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2007/05/20

共和制における学校と哲学の位置

共和国においては、各々の村にふたつの重要な場所がある。ひとつは、選挙で選ばれた代表者が公共の事柄について議論をする役場であり、
もうひとつは教師が子供たちに教師なしで考えること、すなわち自律を教える学校である。いや、もう少し分かりやすいイメージを使えば、
国民議会とソルボンヌ大学ということになろうか。デモクラシーにおけるふたつの重要な場所は、寺院とドラッグストア、
あるいはカテドラルと証券取引所である。


共和国は、子供のなかに人間を見る。そして、たとえ子供を押さえ込んでしまう危険をおかしても、
子供のなかの成長すべきものに対して働きかける。デモクラシーは人間のなかの子供に気に入られようとする。
大人として扱うと退屈させてしまうのではないかと恐れるからだ。いかなる子供もそれ自体として愛らしいということなどない、
と共和主義者は言う。彼は子供が精神的に向上することを欲するからである。これに対して、
人間というものは突きつめれば大きな子供なのだから、みな愛すべき存在なのだ、とデモクラットは結論づける。もう少しはっきり言えば、
共和国は子供が嫌いで、デモクラシーは大人に敬意を払わないのである。


共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、
それは何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある。ところが、デモクラシーにおいては、反対に、
学校が社会に似ていなければならないのである。デモクラシーにおける学校のもっとも重要な任務とは、
労働市場に見合った生産者を養成することなのだ。その場合、学校は「社会に対して開かれて」いることが要求されるし、
また教育は各人が好きなように選ぶことができる「アラカルトな教育」でなければならない。共和国においては、学校は囲い壁の背後にある、
固有の規則を持った閉ざされた場所以外のなにものでもない。この社会から閉ざされているという性質がなければ、学校は、社会的、政治的、
経済的、宗教的な力の矛盾した作用に対して、独立性(ライシテ=非宗教性の類似語だ)を保つことができないのである。
学校についてこんな言い方をするのは、人間を彼の置かれた環境から解放しようとする学校と、逆に、
その環境によりよいかたちで送り込もうとする学校は、名前は同じでもまったく別物だからである。
共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出すと言われ、デモクラシーの学校は競争力のある馬鹿者を育成しているというわけだ。
これは両陣営による意地の悪い批判の応酬である。


共和国は学校が好きだ(そればかりか学校を讃える)。デモクラシーは学校を恐れる(そしてないがしろにする)。しかし、
両者がいちばん愛し恐れるもの、それは依然として学校における哲学教育である。
ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別するもっとも確かな方法は、哲学が高等学校で、
すなわち大学入学以前に教えられているかどうかを調べることである。
ヨーロッパのもっともデモクラティックな地域であるプロテスタント文化圏の北ヨーロッパでは、
高校最終学年で哲学教育の代わりに宗教教育がおこなわれている。デモクラシーの教育システムにおいては、
哲学はやってもやらなくてもいい情操教育の補完程度に考えられており、牧師と詩人が分担して受け持っている。他方、共和制では、
哲学は必修科目である。そして哲学教育の目的は何かといえば、それはさまざまな理論を提示することではなく、
生徒たちの心に問題意識を発生させることにある。共和制において、知識人を民衆に有機的に結びつけているのは、
生徒の社会的出自がいかなるものであろうと、学校なのであり、そのなかでもとりわけ哲学の授業なのである。


(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)


(補足1:カテドラルとはカトリック教区のこと)

(補足2:本文は1989年にフランスでおきた「イスラム・スカーフ事件」論争におけるドゥプレの意見を提示する形をとっている、
共和制において教育は重要であるのは間違いないが、底流に本事件があるのも忘れてはならないと思う)

(補足3:ライシテ(非宗教性)とは、日本で言うところの「政教分離」のこと。フランス憲法の第一条に示されている根幹にある原則。無論、
ライシテは宗教弾圧ではなく、諸々の宗教の共存を可能にする仕組み。学校では教師といえども宗教的表示する印「たとえば十字架」
を身につけることはない。)



2007/05/10

生活習慣病とは

プロパガンダの一つの特性は、形容詞を多様することにある。ナチ政権下では「抜本的」や「永久的」ということばや、「悪い科学」とか
「適確な・不適格な」という表現を多用した。


例えが好きで、ガンを「ユダヤ腫」と呼び、「遺伝子欠陥者は国家のガン」とか「ガンは内戦を画策する革命分子、無政府主義者、
ポリシェビキ、共産主義者だ」といった。「発生期のガンは身体中の、他の人種と異なる細胞の新しい人種とみなすべきで、
治療の目的は病因となる人種の撲滅にある」とも述べている。


ベルリン大学教授のハンス・アウラーは「第三帝国が国民の健康維持を基礎としていることは幸いである。遺伝学・教育・スポーツ・
大学院研究・ヒトラーユーゲントや突撃隊・親衛隊での体育・結婚資金貸付・家庭衛生・隣保事業・職業斡旋等々の政府の政策はすべて、
ガン予防の措置と見なしうる」と政策の全てを称賛した。


なぜナチのことを紹介したか。ナチと同じ心性操作が今のアメリカや日本に多いからだ。2000年に日本の社会保障審議会で、「成人病」
を「生活習慣病」と改称することに決定した。命名したのは委員の一人、日野原重明である。


1937年、ドイツの遺伝学者カール・ハインリヒ・バウアーは「ガンの発生は生活習慣病」という論文を発表し、1939年、
アルトゥル・ヒンツェは「生活習慣と宗教が世界各地のガン発生率の違いを生む」と研究発表し、両説は熱心なナチ党員に支持された。(
「健康帝国ナチス」 プロクター 草思社)


生活習慣病には自己責任の意味が含まれる。健康保険が赤字の現在、自己責任で自己を管理し、医療費を抑制し、
ゆくゆくは公的保険を廃止し、民間保険に切り替えることを目指す。すでに混合診療の名のもとに民間医療保険が開始されている。


ナチ政権下で国民健康保険が実施されたが、自己責任を果たさなかった者に医療費の支給を抑えた。同じく日本でも、
このことばがでてきた直後に、健康増進法がだされ「健康は国民の義務」とされ、介護保険が改正され、
多数の老人や障害者が公的施設から追放された。


矢島嶺は病気の原因は三つあると説く。一つは有害物質や細菌や事故やストレス、二つ目は遺伝や加齢、
三つ目は食生活や運動や喫煙や休養の生活習慣である。この三者の内生活習慣のみを強調するのは、政治的意図以外何ものでもないと説いている。
(Bricolage 0六年五月号)


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢 P117)