
口癖のようにサーカスで働きたいともらしていた。マディソン・スクエア・ガーデンでリングリング・ブラザーズがサーカスの興行をしたとき、
エディは世界一のっぽのカウボーイの役で出演したことがあったのだ。


1962年から1970年にかけて、ダイアンはカーメル家の狭いアパートを何度も訪れ、
やっと自分の求めていたイメージをとらえることに成功した。大男が両親と向かいあっているところを撮ったもので、
ダイアンの作品の中でも最も印象的な写真の一点である。


あるとき、ダイアンは興奮した声で『ニューヨーカー』のジョン・ミッチェルに電話をかけた。「どの母親も、
妊娠しているとき悪夢に悩まされることをご存じ? 生まれてくる赤ちゃんが怪物だったらどうしようという? わたし、
エディを見上げているお母さんの顔を見てはっと思ったの。彼女はこう思っていたのよ。『ああ神様、あんまりです!』って」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスとアヴェドン

ダイアンはアヴェドンの人間離れしたエネルギーと絢爛たる才気に舌をまいた。
アヴェドンはローマの不気味な地下室でも精神病院でも同じように情熱をこめて撮ることができた。アヴェドンがその頃手がけていたのは、
動いているファッションだった。衣裳もヘアもメークも霧のようにかすんで豪華な雰囲気をかもしだすものである。
「リチャードはいつも自ら課題を設定して写真を撮り、それを解決していた」と、ダイアンは評している。
アヴェドンが最もはりきって取り組んだのは名士のポートレートだった。「有名人の顔は極端な状況とマッチする・・・・・・
彼らの顔をつくったのがそれぞれの業績だからだ」と、アヴェドンは説明している。早くも1948年に(その年から『シアター・アーツ』
誌の編集スタッフとして仕事をはじめたが、それは一介のファッション写真家に甘んじたくなかったからだ)、
彼はほとんど恭々しさの感じられる態度で『南太平洋』のメアリー・マーティンや『ミスタア・ロバーツ』のヘンリー・
フォンダといったスターたち、自分のエージェントのオードリー・ウッドの隣でよくポーズをとっているテネシー・
ウィリアムズの柔和なポートレートを撮っている。1958年頃には、ポートレートの範囲がショー・ビジネスの世界から芸術全般へとひろがり、
アヴェドンはいっそう大胆になった。


詩人のエズラ・パウンドが髪をふり乱してレンズに向かって何ごとか叫んでいる姿、しわだらけのアイザック・
ディネーセンが魅せられたように目をすえているところをとらえた写真などである。そのあとは一連の迫力にみちた映像がつづく、
疲れきって陰険そうな表情を浮かべているために警察の手配写真のように見えるドロシー・パーカーやサマセット・モームのポートレートである。


だが、ダイアンはアヴェドンの手法にひっかかるものを感じていた。彼のやり方はかならずしもフェアでないと思った。
印画に修整を加えてぼかしたり誇張したりしているため、フィルムに写った有名人の顔が歪曲されることもあったのだ。
それにダイアンがポートレートを撮るために気が遠くなるほど時間をかけるのにたいして、アヴェドンは写真を撮る相手といとも
「容易に親しくなれる」能力を活用していた。初対面の二人の人間が「十分間」だけ一対一で深い関係を結ぶのだが、「撮影が終わると、
ありがとうと礼を言って、その場から逃げ出す算段をする」のだ。エズラ・パウンドやマリリン・モンローを撮ったときの感想を聞かれて、
アヴェドンはこう答えている。「忘れた。撮っているときは夢中だから、相手が何を言い、自分が何を言ったかなんて覚えていないよ」。
覚えていられないなんて、ダイアンには信じられないことだった。彼女はすべてを覚えていた。だが、人さまざまだった。
ダイアンがこの頃信条としていたのは(スタイケンと同じく)、写真が「それ自体で完全なもの」だということだった。つまり、
全き真実をとらえた映像は事実に即したものであると同時に超越的なものでなければならないということである。
ダイアンは自分のポートレートの本質を美化したり、そこに細工をほどこしたりすることを望まなかった。ダイアンが望んだのは、
対象の生命を劇的に表現することだった。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



2007/04/08

アーバス、ローライフレックス

この時代の多くの写真家がそうしていたように、ダイアンも長年ライカを使っていたが、1962年にはローライフレックスに替えた。
カメラを替えたのは、ライカの平板な視野が自分の写真をいっそう非現実的にするからだと説明したことがある。
この頃には自分のプリントの粒子の粗さが気になりはじめていて、対象の質感をとらえたいとも思っていた。ダイアンの師のリゼット・
モデルもこう強調していた。「最も神秘的なのは、明確に表現された事実である」


サイズが6×6センチのローライを使うと、ネガの粒子はもっと目立たなくなって、望みどおりの明確な表現が可能になり、
その結果としてこれまで彼女の作品のきわだった特徴とされてきた一見して単純な古典的スタイルはさらに洗練されたものとなった。しかし、
最初のうち、ダイアンは新しいカメラによる映像の鮮明さに怖気をふるい、彼女の言う「新しい四角のフレームの融通のなさ」に手こずった。


ダイアンは、その頃ボストンにいたメザーヴィ夫妻にこんな手紙を書いている。「気おくれがして、ひどく滅入っています。
三五ミリのかわりに6×6センチを使うことに気がついたのはよいのですが、いまのところ結果としてあらわれたのは、
まったく撮れなくなったということだけです」


,(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスをしのぶ詩(兄である詩人ハワード)

自らの手で死を迎えたDへ


妹よ、きみはいまわのきわに

子供の頃の遊びを思い出したろうか-

きっときみも覚えているはずだ-

庭の狭い塀の上を走ったことを

それは山の尾根だった

雪の積もった急斜面が両側に拡がり

真っ暗な谷底へと落ちてゆく

きみは少しでもバランスを崩しかけると

落ちるのがこわさに、自分から跳びおりたね

死ぬときはこうなのだと

ほんの一瞬、思ったにちがいない。


遠い昔のことだ。そして、きみはもういない

もはや大人のゲームをやめたきみは。

闇の上にはりだした岩棚でバランスをとりながら

下を見ないで走りつづける。

落ちるのがこわいから決して跳びおりはしない。


ハワード・ネメロフ


(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスの死(2) その経緯

七月二十六日、アポロ十五号の宇宙飛行士が月に向けて打ち上げられた。シャーリー・クラークは、
ウェストベスの屋上にカメラを据えつけ、記録映画を撮ろうとしていた。全国のテレビとラジオが報じる打ち上げのニュースが耳についた。
「そのとき、これといった理由もなく、ダイアンの姿が心に浮かびました。彼女に電話すべきだと思いました-電話をしなければならない-
あの人はこの建物にいるのだから、と」


その日の朝、ダイアンは、カンディンスキーのデスマスクの写真をアンドラ・サミュエルソンの部屋の扉の下からすべりこませた。
アンドラに頼まれていたものだったが、ダイアンは彼女が在宅かどうかを確かめなかった。


そのあとで、ダイアンはピー・フェイトラーとラシアン・ティールームで昼食をとった。バッド・オーウェットから仕事の依頼を受け、
『ニューヨーク・タイムズ』の広告写真を撮ることになっていたが、オーウェットによればダイアンを見かけ、
彼女のテーブルへ行ってしばらく仕事の話をしたという。


その後、写真家のウォルター・シルヴァーもダイアンと通りで出会った。「撮影用の遮光幕をもっていた。風邪をひいたということだった。
ニューヨークを引き払ってどこかへ引っ越そうかと思っているなんて言うので、『冗談だろう』と言ってやった」


七月二十七日、ダイアンのアパートでは電話が鳴りつづけていた。ピーター・
シュレシンジャーがその週の後半に予定していた写真のシンポジウムの出席の確認をしようとして、何度も電話したのである。マーヴィン・
イズラエルも何度か電話をかけたが、応答がなかった。七月二十八日、イズラエルはウェストベスへ出かけていった。


そして、イズラエルは、ダイアンが死んでいるのを見つけた。両手首を切り、空の浴槽に横たわっていた。
ブラウスとスラックスを身につけていたが、遺体はすでに「腐敗がはじまっていた」。机の上に開いたままになっていた日記は、
七月二十六日で終わっており、「最後の晩餐」と走り書きされていた。


遺書らしいものは見つからなかった。リゼット・モデルはダイアンから手紙を受け取ったと言っているが、その内容を公表しなかった。
ダイアンが三脚にカメラをセットして、死にかけている自分の姿をとったという噂も流れた。しかし、警官と検視官がかけつけたときには、
カメラもフィルムも見当たらなかった。


叔父のハロルド・ラセックが死体公示所で遺体を確認し、姪がかねてから鬱病で苦しんでいたと証言した。
ニューヨーク市検視官のマイケル・ベイドン博士による解剖の結果、死因は「急性睡眠剤中毒」と断定された。


ガートルード・ネメロフはパームビーチでダイアンが自殺したという知らせを受け、すぐにニューヨークへ出向く手配をした。
ハワードとルネに知らせたのも彼女だった。

リチャード・アヴェドンは、訃報を聞くなり何もかもほうりだして次の便でパリへ飛び、自分の口からドゥーンに母親の死を告げることにした。


ウェストベスでは、ダイアンの自殺をめぐってさまざまな憶測が乱れとんだ。そして、
入居者のあいだでは誰がダイアンのアパートへ入るかをめぐって数人の芸術家がいさかいをはじめた。
「この建物ではいちばん広いアパートだったからな」と、ある劇作家は言う。「おまけに眺めもすばらしい」


ダイアンの葬儀は八十丁目のマディソン・アヴェニューにあるフランク・キャンベル葬儀社で行われたが、参列者は少なかった。
友人の多くは避暑に出かけて留守だったし、通知を受けなかった人もいた。八月一日付の『ニューヨーク・タイムズ』に簡単な死亡告知が出たが、
その他の新聞と、『タイム』、『ニューズウィーク』、『ヴィレッジ・ヴォイス』といった雑誌が死亡記事を掲載したのは、
八月五日になってからだった。


(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスの死(1) グロスマンの証言

七月十日は週末で、ダイアンはナンシー・グロスマンとアニタ・シーガルが住んでいるロフトを訪れた。「日曜日の午後でした。
ダイアンはひどく取り乱していました」とグロスマンは語っている。「ダイアンが『わたしたち、町をあさっていたのよ』と言うので、
マーヴィンと町を歩いていたのかと思いましたが、マーヴィンは一緒ではなかったのです。ダイアンはアニタとわたしのところにずっといて、
暗くなっても帰ろうとはしませんでした。


マーヴィンとは十二年もつきあってきたけど、会えないことが多く、彼の生活から締め出されているようで、
とても暗い気持ちになると言いました。夏にはいつも元気がなかったけれど、この夏もひどい状態でした。
マーヴィンの生活から締めだされていることに漠然とした怒りを感じ、すっかりとおちこんでいました。


ダイアンはとめどもなく涙を流しながら、くどくどマーヴィンの話をしたかと思うと、今度は仕事のことにふれ、
仕事によって何も得るものがないと言ってまた泣くのです。『仕事はもう何の役にもたたない』ということでした。
何ヶ月もかけて精神薄弱者の撮影にうちこみ、そのために精も根もつきはてるほどの思いをしたあげく、写真はよくない-
とても手に負えないのだ。この被写体には昔のように迫ることができなかった-これは自分にとって新しい対象なのだ。
現像してコンタクトをつくったが、プリントはしていない。急にどうでもよくなったのだと言い、『仕事はもう何の役にもたたない』
と繰り返しました。話を聞いているうちに、これは芸術家の身に起こる最も恐ろしいことにちがいないと思いました-
発見する意欲を失ってしまうことです。突然、何のいわれもなく、自分の作品から何も感じられなくなり、
そこから何も得られなくなるというのはどういうことでしょうか? 彼女の気持ちをひきたてようとして、
新聞を切り抜いて集めている一番新しい写真を見せましたが、まったく興味を示しません。そのうちに、ダイアンはアニタの膝に坐り、
こんどはアニタが慰めようとしましたが、ダイアンはただ泣くばかりでした。そして、こう言うのです。『二人とも好きよ。
あなたたち二人と寝られたらどんなにいいかと思うわ』。およそその場にふさわしくない言葉でした -ひどい暴言です-
 わたしは愕然としました。アニタとわたしは愛人同士ではなかったし、これまでもそういう関係ではなかったのです。
それに二人ともダイアンと性的な関係をもたなかった-そもそもどんな女性ともそういう間柄になったことはありません。
わたしたちはダイアンとは三年ごしの友人でした。よく顔をあわせていたし、とても親しくしていたけれど、
わたしたちのあいだにセックスは介在していなかったのです。いまにして思えば、ダイアンがあのとき望んでいたのは慰めだったのです。
くつろげる場を必要としていたのです。ちょうどロースト・チキンをつくっていたので、焼きあがったところでダイアンにごちそうしました。
ダイアンは何日も食べていなかったみたいにがつがつ食べました。そのあとで、また気が滅入ってしかたがないと言い、
さらにこの前のハンプシャー・カレッジでの講演の話になりました。写真家であるとはどういうことなのかを説明しようとしたそうです。
写真家は人間の魂をとらえることができる、だからこそ写真はとても不吉で神秘的なのだ、と。それから、どうしたはずみか、ニュー・
スクールで教えていたときの経験を思い出して、こんな話をしました。教室で授業をしている最中に生理がはじまって血が脚を流れ落ちた時、
『なんてすばらしい』と思ったというのです。ダイアンは生理を迎えるのが好きだったんです! 生理を喜び、生理痛を歓迎し、
出血を歓迎したのです-そのときは何かを感じ、無感覚ではなくなったそうです。思春期になってから、あらゆるもの-コーテックス、モデス、
タンポンなど-を試したと言いました。レクソールズ薬局で買った新製品まで使ってみたそうです-小さなコップのような形をしていて、
それで血を受けるのだそうです。そんな話をしながら、ダイアンは生理になった時の気持-自分が成人した女であることの喜びと誇り-
を思い出して楽しんでいるいるようでした。あとで、もっと気分が落ち着いてくると、ダイアンは画用紙に手型を押しました。
(いまでもそれをもっています。)わたしも手伝いました-ダイアンは掌紋を取ろうとして指をしっかり押しつけました。やっと帰るときには、
顔色こそ青白く疲れているようでしたが、それでも少しは気分が軽くなったと言っていました。ダイアンとは、これが最後になりました」


(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)