第一に、絶対的な価値や世界観が崩壊し、その反動から自由や個性の名のもとに相対主義に流される問題状況は、
ソフィストが活躍した古代ギリシアと現代日本に共通する。第二次世界大戦の敗戦によってそれまでの絶対的な体制「大日本帝国」が滅亡し、
「天皇制」が根本的に形を変えた。そうして成立した「戦後民主主義」の理想も形骸し、「高度経済成長」や「終身雇用」
といった神話も時代とともに姿を消した。東欧共産諸国やソビエト連邦が崩壊し、「共産主義」が幻影となると、保守的な資本主義が、
思想性のないままに社会を支配する。こういった反イデオロギー的な状況は生の拠り所や方向を見失わせている。
第二に、現代の相対主義は、「価値観はひとそれぞれで異なる」といった耳障りのよい標語を口にする。その背景には、
伝統的な哲学がとっていた真理や価値の絶対主義への反発がある。イデオロギーや発展史観への反動から、社会学や歴史学、さらには自然科学
(論)でも相対主義的な見方が蔓延している。歴史とは後世がでっちあげる物語であり、科学も時代ごとのパラダイムに過ぎない、
と相対主義者が昂然と唱われる。「真理など存在しない。人間が勝手に作りだしたものである」というその主張は、達観したようで、
ひどくシラケたものの見方を若者たちに提供している。それは、個人を自由へと解放するように見えながらも、結局は「国家、社会、大学」
といった体制の中で身動きできない状況を作り出している。しかも、それが根拠ないものであると自己に言い訳しながら、
それに従って生きざるを得ないというダブル・バインドに人々を置いている。とりわけ、学問世界に身を置きながら「相対主義」
の名のもとに既成の学問や価値を否定する教師たちに、拠り所を奪われた学生たちは、醒めた目を向けている。
第三に、「自分がそう思えば、それでよい」という、一人の思われに閉じこもる態度が、個人主義として蔓延している。「気持ちいい/
気持ちわるい」という即時的な快感に依存する立場は、他者との対話を拒絶し、独りよがりの生き方に引きこもらせる。そこでは、
経済力や権力への無批判の信奉が生み出される。現代の消費社会とコマーシャリズムは、ゴルギアス弁論術を信奉する若者カリクレスの
「快楽主義」を、まざまざと想起させる(プラトン『ゴルギアス』第三部)。
第四に、「神や宗教は所詮でっち上げであるが、信じられることで精神安定が得られる」といった、一見合理的な非宗教的態度が、
結果として、新興宗教などへののめり込みをもたらす。やはり、プロタゴラスらの啓蒙的な宗教批判の意義が、
西洋文明の一つの根として再考されるべきであろう。
第五に、「正義や法は、各社会や国家が決めたものに過ぎない」という社会相対主義が、実際には現実の力、たとえば、
超大国による小国への侵略や、政府軍による非力な住民の抑圧を「正義」と呼ぶような現状を容認し、暴力への諦め、権力・
宗教への盲従を引き起こす。このような現代の状況は、「民主政」
の名のもとに帝国として他の弱小ポリスを支配したアテナイでのソフィスト的言説、たとえば、トゥキュディデス『戦史』第五巻が描く
「メロス島対話」を彷彿とさせる。力と言論による他者支配については、ゴルギアスの言論を後で見る。また、
正義や法を人為の産物に過ぎないとする見方は、ソフィストたちの「法・慣習と自然本性」区別に由来する。それに依拠して、社会の「正義」
に根本的な疑問を向けるグラウコンのソフィスト的議論は、現代においてより現実的な力を持っている(プラトン『国家』第二巻)。
最後に、「個性的な生き方、自分らしい生き方、独自の価値観」を求めるという現代の社会幻想が、若者にプレッシャーを与えながら、
結局は画一的なファッション、落伍と無力感を生む状況を指摘しよう。「自分」など、安易に見出すことはできない。
自己が暗黙のうちに従っている価値観を相対化できずに、「自己」を甘く絶対的する傾向が、現代相対主義の一つの帰結である。
ソフィストと哲学者の間で、「他者」と「自己」をどう捉えていくかが、やはりこの状況を反省する鍵となる。
相対主義と多元主義との混同を整理し、健全な相対的視点た多元的な価値観を確保することは、現代における哲学の急務である。他方で、
ある絶対的なものへの希求が、人間が善く生きることにおいて本質的である限り、ソフィストの思想を丁寧に分析しながらも、
それと何らか根本的に対決することが、哲学の使命であり続ける。
(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)