2007/05/10

ダイアン・アーバス兄のハワードの写真論

「人びとのうちで、たとえば旅行者がそうだが、ある風景に接すると反射的に写真を撮ろうとする者は、わたしがみるところ、
人生にたいしてとても防衛的なのだと思う。彼らは死んだ現実を手に入れたがっているようだ。二次元の過去のみが真の(歴史的な)
実在だとでもいうように」


彼はさらに「カメラの第一の嘘」は「カメラは偽らない」とか、「一枚の写真は一千語に値する」という言葉だと語る。
物質文明の所産たるカメラが伝えるものは「『時間と空間におけるひとつの位置』(ホワイトヘッド)に置かれたもの」の外面にすぎない。
「それとは対照的に、言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、それはものそれ自体というより関係の所産なのだ。カメラは、
新聞記者がもとうと哲学者あるいは探偵がもとうと、秘密をさぐり、すべてを露出し、あらわそうとする・・・・・・カメラは知りたがる。
しかし、わたしの仮説が正しいとすれば、それによって得られる知識はつねに不満足なものであることが弁証法的に決定づけられているので、
写真を撮ることに終わりがありえない・・・・・・したがって粗略に扱われ、次の写真を撮るというかりそめの興奮の中で忘れられてしまうのだ」
。ハワードは次のように結んでいる。「写真(妹の芸術)にたいするこの批評は、無垢なものにたいする罪としての著述(わたしの芸術)と、
明確に対比させることを意図したものだ。たとえば、先に『言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、
それはもの自体というより関係の所産なのだ』と言った。これは審美的にはまったく筋の通った考えだと思うが、
もっと卑近な観点からも注目に値する。つまり、写真ではなく言葉と結びつくことによって、
わたしは両親のことをせんさくしてきたという非難からひそかに逃れようとしている。彼らの行ないはいぜんとして『目に見えない隠された』
ものなのだ」


『虚構の人生の日記』が出版されたとき、ダイアンは写真に関するハワードの考察は無視してほかの部分を読んだ。そして、
何よりも驚かされたのは、子どもの頃の記憶がそっくりだということだった。「わたしたちは同じ目録をもっている」と、彼女は語っている。
「ハワードは年のいかない少年の頃に味わった感覚を忘れることができなかった」。それは「(サンレモのアパートの)
エレベーターの前の窓のない廊下」に立ったときのもので「・・・・・・非常に不吉な感じだった。両側の扉は閉まっており、
三番目の引き戸も閉まっていた。それはぎりぎりの孤独をあらわしていた。(学校に行くためにエレベータを待っていたのだろうか?)」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)