ヤニス・クセナキス
(ローマ字:Iannis Xenakis、英語圏の発音ではゼナキス、日本語の文献ではイアニス・クセナキスとも、
1922年5月29日 - 2001年2月4日)は、ルーマニア生まれのギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家。
建築と数学を学んだ後第2次世界大戦中にギリシャ国内で反ナチス・ドイツのレジスタンス運動に加わるが、負傷して片目を失い、
逮捕され死刑を宣告される。しかし何とか脱出しフランスへ亡命した。以後その生涯の大半をフランス国内で過ごす。
その後建築家ル・コルビュジエの下で働き、建築家として1958年のブリュッセル万国博覧会でフィリップス館を建設する。
このフィリップス館ではエドガー・ヴァレーズの大作電子音楽「ポエム・エレクトロニーク」が演奏され、
後に自作の電子音楽を大規模施設で上演する際の参考となった。
その一方で作曲を学び、パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンらに師事する。このときメシアンに「君は数学を知っている。
なぜそれを作曲に応用しないのか」と言われ、その慧眼に強い霊感を受ける。そして数学で生み出されるグラフ図形を元に、縦軸を音高、
横軸を時間と見做し音響の変化を綴る形で作曲したオーケストラ曲「メタスタシス」を1954年に作曲し、
ドナウエッシンゲン音楽祭で鮮烈なデビューを飾る。「メタスタシス」は3部よりなる管弦楽曲「アナステナリア」
(1952-54)の第3曲目であるが、あまりに作風が他とかけ離れて先鋭的であるため、これを独自に作品1とした。
その後も数学の論理を用い、コンピュータを使った確率論的手法(「ピソプラクタ」より採用)で多くの斬新な作品を生み出した。
日本の作曲家・ピアニスト高橋悠治の協力を得て、室内楽や独奏でも「エオンタ」や「ヘルマ」など初期から優れた作品を発表したが、
しかし特に管弦楽曲や電子音楽など多くの音群を自在に扱うことのできる分野でもっとも手腕を発揮した。中期の2つの傑作、
会場内に奏者がランダムに配置される管弦楽曲「ノモス・ガンマ」と、照明演出を伴う電子音楽「ポリトープ」(クリュニー、
モントリオールなどいくつかの版がある)で、彼の作風は一つのピークを迎える。日本の大阪万博では、「ヒビキ・ハナ・マ」(響き、花、間)
(1969年)という日本語の題を持つ多チャンネル360度の再生装置を伴う電子音楽を発表した。
その後作風は変化し、「メタスタシス」
以前の習作に見られるギリシャの民謡に基づくアイデアを混合させた作品を手がけるようにもなった。この分野の代表作では音楽劇
「オレステイア」(1965年)、「アカンソス」、「夜」等がある。
1970年代の作品では方眼紙を用いた直感的なグラフ作法と天性のバルカン半島的な韻律に基づき、
室内楽作品を中心に聴き応えのある作品が多い。
また電子音楽の作曲用コンピュータとして、ペンとタブレットで線形を描くと音響として反映されるUPICを1985年に開発した。
当時としては斬新な技術であり、グラフがそのまま音楽になるこの装置は、グラフィカルな作曲方法をとる彼ならではの発想といえる。
同じくグラフィカルな作曲を行う湯浅譲二もこのUPICを使用し作品を生み出している。
近年Timpani社からのリリースによって全貌が明らかになってきているのが、晩年の管弦楽曲の創作軌跡である。
ギリシャの韻律をそのまま転写したかのような平板なリズムに、クラスター状の音塊をモノリズムで動かすという大胆な癖のある音色に固執した。
「デマーシャイン」ではメロディーを常に半音重ねにしてあるために、凶悪とも言えるノイズィな音色へ傾斜してゆく。「キアニア」では
「ホロス」や「アケア」等の自作の引用なしでは筆が進まなくなっており、圧倒的な大音量の割には聴覚の飽和状態を生み、
技法の手詰まりを感じさせる[要出典]。
生涯を通じて多作であり、現代作曲家としては委嘱や演奏に恵まれた数少ない例といえる。晩年は京都賞を得て来日もしたが、
既に執筆原稿は高橋悠治の校正なくしては読めるものにはならず、徐々にアルツハイマー型痴呆症に冒され作曲が困難となった。
1997年に書いた作品に「オメガ」(ギリシャ語の最後の文字)と題名をつけ作曲行為に自ら終止符を打ち、2001年にその生涯を終えた。
作品はサラベール社より出版されている。唯一の公称の弟子にパスカル・デュサパンがいる。
妻のフランソワーズ・クセナキスは作家。最近作のRegarde, nos chemins se sont ferme's(見よ、
我らの道々は閉じられている)は、夫ヤニスの晩年の闘病記を元にした私小説である。
(Wikipedia 「ヤニス・クセナキス」から)