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2008/12/14

あるカメラマンの死

「あんまり、こうマッチョにしないでねっていうか、こう、わかるだろう?マッチョっぽくされちゃうと、どうもさあ・・・・・・」

最初のインタビューを終えた夕暮れどき、南アフリカの写真家、ジョアオ・シルバは少し遠慮がちにそう言った。あまり、おどろおどろしく書いてほしくない、ということらしい。戦場を駆け回るカメラマンが、米国のピュリッツァー賞を受賞直後、自殺する。その背景をまとめた米国の雑誌『タイム』や、『ニューズウィーク』を彼は指している。

確かにどれも自殺したカメラマンの繊細さ、戦場報道でこわれていく心の軌跡を、あまりに「できすぎた物語」として描いている。

自殺した写真家の名はケビン・カーターという。ジョアオはその友人で、やはり南アフリカをベースに主に戦場の写真を撮るカメラマンだ。私がケビンの自殺の背景を調べ始めたのは、彼が撮影した「ハゲワシと少女」という写真がきっかけだった。スーダン南部で撮られ、一九九四年に米国のピュリッツァー賞を受けた写真だった。

私が初めてその写真を目にしたのは日本でだった。多分、新聞で目にしたのだと思う。そのときの微かな驚きと、少し眉を寄せいぶかるような気持ちになったのをよく覚えている。

砂漠からサバンナへと変わるブッシュ帯。手前に、やせ細った黒人の子がまるでイスラム教徒がモスクで祈るような姿勢で地面に突っ伏している。その奥、数メートルのところにハゲワシが羽をおさめ、何かを待っている。ハゲワシはよく見るとのんびりしているようにも見えるし、獲物に目を光らせているようにも思える。いや、特に目的もなくただ、そこにいるだけなのかもしれない。実際に何が起きていたのかはわからない。でも、写真を見た多くの人々ははっきりとしたメッセージをそこに感じとる。

「アフリカの戦場では子供たちがハゲワシの餌食になっている。世界にはこんなにも悲惨な生がある」

私の中にそんな言葉が浮かび、この写真を撮った人物は、そのとき、どんな様子だったのか、なぜ、こんな場面に出くわすことになったのかと、そのことに関心が向いた。

アフリカの原野に住んでいれば悲劇はあるだろう。だが、この写真にはそんな不慮の事態をとらえた「決定的瞬間」以上のものがあるように思えた。同じころ、ニュースで四国の少女が土佐犬に噛み殺されるという事件があった。それは、とても不幸な不慮の事故と言えるが、それ以上のはっきりとしたメッセージはない。なぜなら、現場が日本だからだ。だが、このハゲワシの前に突っ伏した少女は、アフリカでも特に肌の色が濃いスーダンの女の子だ。それだけで世界に配信される写真には、アフリカ、戦場というキーワードがついてまわり、すぐさま政治的な意味が加わる。

私がアフリカに暮らしてからもなおこの写真にこだわっていたのは、「アフリカのリアリズム」というものについて考え続けていたからだ。悲惨さの脇に普通の人々の日常がある。悲惨な風景の中にさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある。だから、アフリカを日本に伝える者として、悲劇のイメージばかりを送り出すことに、次第に抵抗を感じるようにもなっていた。でも、ケビン・カーターのあの写真にはそんな生半可な思いを打ち砕く衝撃力があった。

あの写真はどうやって生まれたのか。取材を始めたのはアフリカに来て二年が過ぎた九七年のことだった。

撮影の前になぜ少女を救おうとしなかったのか。写真をめぐる議論は主に米国の週刊誌メディアでふくらみ、ケビンはそんな批判にたえかねて自殺した、という風聞が南アフリカでも広がっていた。だが、人はそんな風にきれいに死ぬだろうかという疑問が私にはあった。そんなことをたずね歩き、たどりついたのが、ケビンをスーダンに連れていったもう一人の写真家、ジョアオ・シルバだった。

歯切れのいいジョアオの言葉は痛快だった。彼が多用する「クール(いかす)」という、やや気安い、子供っぽい英語表現も心地良かった。戦場が好きな写真家でありながら、男らしさなどかけらもなく、趣味の自動車レースやプラモデルづくり、テレビゲームに熱中するタイプだった。

 

一九九三年三月十一日、スーダン南部コンゴール州のアヨド村。ケビンが、目の前にいる少女とハゲワシのどちらにピントを合わせようかと迷っていたとき、ジョアオはそこから数百メートルのところにいた。

「時間は三十分しかない。だから、俺たちは走り回ってた。村々に食料を届ける国連機、オペレーション・ライフライン・スーダンっていうやつ、聞いたことあるだろ?それに乗れるっていうんで、俺はケビンを誘っていったんだ。あのころ、あいつ、もう生活が完全に破綻してて。アルバイトでやってた深夜のディスクジョッキーの仕事も、トークラジオの仕事も契約が取れなくて、離婚もしてて、まともに食えなくて、変な女につかまって、麻薬づけになってて。だから、『おい、ケビン、行くぞ、アフリカの真ん中、スーダンに行くぞ』って、引っ張っていったんだ。あいつ、質に入れてたから、手元にカメラもなかったんだ」

「国連機に乗って、平原みたいな、一応滑走路みたいなところに降りたんだんだ。職員が『三十分後に離陸する』っていうから、俺たちはもう必死に走り回った。絵はないか、絵はないかってね。お前はあっち、俺はこっち行くからって。俺? 俺はあのとき、ゲリラいるだろ?ゲリラ。連中が二つに割れたって聞いていたんで、でもはっきりとした証拠もないから、ゲリラ兵に会えないかなって思って、村っていうか、小屋だけの集落を見て回ったんだ」

「俺たちが降りて、ミーリーズ(食糧のトウモロコシ粉)を下ろし始めたら近くにあった避難民の小屋から女たちがわーっと一斉に飛行機に近づいてきた。まあ、普通の光景だから、適当に何枚か撮って。俺は、『兵隊、兵隊』って、ゲリラばかり探してた。ケビンはそのとき飛行機の近く、数十メートルのところにずっといたみたいだ」

ジョアオは初対面の相手にはいつもこうなんだろうか。時に立ち上がり、両手を広げてややオーバーな演技をしながらひとり語り続ける。それは、もしかしたら、照れくささや気恥ずかしさを隠す一つの防御反応かもしれない。

狭い仕事部屋の破れたソファの上を猫が時折、関心なさそうに行き来する。壁には友人の写真家が撮った南アフリカの内戦時の写真や、ポスターが無造作に張られ、書棚にはネガの入った小型の段ボール箱が山積みされている。本などない本棚にはつくりかけのホンダの大型バイクの模型が大事そうに飾られていた。

「あいつ、南アフリカ、ソウェト(ヨハネスブルグ南西の黒人居住区)のドンパチは知っているけど、飢餓の取材は初めてだから、ショックだったみたいで、しきりに飢餓の子を撮ってた。ショックっていうか、まあ、あいつは、何ていうかエキセントリックなとこ、あるから、ああいう光景に参りやすいじゃないかな、結構。俺とか、大丈夫だろ。見るものは見ると、さて、じゃあ、次どうしようかって。いちいち立ち止まって感傷にふけったりしないだろ。そんなの後ですりゃいいって。俺?俺はもう飢餓は何回も見ているから。あ、またかって感じ?はいはいってね。だけど、そりゃ撮るよ、一応は。ゲリラ撮れなかったときのための予備っていうのか。そうそう。えーと、この写真。あんた来るっていうから用意しといたんだ」

ジョアオが差し出したプリントにもやせ細った少女が写っていた。同じ少女か?一瞬そう思うほど、よく似ていた。この少女もやはり両手で目をふさぎ、それもまた、見ようによっては祈るような格好をしている。「三匹の子豚」の物語で最初にオオカミに吹き飛ばされてしまったような小屋が干し草の平原をバックに写っている。

「これは?」

私の興味深げな様子に満足したのか、ジョアオは嬉しそうに言葉を続ける。

「この子、ケビンの写真と同じ子って思うだろ。実は、違うんだ。ほら、見てみ。こっちの子は白いビーズの首飾りつけてるだろ。でも、俺の方の写真の子はつけてないだろ。これ違う子なんだよ。俺もやっぱり一応はケビンと同じような写真を撮ってたんだ。で、俺の写真?結局どこにも載らなかったな。いや、南アフリカの新聞に載ったかなあ。そのとき?だから、ゲリラ兵がいないから、まったくしょうがねえなあって思って、そしたら一応、飢餓の子も撮っておこうと思って、構えて、待って、動きが欲しいなっていろいろ、角度決めて、そしたら目をふさいで泣くような格好をしたから、カシャカシャカシャって何枚か撮って。
さあてと、兵隊いないかなってまた歩き出したんだ。そんなもんだろ。親?親はすぐそばで食糧もらうのにもう必死だよ。だから手がふさがってるから、子供をほんのちょっと、ポン、ポンとそこに置いて」

「ケビンが撮った子も同じ。母親がそばにいて、ポンと地面にちょっと子供を置いたんだ。そのとき、たまたま、神様がケビンに微笑んだんだ。撮ってたら、その子の後ろにハゲワシがすーっと降りてきたんだ、あいつの目の前に。あいつ?あの時、カメラ、借りてきたやつだから、180ミリレンズしか持ってなかったんだ。だから、そーっと、ハゲワシが逃げないように両方うまくピントが合うように移動して、10メートルくらい?そのくらいの距離から撮ったらしい。で、何枚か撮ったところで、ハゲワシは、またすーっと消えていったって」

「見てみろよ。おんなじような写真撮ってて、あいつの前にたまたまハゲワシが降りてきて、そんでもってポーンとピュリッツァー賞。俺の前には何も降りてこなくて、はい、普通のボツ写真。ま、そんなもんよ。戦場で撮っているとそうだろ。一瞬だよ、一瞬。ドンパチが始まって、たまたま道路一本隔てた死角にいたら、何も撮れなくて、たまたま、銃撃戦のちょうど真ん中の戦車の陰かなんかにいたら、すべて見渡せて、いい絵が何枚でも撮れる。そんで、ハイ、どんぴしゃっとピュリッツァー賞」

そばに母親がいて、子供をちょっと置いただけ。そんなたわいのない真相が私には意外だった。なぜなら、その少女は、あの原野の中に一人でたたずんでいたと勝手に思い込んでいたからだ。

「時間がないんでケビンのところに戻ったら、あいつ仰向けになって、煙草スパスパ吸って、空に向かってうわごと言ってんだよ。俺はその時点では、そんなすごい写真撮ったって知らないから、また、ケビンがおかしくなっているって思っただけだけど、あいつ、『アイヴ、ガッタイトゥ(撮った)、やったんだ、撮ったんだ、すごいの撮った、俺、撮ったんだ』なんて涙流さんばかりに興奮してて、またこいつがって思って『行くぞ、行くぞ』って言ったら、『家に帰って、娘(当時九歳)を抱きしめたい』なんて言うから、これはまともじゃないって思ったけど、こっちは写真をまだ見てないから、彼が本当のところどんな気持ちだったのか、そのときはわからなかった」

ナイロビに戻り写真を焼いてみて驚いた。

「こりゃ、すごい写真だって思って、すぐに『ニューヨーク・タイムズ』の知り合いに売り込んだんだ。そしたらなかなか載らなかったけど、何日かたって一面にでかく載ったんだ」

写真「ハゲワシと少女」は三月下旬の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面にカラーで掲載された。撮影から十日あまりが過ぎていた。

絶賛と共に、「撮影など振り捨て、なぜ、真っ先に少女を助けなかったんだ」という批判が米『タイム』誌などを中心に沸き起こり、報道のモラルを問う論争に発展した。『ニューヨーク・タイムズ』はその後、異例のおことわりを掲載する結果になった。

「撮影者の報告では、ハゲワシは追い払われてから、少女は再び歩き始めるまで回復した」と。

ケビンはこうした批判に反論しなかったが、地元紙にこう答えている。

「ああいう現場に行ったこともない人間に個人的な体験を話してもしようがない」

「状況や暴力について陳腐な意見を聞くと、俺の脳はシャッターを下ろしてしまうんだ」

でもジョアオに言わせれば、本人はかなり気にしていたそうだ。

「『お前は良いことをしたんだ。あのすごい写真を撮って、それがロンドンのヒースロー空港の看板にでかでかと載って。義援金が集まって、スーダンに送られて。とにかくお前は正しいことをしたんだ』。そう言っても、あいつはまたしばらくたつと、話を蒸し返して、ひとり気にしていた。もともと繊細なんだ、あれは。だけど、俺に言わせりゃ、少し馬鹿げているよ、少女を救えだなんて。救えったって、すぐそばに母親がいるんだぜ。アフリカの女は怖いんだよ。下手に勝手に子供を抱き上げたりなんかしたら、何すんのって母親が大慌てで飛んできて、どやされるよ。手出しなんかできるかよ」

ケビンは女づき合いにだらしがなく、自堕落を気取っているところもあった。その半面、自信がなく過敏で、他人の視線を常に気にしている弱さもあった。アンゴラの内戦の徴兵を逃れた二十代のころは躁うつ病で通院し、二度も自殺未遂を起こしている。

アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アで、黒人居住区の戦闘写真で名をあげ始めた八九年八月、地元紙の写真コラムにこんな一文を残している。

「写真報道とは奇妙な商売だ。私は仕事の大半を劇的な場面探しに費やしている。そんな中、手っ取り早く売れるのは、紛争中の人間たち、ヒューマン/ドキュメント、そして暴力だ。その手の写真を見て大喜びする読者が多いからだ。じゃあ、なぜ撮るのかと聞かれればこう答えるしかない。私はただ、自分の写真が載るのを見たいだけだと」

彼はこのころから、センセーショナルな写真を撮ることに疑問を抱き始めている。興味深いのは最後の一文、彼の開き直ったような口ぶりだ。

「おれはただ、自分の写真が紙面に載ればいい、それだけだ」

あえてそう言い切ってしまうところに、彼のやや過剰な自意識がある。

九四年七月二十七日未明。ピュリッツァー賞受賞決定から三ヶ月、授賞式から一ヶ月もたたないその日、ケビンはヨハネスブルグ郊外サントンにある自宅近くの緑地公園に車を止め、愛用の薬物、マンドラクスを吸いながら、車内に排ガスを引き込み自殺した。遺書の冒頭には「パパとママ」と書かれ、その下に電話番号。その下に「親友たち」とあり、すでに死んだカメラマンの友人の名と、カッコでくくられた別れた妻の名と電話番号、そして「ジョアオ・シルバ」と彼の番号がある。その脇には小さな字で「言葉にできないほど彼(ジョアオ)が好きだ」と記されていた。

(『絵はがきにされた少年』 藤原章生 集英社 「第一章 あるカメラマンの死」から)



2008/12/07

ケビン・カーターさんの告白

「国連などの食糧配給センタ-から500メ-トル離れたところで一人の少女に出会った。こんな風にうずくまって(真似をして見せる)必死に立ち上がろうとしていた。その光景を見たあと、いったんはその場を離れたが、気になってもう一度引き返した。すると、うずくまった少女の近くにハゲワシがいて、その子に向かって近づいて行った。
その瞬間、フォト・ジャ-ナリストとしての本能が“写真を撮れ”と命じた。目の前の状況をとても強烈で象徴的な場面だと感じた。ス-ダンで見続けてきたもののなかで、最も衝撃的なシ-ンだと感じた。自分はプロになりきっていた。何枚かシャッタ-を切ってからもっといい写真を撮るのにハゲワシが翼を広げてくれないかと願った。15分から20分ひたすら待ったが、膝がしびれはじめ諦めた。起き上がると、急に怒りを覚え、ハゲワシを追い払った。少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ-の方へよろよろと歩きだした」
「この後、とてもすさんだ気持ちになり、複雑な感情が沸き起った。フォト・ジャ-ナリストとしてものすごい写真を撮影したと感じていた。この写真はきっと多くの人にインパクトを与えると確信した。写真を撮った瞬間はとても気持ちが高ぶっていたが、少女が歩き始めると、また、あんたんたる気持ちになった。私は祈りたいと思った。神様に話を聞いて欲しかった。このような場所から私を連れ出し、人生を変えてくれるようにと。木陰まで行き、泣き始めた。タバコをふかし、しばらく泣き続けていたことを告白しなくてはならない」

(NHK教育「メディアは今―人命か報道優先か・ピュリツアー賞・写真論争―」94・6・30放送)

参考:ネットジャーナル「Q」 第153回 再考「ハゲワシと少女」の写真(08・11・30記)



2008/04/22

生そのものの実情

死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情、そして、生そのものの実情である。だから、病人の生を肯定し養護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである。

(『病の哲学』小泉義之 ちくま新書 218頁)



カンギレムの健康と病気

健康、あるいは病気というと、私たちは大体、こんなイメージをもっている。健康診断で検査を受けると、血圧にしても、肝臓の状態を示すGOTやGPTにしても、血糖値にしても「基準値」というのがあって、それより低かったり、高かったりすると「あら?」ということになる。健康というのは、ある境界をもった域内におさまっていることで、その反対に病気というのは、その領域からはみ出してしまっていることだ。そんなふうに私たちは通常イメージしている。

ところが、カンギレムは、こういう私たちのイメージとはまったく逆とも思えるようなことを言う。「健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみでる可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範を設ける可能性である」(「正常と病理」法政大学出版会、175頁)。つまり健康というのは、囲い込まれた領域のなかにおとなしく、あるいは行儀よく止まっていることではなくて、むしろ、その領域を自由にはみ出ることができることなんだ。あるいは、状況に応じて、通常とは異なる生の様式を自在にとれることなんだ。あるいは、規範に律儀に従うことではなくて、むしろ規範を壊したり、つくりなおしたりすることなんだ、というわけです。場合によっては食事を一回や二回とらなかったり、終電車に間に合わなければ歩いて家に帰ったり、そんな無茶ができること、それが健康なんだとカンギレムは言う。

その逆に、病気は、規範からの逸脱ではなくて、むしろ一つの規範に忠実でありすぎること、そこから逸脱したり、はみ出たりできないこととして定義される。「病気もまた生命の規範である。だがそれは、規範が有効な条件からずれるとき、別の規範に自らを変えることができず、どんあずれにも耐えられないという意味で、劣っている規範である」(同書、161頁)。カンギレムは、さらにこうも言う。「病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である」(同書、164頁)。生が一つの規範しか受け入れないほどに硬直化すること、それが病気だとカンギレムは言う。

(『病と健康のテクノロジー』市野川容孝・松原洋子対談 市野川容孝の語り)



2008/02/13

プレイス・リテラシー

――場所に関するリテラシー、エコロジカルなリテラシー、環境に関するリテラシーを持たねばならな
くなってきた……。

ときどき冗談で他のひとをテストしたりすることがありますよ。町や通りの名前を用いないであなたの
家まで人を案内しなさい、というテストです。自然の特徴だけを使って説明するのです。

――樹木や草の名前を知らないといけないのですか。

いや、それよりもクリークや丘の名前を知らないといけない。たとえば町や道路の名前を一度も言わな
いで、友人を私の家まで案内するにはどのように説明すればいいのだろうか。このようなことは、自分
のすんでいる場所をよく知っていないとできませんね。

――このようなプレイス・リテラシー、あるいはエコロジカル・リテラシーは徐々にアメリカ社会に浸
透しつつあると感じますか。

そういうことが始まってきていると思います。アカデミックなレベルでは、私はよくこう言う。つまり、
マイノリティーは周縁化されていたが発言権を獲得した。女性も周縁化されてきたが、ついには発言権を獲得するようになった。さて、いまは自然が発言権を獲得する番だ、いつまでも周縁化するわけにはいかないはずだ、それに人間はいつまでも自然の声の抑圧者でいるわけにはいかない。そして人間はいつまでも場所を抑圧しないで、場所の声に耳を傾けるべきだーー。まあ、こんなことを言ったりするわけですが、耳の痛い話であるかも知れませんね(笑)。

――でもこのような議論から逃れることはもう難しくなってきましたね。

彼らが受けたリベラルな教育のパラダイムからすればこのような視点を無視することはできないはずです。教育のある人は文化的な事柄を知っているのと同じ程度に自然を知るべきだと思いますね。

――場所の文学は新しい文学だと思いますが、読者がそこから学ぶものがあるとすればそれはどのようなものでしょうか。

いくつかの視点から考えることができると思います。たとえば、同じ場所に住んでいる読者には、その
場所に関するさらに深い洞察をもたらすでしょうね。読者の場所の感覚がさらに深まるはずです。また、ちょうど人間の関係を描く小説は読者の人間関係に対する理解を深めるように、場所についても同様のことが言えます。もちろん、場所の文学は人間をも巻き込んだもので、場所だけを描くものではない。それはノンヒューマンの世界と人間との複雑な関係を示唆するものです。だから、21世紀の世界で我々がやるべきことは、人間はどこにいても自然のコンテクストの中で生きているということ、人間は場所を喪失し場所から引き離された存在ではなく、自然の中に生きているということを示すことだと思います。現代人は自らは他の存在に依拠しないで自立して存在しているという幻想を抱いていて、そこから世界の破壊が始まった。場所の文学は倫理的にも、政治的にも、このような幻想を断ち切る契機になるものだと思います。
都市の工業化された世界でも我々は場所に住んでいるのです。この世界は我々だけのものではなく、他の生物たちのための世界でもあるということを理解しなければならない。だから、バイリージョナリズ
ムの思想は、究極的には我々はすべてがこの地球という惑星の住人であり、地球はひとつの流域だと主張するのです。私たちはだれもがひとつの生態系の中に生きているのです。


Gary Snyder
1930年5月8日、サンフランシシコ生まれ。オレゴン、ワシントンの森林地帯で少年時代を過ごす。
リード大学で言語学、人類学を専攻。同校卒業後、きこり、山林監視員、水夫などに従事する一方、カ
リフォルニア大学バークレー校で、中国古典を学ぶ。55年、ギンズバーグ、ケルアックらと出会い、仏
教やヨガといった東洋思想を伝える。56年、来日。通算八年間、京都の大徳寺などで臨済禅の修業を体験。禅のほかにヒンドゥー教、真言密教、アメリカ・インデアンの神話などに造詣が深い。
59年、最初の詩集『Riprap』を発表。75年に『亀の島』でピューリッツアー賞を受賞。97年、ボリンゲ
ン賞。98年、仏教伝道文化賞。現代アメリカを代表する詩人。

(「Hotwired Japan」 1998年9月1日 から引用)



2008/02/07

『良心の領界』 序 「若い読者へのアドバイス」

若い読者へのアドバイス…
(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
検閲を警戒すること。しかし忘れないこと——社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。

本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。

自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。

動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基礎になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。

暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を持たず、冷蔵庫と電話のある住居をもたないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません——女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。 傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。

良心の領界を守ってください……。

2004年2月

スーザン・ソンタグ


『良心の領界』 スーザン ソンタグ (著)、木幡 和枝 (翻訳) (NTT出版)



2007/12/14

三木清 「人生論ノート」 旅について

旅について
ひとはさまざまの理由から旅に上るであろう。或る者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、また或る一人は親戚の不幸を見舞うために、そして他の一人は友人の結婚を祝うために、というように。人生がさまざまであるように、旅もさまざまである。しかしながら、どのような理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅としての共通の感情がある。一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感懐がある。恰も、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるように。
旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである。ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅においては誰も何等か解放された気持になるものである。或る者は実に人生から脱出する目的をもってさえ旅に上るのである。ことさら脱出を欲してする旅でなくても、旅においては誰も何等か脱出に類する気持になるものである。旅の対象としてひとの好んで選ぶものが多くの場合自然であり、人間の生活であっても原始的な、自然的な生活であるというのも、これに関係すると考えることができるであろう。旅におけるかような解放乃至脱出の感情にはつねに或る他の感情が伴っている。即ち旅はすべての人に多かれ少かれ漂泊の感情を抱かせるのである。解放も漂泊であり、脱出も漂泊である。そこに旅の感傷がある。
漂泊の感情は或る運動の感情であって、旅は移動であることから生ずるといわれるであろう。それは確かに或る運動の感情である。けれども我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考えられないであろう。そして旅は、どのような旅も、遠さを感じさせるものである。この遠さは何キロと計られるような距離に関係していない。毎日遠方から汽車で事務所へ通勤している者であっても、彼はこの種の遠さを感じないであろう。ところがたといそれよりも短い距離であっても、一日彼が旅に出るとなると、彼はその遠さを味うのである。旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである。それだから旅において我々はつねに多かれ少かれ浪漫的になる。浪漫的心情というのは遠さの感情にほかならない。旅の面白さの半ばはかようにして想像力の作り出すものである。旅は人生のユートピアであるとさえいうことができるであろう。しかしながら旅は単に遥かなものではない。旅はあわただしいものである。鞄一つで出掛ける簡単な旅であっても、旅には旅のあわただしさがある。汽車に乗る旅にも、徒歩で行く旅にも、旅のあわただしさがあるであろう。旅はつねに遠くて、しかもつねにあわただしいものである。それだからそこに漂泊の感情が湧いてくる。漂泊の感情は単に遠さの感情ではない。遠くて、しかもあわただしいところから、我々は漂泊を感じるのである。遠いと定まっているものなら、何故にあわただしくする必要があるであろうか。それは遠いものでなくて近いものであるかも知れない。いな、旅はつねに遠くて同時につねに近いものである。そしてこれは旅が過程であるということを意味するであろう。旅は過程である故に漂泊である。出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしている、これが行動とか実践とかいうものの本性である。しかるに旅は本質的に観想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の実践的生活から脱け出して純粋に観想的になり得るということが旅の特色である。旅が人生に対して有する意義もそこから考えることができるであろう。
何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向ってゆくことである故に。日常の経験においても、知らない道を初めて歩く時には実際よりも遠く感じるものである。仮にすべてのことが全くよく知られているとしたなら、日常の通勤のようなものはあっても本質的に旅というべきものはないであろう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。それだから旅には漂泊の感情が伴ってくる。旅においてはあらゆるものが既知であるということはあり得ないであろう。なぜなら、そこでは単に到着点或いは結果が問題であるのでなく、むしろ過程が主要なのであるから。途中に注意している者は必ず何か新しいこと、思い設けぬことに出会うものである。旅は習慣的になった生活形式から脱け出ることであり、かようにして我々は多かれ少かれ新しくなった眼をもって物を見ることができるようになっており、そのためにまた我々は物において多かれ少かれ新しいものを発見することができるようになっている。平生見慣れたものも旅においては目新しく感じられるのがつねである。旅の利益は単に全く見たことのない物を初めて見ることにあるのでなく、――全く新しいといい得るものが世の中にあるであろうか――むしろ平素自明のもの、既知のもののように考えていたものに驚異を感じ、新たに見直すところにある。我々の日常の生活は行動的であって到着点或いは結果にのみ関心し、その他のもの、途中のもの、過程は、既知のものの如く前提されている。毎日習慣的に通勤している者は、その日家を出て事務所に来るまでの間に、彼が何を為し、何に会ったかを恐らく想い起すことができないであろう。しかるに旅においては我々は純粋に観想的になることができる。旅する者は為す者でなくて見る人である。かように純粋に観想的になることによって、平生既知のもの、自明のものと前提していたものに対して我々は新たに驚異を覚え、或いは好奇心を感じる。旅が経験であり、教育であるのも、これに依るのである。
人生は旅、とはよくいわれることである。芭蕉の奥の細道の有名な句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず迫ってくる実感であろう。人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。それは何故であろうか。
何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変ることがないであろう。いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊である。我々の行き着く処は死であるといわれるであろう。それにしても死が何であるかは、誰も明瞭に答えることのできぬものである。何処へ行くかという問は、飜って、何処から来たかと問わせるであろう。過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じるのである。漂泊の旅にはつねにさだかに捉え難いノスタルジヤが伴っている。人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであろう。我々は我々の想像に従って人生を生きている。人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。旅は人生の姿である。旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粋に観想的になることによって、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されていた人生に対して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味わさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客観的な遠さや近さや運動に関係するものでないことを述べてきた。旅において出会うのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出会うのである。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。
既にいったように、ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。旅は確かに彼を解放してくれるであろう。けれどもそれによって彼が真に自由になることができると考えるなら、間違いである。解放というのは或る物からの自由であり、このような自由は消極的な自由に過ぎない。旅に出ると、誰でも出来心になり易いものであり、気紛れになりがちである。人の出来心を利用しようとする者には、その人を旅に連れ出すのが手近かな方法である。旅は人を多かれ少かれ冒険的にする、しかしこの冒険と雖も出来心であり、気紛れであるであろう。旅における漂泊の感情がそのような出来心の根柢にある。しかしながら気紛れは真の自由ではない。気紛れや出来心に従ってのみ行動する者は、旅において真に経験することができぬ。旅は我々の好奇心を活溌にする。けれども好奇心は真の研究心、真の知識欲とは違っている。好奇心は気紛れであり、一つの所に停まって見ようとはしないで、次から次へ絶えず移ってゆく。一つの所に停まり、一つの物の中に深く入ってゆくことなしに、如何にして真に物を知ることができるであろうか。好奇心の根柢にあるものも定めなき漂泊の感情である。また旅は人間を感傷的にするものである。しかしながらただ感傷に浸っていては、何一つ深く認識しないで、何一つ独自の感情を持たないでしまわねばならぬであろう。真の自由は物においての自由である。それは単に動くことでなく、動きながら止まることであり、止まりながら動くことである。動即静、静即動というものである。人間到る処に青山あり、という。この言葉はやや感傷的な嫌いはあるが、その意義に徹した者であって真に旅を味うことができるであろう。真に旅を味い得る人は真に自由な人である。旅することによって、賢い者はますます賢くなり、愚かな者はますます愚かになる。日常交際している者が如何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分るものである。人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。



三木清 「人生論ノート」 瞑想について

瞑想について
たとえば人と対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。瞑想はつねに不意の客である。私はそれを招くのでなく、また招くこともできない。しかしそれの来るときにはあらゆるものにも拘らず来るのである。「これから瞑想しよう」などということはおよそ愚にも附かぬことだ。私の為し得ることはせいぜいこの不意の客に対して常に準備をしておくことである。
思索は下から昇ってゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるものである。それは或る天与の性質をもっている。そこに瞑想とミスティシズムとの最も深い結び附きがある。瞑想は多かれ少かれミスティックなものである。
この思い設けぬ客はあらゆる場合に来ることができる。単にひとり静かに居る時のみではない、全き喧騒の中においてもそれは来るのである。孤独は瞑想の条件であるよりも結果である。例えば大勢の聴衆に向って話している時、私は不意に瞑想に襲われることがある。そのときこの不可抗の闖入者は、私はそれを虐殺するか、それともそれに全く身を委せてついてゆくかである。瞑想には条件がない。条件がないということがそれを天与のものと思わせる根本的な理由である。
プラトンはソクラテスがポティダイアの陣営において一昼夜立ち続けて瞑想に耽ったということを記している。その時ソクラテスはまさに瞑想したのであって、思索したのではない。彼が思索したのは却って彼が市場に現われて誰でもを捉えて談論した時である。思索の根本的な形式は対話である。ポティダイアの陣営におけるソクラテスとアテナイの市場におけるソクラテス――これほど明瞭に瞑想と思索との差異を現わしているものはない。
思索と瞑想との差異は、ひとは思索のただなかにおいてさえ瞑想に陥ることがあるという事実によって示されている。
瞑想には過程がない。この点において、それは本質的に過程的な思索と異っている。
すべての瞑想は甘美である。この故にひとは瞑想を欲するのであり、その限りすべての人間はミスティシズムに対する嗜好をもっている。けれども瞑想は本来我々の意欲に依存するものではない。
すべての魅力的な思索の魅力は瞑想に、このミスティックなもの、形而上学的なものにもとづいている。その意味においてすべての思想は、元来、甘いものである。思索が甘いものであるのではない、甘い思索というものは何等思索ではないであろう。思索の根柢にある瞑想が甘美なものなのである。
瞑想はその甘さの故にひとを誘惑する。真の宗教がミスティシズムに反対するのはかような誘惑の故であろう。瞑想は甘いものであるが、それに誘惑されるとき、瞑想はもはや瞑想ではなくなり、夢想か空想かになるであろう。
瞑想を生かし得るものは思索の厳しさである。不意の訪問者である瞑想に対する準備というのは思索の方法的訓練を具えていることである。
瞑想癖という言葉は矛盾である。瞑想は何等習慣になり得る性質のものではないからである。性癖となった瞑想は何等瞑想ではなく、夢想か空想かである。
瞑想のない思想家は存在しない。瞑想は彼にヴィジョンを与えるものであり、ヴィジョンをもたぬ如何なる真の思想も存在しないからである。真に創造的な思想家はつねにイメージを踏まえて厳しい思索に集中しているものである。
勤勉は思想家の主要な徳である。それによって思想家といわゆる瞑想家或いは夢想家とが区別される。もちろんひとは勤勉だけで思想家になることはできぬ。そこには瞑想が与えられねばならないから。しかし真の思想家はまた絶えず瞑想の誘惑と戦っている。
ひとは書きながら、もしくは書くことによって思索することができる。しかし瞑想はそうではない。瞑想はいわば精神の休日である。そして精神には仕事と同様、閑暇が必要である。余りに多く書くことも全く書かぬことも共に精神にとって有害である。
哲学的文章におけるパウゼというものは瞑想である。思想のスタイルは主として瞑想的なものに依存している。瞑想がリズムであるとすれば、思索はタクトである。
瞑想の甘さのうちには多かれ少かれつねにエロス的なものがある。
思索が瞑想においてあることは、精神が身体においてあるのと同様である。
瞑想は思想的人間のいわば原罪である。瞑想のうちに、従ってまたミスティシズムのうちに救済があると考えることは、異端である。宗教的人間にとってと同様に、思想的人間にとっても、救済は本来ただ言葉において与えられる。



2007/12/13

三木清 「人生論ノート」 噂について

噂について
噂は不安定なもの、不確定なものである。しかも自分では手の下しようもないものである。我々はこの不安定なもの、不確定なものに取り巻かれながら生きてゆくのほかない。
しからば噂は我々にとって運命の如きものであろうか。それは運命であるにしては余りに偶然的なものである。しかもこの偶然的なものは時として運命よりも強く我々の存在を決定するのである。
もしもそれが運命であるなら、我々はそれを愛しなければならぬ。またもしそれが運命であるなら、我々はそれを開拓しなければならぬ。だが噂は運命ではない。それを運命の如く愛したり開拓したりしようとするのは馬鹿げたことである。我々の少しも拘泥してはならぬこのものが、我々の運命をさえ決定するというのは如何なることであろうか。
噂はつねに我々の遠くにある。我々はその存在をさえ知らないことが多い。この遠いものが我々にかくも密接に関係してくるのである。しかもこの関係は掴むことのできぬ偶然の集合である。我々の存在は無数の眼に見えぬ偶然の糸によって何処とも知れぬ処に繋がれている。
噂は評判として一つの批評であるというが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従って本来なんら批評でなく、極めて不安定で不確定である。しかもこの不安定で不確定なものが、我々の社会的に存在する一つの最も重要な形式なのである。
評判を批評の如く受取り、これと真面目に対質しようとすることは、無駄である。いったい誰を相手にしようというのか。相手は何処にもいない、もしくは到る処にいる。しかも我我はこの対質することができないものと絶えず対質させられているのである。
噂は誰のものでもない、噂されている当人のものでさえない。噂は社会的なものであるにしても、厳密にいうと、社会のものでもない。この実体のないものは、誰もそれを信じないとしながら、誰もそれを信じている。噂は原初的な形式におけるフィクションである。
噂はあらゆる情念から出てくる。嫉妬から、猜疑心から、競争心から、好奇心から、等々。噂はかかるものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。――熱情をもって語られた噂は噂として受取られないであろう。――そこにいわば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行われる。神話は高次のフィクションである。
あらゆる噂の根源が不安であるというのは真理を含んでいる。ひとは自己の不安から噂を作り、受取り、また伝える。不安は情念の中の一つの情念でなく、むしろあらゆる情念を動かすもの、情念の情念ともいうべく、従ってまた情念を超えたものである。不安と虚無とが一つに考えられるのもこれに依ってである。虚無から生れたものとして噂はフィクションである。
噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この浮動的なものに我々が次から次へ移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化してゆく結果になる。だから噂は永続するに従って神話に変ってゆく。その噂がどのようなものであろうと、我々は噂されることによって滅びることはない。噂をいつまでも噂にとどめておくことができるほど賢明に無関心で冷静であり得る人間は少いから。
噂には誰も責任者というものがない。その責任を引受けているものを我々は歴史と呼んでいる。
噂として存在するか否かは、物が歴史的なものであるか否かを区別する一つのしるしである。自然のものにしても、噂となる場合、それは歴史の世界に入っているのである。人間の場合にしても、歴史的人物であればあるほど、彼は一層多く噂にのぼるであろう。歴史はすべてかくの如く不安定なものの上に拠っている。尤も噂は物が歴史に入る入口に過ぎぬ。たいていのものはこの入口に立つだけで消えてしまう。ほんとに歴史的になったものは、もはや噂として存在するのでなく、むしろ神話として存在するのである。噂から神話への範疇転化、そこに歴史の観念化作用がある。
かくの如く歴史は情念の中から観念もしくは理念を作り出してくる。これは歴史の深い秘密に属している。
噂は歴史に入る入口に過ぎないが、それはこの世界に入るために一度は通らねばならぬ入口であるように思われる。歴史的なものは噂というこの荒々しいもの、不安定なものの中から出てくるのである。それは物が結晶する前に先ずなければならぬ震盪の如きものである。
歴史的なものは批評の中からよりも噂の中から決定されてくる。物が歴史的になるためには、批評を通過するということだけでは足りない、噂という更に気紛れなもの、偶然的なもの、不確定なものの中を通過しなければならぬ。
噂よりも有力な批評というものは甚だ稀である。
歴史は不確定なものの中から出てくる。噂というものはその最も不確定なものである。しかも歴史は最も確定的なものではないのか。
噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異る歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。
噂するように批評する批評家は多い。けれども批評を歴史的確率の問題として取り上げる批評家は稀である。私の知る限りではヴァレリイがそれだ。かような批評家には数学者のような知性が必要である。しかし如何に多くの批評家が独断的であるか。そこでまた如何に多くの批評家が、自分も世間も信じているのとは反対に、批評的であるよりも実践的であるか。



2007/10/21

「暴力はいけません」という言表

「暴力はいけません」というモラルなら、だれでもいえるし、実際、あふれています。ブッシュ大統領だって、
核武装を唱える日本の政治家だってそういうはずです。むしろ、「暴力はいけません」といいながら、「だから暴力には暴力を」と、
より大きな暴力の配備を正当化しているのがこうした人たちなのでしょう。「暴力はいけません」という言表は、
決して人の暴力に対する許しがたさの感覚を養っていることを狙ったものではないとおもうのです。そもそもこの言表は逆説をはらんでいます。
暴力はいけない、だから暴力を憎むのだ、暴力をふるう者を憎むのだ、暴力をふるう者に暴力を-このような言表の連鎖を、「暴力はいけません」
という言表は決して排除するものではない。

しかもしばしば(とりわけ今では)、「暴力をふるう者」は「暴力をふるいそうな者」へと広がっていき、
現実的には暴力が生じていないところに暴力が生じそうだからという理由で暴力が振るわれるという奇妙な事態が生じてくる。そこでは現実には、
この「暴力はいけません」と叫びながら振るわれる凄まじい暴力しか存在しない、ということもありえます。つまり、このようなモラルは、
好戦的な、しばしば残忍ですらある暴力を退ける要素をはらんでいるわけでは決してない。むしろそれは濃密にはらむことさえあるのです。
いま流通するようなかたちでこのようなお説教的な言表がもくろんでいることは、
この世界に満ちているさまざまな力を感受し腑分けする能力をつぶすことです。そのことによって、
人は暴力に対する感覚を摩耗されているのです。


(『暴力の哲学』 酒井隆史 河出書房新社 P10-P11)



2007/07/09

堀江被告を嗤えない

お金は一つの真実を人間につきつける。私はアシスタントの給料を遅配したり、約束よりも安く払ったことは一度もない。「誠意は金で」
というが、生活費はくれない、”親分”に、人はなかなかついてはいけない。だから私は、堀江氏の言葉に頷いた部分があった。


が、やっぱり「お金がすべて」ではない。私はくだんのファンの方からの5千円を受け取ることはしなかった。かわりに「ありがとう。
でもこれは生活費に充ててください。あるいは本当に困っている方への募金にでも。もし一冊私の本を買っていただけたら幸せです」
と記した礼状を出した。


私は、その若者の手紙を何度も泣きながら読んだ。文面から察するに、彼は自信の生活がぎりぎりなせいで、
友人や地域と上手に人間関係がつくれず、悩んでいるようだった。そんな中で私に5千円ものお金を送ってくれたのは、彼が「孤独」
であるということなのだろう。かつての私もそうだった。それはなかなか人に理解されないから、つい「お金をくれない人とは会えない」
などと言ってしまい、また孤独になる。


お金があっても孤独なのは、堀江被告を見れば分かる。人の世にとって「お金じゃない」というのは嘘で、「お金がすべて」
というのも嘘だ。お金やたつきの問題をのりこえて、純粋な人間関係を求められないうちは、私たちも堀江被告を嗤えない。そんな気がする。


(『正論』 2007年5月号 「堀江被告を嗤えない」 さかもと未明(漫画家)」


補足:ここでいう堀江被告の一言とは、「人の心は金で買える」ということ。かつてさかもと未明は以下のように語っていた。
「男性は本当に女性を愛しているなら、お金を出すとか結婚して生活の面倒をみるとか、命を賭けるとか、
具体的に何か大変なものを差し出すべきだ」


この女性の主張は聞く価値はあるとは思うが、別面で見ればこの女性の考えだからこそ、
堀江被告については嗤えないという思いに至るのだろう。僕は無論堀江被告のことを嗤ったことは一度もない、ただ彼のことには興味がない。
(Amehare)



2007/07/07

官能俳句数句

「牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜」 (日野草城)


「やはらかきものはくちびる五月闇」(日野草城)


「冬ざれのくちびるを吸う別れかな」(日野草城)


「ちちろ虫女体の記憶よみがへる」(日野草城)


「まぐはひの女めつぶる渡り鳥」(加藤)


「葬ひのある日はもっとも欲情す」(上野ちづこ)


「待って待ってわたしの洞から血が削る」(上野ちづこ)


「おそるべき君らの乳房夏来(きた)る」(西東三鬼)


「男の目にまぶしい女の胸元よ」(西東三鬼)


「牡蠣というなまめくものを啜りけり」(上田五千石)


「倦怠(だる)い夏、だるい乳房、だるい蝶」(富沢赤黄男)


「エキサイトなき性交。倦怠期」(富沢赤黄男」


「花冷えのちがう乳房に逢いにゆく」(真鍋呉夫)


「うしろより耳朶(じだ)噛まれゐて陽炎(かげろ)へり」(藤真奈美)


「実柘榴(みざくろ)のかっと割れたる情痴かな」(鈴木しげ子)


「足ひらきジュラ紀の風を待つごとし」(大木あまり)


追記:「牡蠣というなまめくものを啜りけり」(上田五千石)には静岡県在中の齋藤博氏の解釈が以下のように紹介されている。


style="MARGIN-RIGHT: 0px">

「一句全体が性行為のメタファー。牡蠣は女陰、啜るはクンニリングス。平成16年に芥川賞を受賞した金原ひとみ(20)
の受賞後の第一作に次のようなくだりがある。『まんこの割れ目を両手で押しひろげて、クリトリスを舌で舐めあげた。』
斯くの如き表現の自由からも、かつての『チャタレー夫人の恋人』猥褻裁判は今は昔。玄牝、玉門、ヴァギナ、おめこ、女陰・・・。
エロスへの連想は、いつの世も止めどもない」



補足:上記の一連の官能俳句は2007年5月号「正論」(産経新聞社)の石井英夫コラム「世はこともなし?」に掲載されていた。
こういう俳句があるのかと正直良い意味で堪能した。面白い。俳句ならではの官能の世界だと思う。個人的に好きな句は
「おそるべき君らの乳房夏来(きた)る」(西東三鬼)と「牡蠣というなまめくものを啜りけり」(上田五千石)かな。とても艶めかしく、
かつ具体的て直線的に官能の世界に連れて行ってくれる。僕には全く不得手な文学である、それゆえ逆に面白く鑑賞できた。
これら一連の官能俳句は『俳句とエロス』(榎本一郎 講談社現代新書)の詳しく載っているそうだ。読んでみたいと思う。(amehare)



2007/07/03

中華街の歴史過程 その2

しかし、「中華料理のテーマパーク」に至った原因はこれだけではない。実は、それよりも深い根があることも見落とすことができない。
それは、日本の対中国人政策ともいえる歴史に見ることができる。


すでに触れたように、海港当初、外国人の生活、商業活動は居留地に限られていた。
今では同じマンション内や隣に外国人が住んでいることは、珍しいことではなくなってきたが、一世紀前の日本では、日本人が住む「内地」
を外国人にも開放するか否かは大きな議論を呼ぶ問題であった。なかでも、隣国であり、
廉価な労働力を提供する中国人の内地雑居を許可するか否かという問題は論争の焦点となった。


1899年、欧米諸国との改正条約により外国人居留地が撤廃され、外国人が日本人と同じように、どこにでも生活し、
商業活動を行うことができる「内地雑居」が実現する。その際、「勅令352号」が内地雑居する外国人の管理規則として公示された。
文面上では明らかに記してはいないが、これは事実上、中国人を対象としたものと見られている。この勅令は、
中国人の旧居留地以外での居住や経済活動を制限し、また中国からの未熟練労働者の流入を困難にした。これにより、日本に進出する中国人は、
貿易商か「三巴刀(洋服の鋏、理髪店の剃刀、コックの包丁)」の職業に就くという特徴が生み出されたのであった。


日本において職業制限されていた中国人たちは、限られていた選択肢のなかで生活を営む方法を模索せんばならなかった。また、
関東大震災や1937年の日中戦争などにより、貿易商は商売を続けていくことが困難となった。そのため、貿易商たちのなかには職業替えをし、
コックとして修行をして、料理店を始める者が多かった。


「三巴刀」の職業である、テーラー、理髪師、料理人の職業を比較すれば容易に想像することができるだろうが、
洋服を仕立てるのは年に数着、そして髪を切るのも月に一回程度、しかし食事は一日に三食と、人々の生活において最も需要が高い職業であった。
もちろん、客は毎日外食をするわけではないので、一日三食というのは言い過ぎだが、職業を選ぶ側の立場に立って見ても、飲食業は、
理髪やテーラーに比べ魅力的であった。なぜなら、飲食業は、商売をしながら子供の食事の面倒を見ることができたからである。また、
子供達も皿洗いなど家業の手伝いをすることは他の職業にくらべ比較的容易であった。移民は家族経営を始めることが多いが、
職業選びにもこうした点が考慮されている。また、既製品が大量生産されるようになると、テーラーから転職し、中華料理に従事する華僑・
華人がますます増えていったのである。


(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P86-87)



中華街の歴史過程 その1

現在のように、街が中華料理一色の観光地となったのは、実はそう古いことではない。私は、横浜中華街で生まれ育ったが、
かつては八百屋や肉屋、薬局や洋服店など生活に密着した店、そして蕎麦屋やとんかつ屋などがあった。中華街といえども、
街に暮らす6000人の約半数が華僑・華人で、その他の半分が日本人や朝鮮人などであった。幼いころの記憶では、
朝鮮人の人たちも多く暮らしており、現在の市場通りの反対側は「朝鮮人街」と呼ばれていた。キムチや香辛料など韓国食材が売られ、
また山下公園まで台車をひいてアイスクリームを売りにいくオムニたちを見かけることも多かった。子供たちは、国籍や出自にかかわらず、
チャイナタウンの一角にある山下町公園で、缶けりや鬼ごっこなどをして遊んだものだった。街には人々の生活がにじみ出ていた。ちなみに、
山下町公園は、まだ居留地があった頃、会芳楼という劇場があり、そこは居留地の人々の娯楽の場だったそうだ。その後、
跡地に清国領事館が建てられていた。領事館は、関東大震災で倒壊し、戦後、跡地は山下町公園として地元の子が遊び、
夏には盆踊りやのど自慢大会などをすることに使われるようになった。2000年、歴史にちなんで会芳亭という中国風の東屋を建ててからは、
地元の人よりも、むしろ、観光客の憩いの場となっている。


観光地としての色彩が色濃くなる1980年代ごろまでは、街に住む華僑・華人たちが中華料理店を営み、日本人がその材料となる肉や魚、
野菜、酒、食器などを提供するという分業が行われていた。しかし、日本はバブル経済に伴ってグルメブームとなり、
チャイナタウンの料理店がメディアでしばしば紹介されるようになると、街はいっきに「中華料理のテーマパーク」
としてのイメージが強くなっていった。その後、肉屋が豚まん屋に、魚屋が中華の海鮮料理店に転身するなど、日本人が経営していた店が、
軒並み「中華色」を打ち出した商売に変わっていったのである。街に食材をおろすより観光客向けの商売に転向するほうが、
利益率が高いので当然といえば当然である。こうして、チャイナタウンに暮らす日本人が。「中華ブランド」を利用し、かつ自分の
「アイデンティティ」とすることによって、チャイナタウンの「中華色」がいっそう濃くなるという、興味深い現象が起きている。


(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P85-86)



2007/07/02

民族とは「都合」

「民族って何だ? 血って何だ?」

ドクトルがさえぎった。

「教えてやろうか、つまりこういうことだ」

ドクトルは両手を返した。

「たとえば、お前におじさんがいたとしよう。そんなおじさんがいるなんて知らなかったんだけど、ある日突然現れたんだ。
そのおじさんが大金持ちだった。さあ、その人はお前の親戚か? お前は言うだろう、そうです。
この人は私の血のつながった大切なおじさんです、とな。そう言うだろう? じゃあ、もし、それが借金取りに追われたおじさんだったら、
その人はお前の親戚か?」

「・・・・・・・・・・・・」

「見ず知らずの他人だろ」

「まあ・・・・・・」

「血や民族なんてそんなもんだよ。血なんてのは、都合(コンパニエンテ)ってことなんだよ」

「都合?」

「そう、ペルー人でいた方が都合よけりゃペルー人。ニッポン人でいた方がよけりゃニッポン人。それだけのことなんだよ・・・・・・」


「でも、どこかに共通点のようなものがあるような気がするんですけど・・・・・・」

私はかろうじて反論した。

「お前、あいつらが同じニッポン人に見えるのか?」

「まあ、なんと言うか、にじみ出る雰囲気というか存在感というか、ニセ者の話にしたって、瞼の腫れとか、
顔のちょっとしたちがいですぐ差別する。なんでも民族の話にすりかえる。ペルー人を卑下することで自分を守る。そうでもしていないと、
アイデンティティを維持できない核のなさ、陰湿さはこりゃあ百年前からの伝統的ニッポン人体質そのものだと思う」

私は力をこめて言った。

「それはお前だよ」

爪のまわりに垢がたまり、ささくれだった指でドクトルは私を指した。

「えっ」

「みんな、お前に合わせてんだよ」

私は目が回りそうになった。たまらずドクトルの視線をはずして、手もとのコーラをすすった。コーラはぬるくて気がぬけていた。
ドクトルはじっと私を見つめた。長い間で私を追いつめているようだった。

「いいか、ニセ者をつくってるのは、お前なんだよ」

「いや、おれは・・・・・・」

私は必死に否定しようとしたが、うまく弁解できなかった。

「おまえがニッポン文化がどうしただの、ホンモノどこだニセ者どこだって聞いて回っているから、
みんなその期待に応えようとしているんじゃないか」

「いや・・・・・・・おれは別に期待はしてないけど・・・・・・」

「いいか、百年前を思い出してみろ。百年前、貧しかったニッポン人労働者をペルーが受け入れた時、ペルーの戸籍が必要だったか?
 ペルー人のホンモノの血が必要だったか? ペルーは、血の選別をしたか?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「なんで今、日本は血で人を選ぶんだ? おじいさんの戸籍が必要なんだよ? えっ」

「やはり、血が大切なんだろう・・・・・・」

私は他人事のように言った。

「いいか、ペルーから来ている連中はな、必死にその期待に応えようとしているんじゃないか」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「いいか、あいつらは他に何もないんだよ、ニッポン人ってことしかないんだよ。ニッポン人にしがみついてんだよ。だから一生懸命、
お前に合わせようとしているんじゃねえか」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「お前はね、鏡に映ったお前自身を見てるんだよ」

私は何も言い返せなかった。口ごもるフリもできず、ただ毛細血管が網のように浮き上がったドクトルの目をみて、時の流れるのを待った。
そうしていればどうにかなるだろうと考えている自分が情けなかった。


(『にせニッポン人探訪記-帰ってきた南米日系人たち』 高橋秀美 草思社 P193-197)


追補:本ルポに登場するドクトルとは「日系人」労働者の一人で、彼のあだな。



2007/05/17

世界の労働事情

弘前市の女性は縫製の仕事をしている。01年に時給604円だったが、06年に610円になった。
青森県の最低賃金が610円になったからだ。5年間で6円の値上げはあまりに少ないので、会社に交渉したら。「中国人の研修生は、
時給300円で働いている。不満なら辞めろ」と言われた(朝日新聞 07年2月6日)。


ILO報告によると、東南アジアの若年(15~24歳)失業率は95年は9.7パーセントだったが05年には16.
9パーセントになった。アジアの人口増加が背景にある。2050年までにインドで5億7000万人、パキスタンで1億6000万人増加し、
その内、0歳から14歳までの子どもが30パーセントを占める(朝日新聞、06年8月29日)。


同調査で、世界の若年総人口は10億人、労働人口は6億5700万だが、失業は13.5パーセントで、
95年から05年までに1000万人増えた。人口増が13パーセントで雇用増が4パーセントだからだ。中東と北アフリカの若年失業は25.
7パーセントだ。全失業者の44パーセントは若者だ(朝日新聞、06年10月31日)。


韓国では無職の若者が120万人、「白手=ペスク」と呼ばれ、軽蔑の眼差しでみられる。逆に若者たちは56歳以上の人たちを
「あんたたちがいるから我々が就職できない」といい「給料泥棒」と呼んでいる。(朝日新聞、07年1月7日)。問題を個人化し、
互いに憎しみ合う心性はグローバル資本にとって都合がいい。


韓国では高学歴者ほど就職難である。大卒正社員は50パーセント弱で、過半数が短期の単純作業に就く。
日本の大学進学率は52パーセントだが、韓国は82パーセントにもなる。教育と学歴がいかに幻想をふりまくかが分かる。


06年の3月から4月にかけ、フランスでは、新雇用法に抗議して300万人の市民や学生や労働者がデモに参加した。アメリカでは、
移民規制の抗議デモは200万人に達したから、仏米同時に数百万の人々が街頭に出たことになる。


フランスでは輸送関係労働者と学校教職員がストに参加した。若者が線路や道路に侵入し、交通網が寸断された。全国で13パーセント、
パリでは40パーセントの高校で授業ができなかった。


ロスアンゼルスでは5万人の高校生がウォーク・アウトと称して、学校の塀を乗り越えて歩き始めた。それに呼応しアリゾナ・シカゴ・
ニューヨーク等の高校生がネットで連絡し、ウォーク・アウトをした。


フランスの新雇用法では、26歳未満の若者を理由なく解雇できるようにしようとした。若年失業率が9パーセント、
高卒失業が14パーセント、中卒失業が40パーセント、移民系の若年失業は50パーセントに達する。失業率50パーセントとは、
進学しない者のほぼ全員が失業していると見た方がいい。


アメリカの場合、1986年の移民法改正で、その時までの移民が合法化された。だがその後の移民が後を絶たず、
新移民は1200万人になり、各地で移民を締め出す動きが生じた。移民のために「医療や教育費の負担が増し、国益を損ねる」との声に応え、
政府は移民制限法を出した。


ラチーノといわれるヒスパニック系の人々は、建設業や農業や清掃や調理の仕事に就き、安い賃金で働いてきた。
それを犯罪者扱いするのは何事か、と反発している。不正移民取締法が通れば、アメリカ国籍を持つラチーノの子たちが、
国籍のない親と別居せざるを得ない。


フランスとアメリカ両国とも、共通の背景がある。労働力の国際移動だ。アメリカは直接移民が問題となっているが、
フランスも東欧や中近東からの移民があり、それが国内の雇用を悪化させたからだ。


先進国政府は、移民を止めれば自由化に反することになり、移民を止めなければ、
国内の若者や労働者の反発を招くジレンマに立たされている。グローバル経済の動きを止めない限り、解決しそうもない。


多国籍企業はアジア・アフリカ・ラテンアメリカと東欧諸国の経済格差を利用して収益をあげ、物と金が国境を越えて移動しているのに、
人の移動だけをストップするのは不可能である。


世界の最低賃金は3億5000万人(OECD調査)いる児童労働の賃金だろう。中でも1億7000万人いるスゥエット・ショップ
(搾取工場)では時給6円である。経済の自由化が続けば、先進国の労働者の賃金が限りなくこれに近づく。


労働者の使い捨て時代に突入した。「クリネックス・レイバー」と言われ、労働者がティッシュペーパーのように使い捨てられる。
各国の政府は国際労働市場のシステムを変えずに、劣悪な労働条件を国民に強いている。
このシステムを作ったのはWTOに結集した多国籍企業だが、その力は国家を凌駕している。


フランスやアメリカの抗議デモや若者の暴動はこのシステムに反対した。「このシステムが国民の将来の生活を脅かす」という意識があり、
その意識を持つ人々が数百万人に達した。


数百万のデモは日本で見たことがない。日本の労働者や若者も同じ状況に置かれているのに、それに気づいていない。この国では、
心性操作が巧みに行われているからではないか。自らの置かれた状況への認識を欠くことが怖い。全体状況を知らずに、
身辺に見る犯罪や貧困を個人のせいにし、「誰か悪いヤツが隣にいる」と思う。その思いが民衆ファシズムにつながる。


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢)



2007/05/10

生活習慣病とは

プロパガンダの一つの特性は、形容詞を多様することにある。ナチ政権下では「抜本的」や「永久的」ということばや、「悪い科学」とか
「適確な・不適格な」という表現を多用した。


例えが好きで、ガンを「ユダヤ腫」と呼び、「遺伝子欠陥者は国家のガン」とか「ガンは内戦を画策する革命分子、無政府主義者、
ポリシェビキ、共産主義者だ」といった。「発生期のガンは身体中の、他の人種と異なる細胞の新しい人種とみなすべきで、
治療の目的は病因となる人種の撲滅にある」とも述べている。


ベルリン大学教授のハンス・アウラーは「第三帝国が国民の健康維持を基礎としていることは幸いである。遺伝学・教育・スポーツ・
大学院研究・ヒトラーユーゲントや突撃隊・親衛隊での体育・結婚資金貸付・家庭衛生・隣保事業・職業斡旋等々の政府の政策はすべて、
ガン予防の措置と見なしうる」と政策の全てを称賛した。


なぜナチのことを紹介したか。ナチと同じ心性操作が今のアメリカや日本に多いからだ。2000年に日本の社会保障審議会で、「成人病」
を「生活習慣病」と改称することに決定した。命名したのは委員の一人、日野原重明である。


1937年、ドイツの遺伝学者カール・ハインリヒ・バウアーは「ガンの発生は生活習慣病」という論文を発表し、1939年、
アルトゥル・ヒンツェは「生活習慣と宗教が世界各地のガン発生率の違いを生む」と研究発表し、両説は熱心なナチ党員に支持された。(
「健康帝国ナチス」 プロクター 草思社)


生活習慣病には自己責任の意味が含まれる。健康保険が赤字の現在、自己責任で自己を管理し、医療費を抑制し、
ゆくゆくは公的保険を廃止し、民間保険に切り替えることを目指す。すでに混合診療の名のもとに民間医療保険が開始されている。


ナチ政権下で国民健康保険が実施されたが、自己責任を果たさなかった者に医療費の支給を抑えた。同じく日本でも、
このことばがでてきた直後に、健康増進法がだされ「健康は国民の義務」とされ、介護保険が改正され、
多数の老人や障害者が公的施設から追放された。


矢島嶺は病気の原因は三つあると説く。一つは有害物質や細菌や事故やストレス、二つ目は遺伝や加齢、
三つ目は食生活や運動や喫煙や休養の生活習慣である。この三者の内生活習慣のみを強調するのは、政治的意図以外何ものでもないと説いている。
(Bricolage 0六年五月号)


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢 P117)



2007/05/05

黒柳徹子が語るメイ・ウエスト

メイ・ウエストといっても映画で活躍したのが1930年代ですから、あまり日本では知られていないみたいで、
日本のビデオ屋さんには1本もありません。でも、アメリカでは、随分、若い人でも名前を知っています。というのも、彼女が、
セックスシンボル、と呼ばれたからです。かといって、マリリン・モンロウや、ジーン・ハーローのような可愛い女優ではありませんでした。
確かに映画で見ると、髪はブロンド、もの凄く胸が大きく、体全体が豊満で、目のお化粧も色っぽく、衣装もゴージャスで圧倒的です。ひと頃は、
彼女の映画の出演料が高くて、アメリカの全ての女の人の中で一番収入が多かった、と言われるくらい映画はヒットしたのです。


でも、彼女が、単なるセックスシンボルだけじゃなかったことは、彼女の映画の中のウイットのあるセリフや、男の人が喜ぶ
“あぶなっかしい”セリフは、全部、彼女が書いたものです。

映画に出演するまでブロードウエイに出ていたのですが、その脚本も全部、自分で書きました。

まだ、全くセックスなんていう言葉をみんなが口に出さない時代に『SEX』という題の芝居を書いて公演し、猥雑なセリフやシーンがあって、
警察の検閲を受け、10日間も留置所へ入れられた事だってあるのです。

彼女の『罪じゃないわよ』という映画の題名が書いてある映画館の前では「罪です」
というプラカードを持った神父さんが尼さんや信者とデモをするという事もあったくらいなのです。こんな事が、ますます彼女の人気を高め、
男の人にとってはたまらなかったのでしょう。


淀川長治さんが生きていらしたら、彼女の事を何ておっしゃるかと思って調べたら、ひとこと「メイ・ウエスト。彼女は大姐ごね。
こわいですね」と、ありました。

確かにものに動じない不思議な女性であったようです。

最近アメリカで「メイ・ウエストは本当は男だったらしい」と、ヒソヒソ話も出ています。

ちょっと噂のあったケイリー・グラントが生きていたら聞いてみたいですけど。

「私をセックスシンボルと呼ばないでください。私はセックスパーソナリティなんですから」と自分のことを言っています。そして、
面白いことに、そんな女優でありながら経済観念が発達していて、投資もしたし、1セントの行方までも、きちんと知っていました。


好きな男性のタイプは筋肉隆々の人、と限られていました。しかも驚くことに、芸歴は80年と言われるくらい長く(というのも、
7歳くらいの時に、もうコンテストに出て優勝し、ボードビルの世界に入ったのですから)そして77歳の時に『昔マイラは女だった』
という映画に出演し歌も歌い、85歳の時に『セックステット』(注・六重奏の彼女流のしゃれ?)という、
ウエディングドレスを着て6人目の若い旦那さんと結婚する役で、映画で主演を演じ、2年後の1980年、87歳で亡くなりました。
見方によっては、性の解放者、真の自由人といえる人。これがメイ・ウエストです。


("http://www.inv.co.jp/~tagawa/totto/theater.html">トットチャンネル 黒柳徹子 
「ブロンドに首ったけ」)



2007/04/21

消極的自由への批判

自由を干渉の不在-「私が自らのする選択を他者によって妨げられないこと」(I.バーリン)-
として定義する消極的自由の概念に対して提起されてきた批判を検討してきた。これらの批判によれば、この自由の概念は、(1)
選択肢を質的に区別し、その価値を比較する視点を欠いているという点、(2)
選択肢が行為者にとって現実的にアクセス可能なものであるかどうかを度外視する点、(3)
選択肢が行為者自身の内的な制約によって閉じられることを問題化しえないという点、(4)
意図的な干渉によらない構造的要因ゆえに生じている不自由や不作為によって放置されている不自由を自由の制約・
剥奪としてとらえることができないという点、(5)干渉が不在である場合にも支配が存在することを適切に批判しえないという点、(6)
他者との(間)ではじめて享受されうるような政治的自由をその概念から締めだしているという点において問題を含んでいる。「個人の・
行動に対する・外部からの・意図的な・干渉の不在」として自由が規定されるかぎり、膨大かつ深刻な不自由が許容されうることになる。


(「思考のフロンティア 自由」 齋藤純一 岩波書店) 



子どもの自殺は「親の代理死」

世の中にいじめがあるということと、それで自殺する子どもがいるということは、分けて考えなくてはなりません。

僕は、青年期以降はともかく、本来ならば子どもはそう簡単に「自殺するしかない」というほど精神的ショックを受けないと思います。
日本で年間に三万人いる自殺者のうち、九割九分までが大人でしょう。

実際、ひどいいじめを受けても、死なない子は死にません。

逆にいえば、いじめられて自殺する子どもは、育ってくる過程のなかで深く傷ついた「問題児」なのだと思います。
傷ついた親に育てられた子どもは、死を選びやすい。無意識の中で「死にたい」と思いつつ抑圧している親もいます。その、死への傾きを、
子どももまた無意識のうちに感じ取っている場合もある。

酷な言い方かもしれませんが、子どもの自殺は「親の代理死」なんです。


自殺した子どもの親の態度を見ればわかりますよ。学校がいじめ自殺を防げなかった責任をとれと、市や国に、
二千万円の損害賠償をもとめて訴訟をおこした親がいますが、何を馬鹿なことを言っているんだと思いますね、僕は。二千万円という金額は、
どういうつもりなのか。将来その子が老いた自分たちを世話してくれるはずだったのに、死んじゃったから、
その分をよこせと言っているのと同じことでしょう。


おそらく裁判には、真相究明とか、教育行政を問うとか、立派な名目がついてるんでしょうし、訴訟をおこせるのだから、
社会的なレベルでいえば相当しっかりした人たちなんだと思いますが、親と子の関係からいったら、てんでお話になってないよ、と言いたい。


彼らが、子どもをしっかり可愛がったことのない親だということは、インタビューすればすぐわかるはずです。
時代や経済状況など理由が何であるにせよ、子どもの育て方が悪かったんです。


結局、文科大臣が子どもに「命を大切にしましょう」といっても何の意味もありません。教育やいじめが親の問題から離れて、先生、行政、
それから大臣とどんどん「目上の人」が出てくるのでは、理念的にいって上手くいくわけがない。


それは子どももよくわかっています。「私は自殺します」という予告の手紙を文科大臣に送るのは、
半分は真面目に助けを求めているかもしれないけど、あと半分は、もっと騒ぎを大きくしてやれとか、大人を脅かしてやれと思っているんです。
文科大臣が真に受けて、自分が何とかできると思っているなら、お前さん、お門違いだよ、という感じですね。


(「文藝春秋」 2007年1月号 「いじめ自殺 あえて親に問う」 吉本隆明)