佐高信(さたかまこと):加藤さんの実家を焼いた人は自分を「愛国者」だと思っているでしょうね。加藤さんは「愛国者」
じゃないという位置づけをする。しかし、愛国には、様々な方向があるというふうには考えない。
私はいま、夕刊フジに「西郷隆盛伝説」を掲載しているのですが、西郷は皆愛国者と思っているでしょう。
愛国者の代名詞のように考えられている。ところがその西郷は靖国神社に祀られていない。西南戦争で政府に歯向かったからです。
私は「靖国に参拝して何が悪い」という小泉氏に西郷のことを聞いてみたかったのですが、愛国は靖国の専売特許などではないということですよ。
つまり、加藤さんも私も、別々の方向から愛国者なんです。
私が安倍晋三氏をとてもいやだと思うのは、教育基本法でも何でも、すぐに愛国心というでしょう。私はそれをストーカーだと言っている。
愛を押しつけるストーカーですよ。政治家の役目は日本を愛される国にすることであって、愛を押しつけることではない。俺だけが愛国で、
あいつは違うというのが一番困る。
鈴木邦男(すずきくにお):右翼が愛国者になるのは簡単なんです。左翼なら、
マルクス主義とかそれなりに学ばなければならないでしょうが、右翼の場合は「俺は愛国者だ」、それで終わりなんです。
私は5000回君が代を歌いましたし、5000回日の丸を掲揚したし、500回靖国神社に参拝しました。
愛国者のノルマは達成したと思います。だから何でも言える。愛国心というのは自己申告なんです。それは心の中で持っていればいい。
公言するものではないと思います。
俺は愛国者だという人間に限って、愛国者でない人間が多い。同じような考えの二人が話すと、俺は一番愛国心を持っている、
俺は天皇陛下のために死ねるなどという話になって、大体声の大きい、過激な方が勝つ。ではその人が日本一の愛国者かといったら、
そんなはずはない。私はそういう人に何千人と会って来たけど、ほとんど嘘でしたね。
早野透(はやのとおる):今の臨時国会では、教育基本法改正案がテーマになっていて、問題の一つが愛国心です。
小泉氏も安倍氏も愛国心は学校で採点できないと言っているのですが、改正案反対運動の先頭に立っている小森さん、一言。
小森陽一(こもりよういち):愛国心というのは、歴史的に作られたもので、その起源もはっきりしています。
十八世紀末のフランス革命以後、国民国家(近代国家)が生まれた頃から国家にとってどうしても不可欠なものになったわけです。
それまで戦争は貴族とか武士とかプロフェッショナルがやってきたのですが、国民国家になると国民皆兵制になり、
農民も商人も戦争に動員される。国民全体に、国家のために人殺しは正しいと教え込まなければならなくなったのです。これが愛国心です。
今度の与党の新教育基本法案で、私がもっとも許しがたいと思うのは、第二条に「我が国と郷土を愛する態度を養う」とある部分です。
「我が国と郷土を愛する態度」を学校で示すということは、どういうことになるのか。日の丸遙拝や、君が代を大きな声で歌うとか、
そういう馬鹿げた世界になるのではないか。
学校を、国家の意思を子どもの体で表すような場にしていいのか。かつて日本の軍隊で、
態度が悪いと上官からぶん殴られて人殺しの専門家にさせられていったのと同じことになる。
二十一世紀の現在、とりわけ私たちの住む先進国の政治の役割とは何か、ということを考えます。つまり、かつて政治の機能は、
ニューディールであれ、社会民主主義であれ、どこかが儲かったらそれを政治力で再分配するということだった。
ところが新自由主義で、全部市場に任せよという時代になると、巨大な資本の集中が起きる一方でリストラされたりして落ちこぼれる人が出ても、
もはや国家は救わない。社会保障も医療保険も全部切り捨てていって、負け組は自己責任だから勝手にせよということになる。
そういう人たちの中に、下からのテロを生みだす土壌が生まれてきていると思う。
(「世界」 岩波書店 2007年1月号「いま「言論」の自由を考える」)