ラベル 酒井直樹 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 酒井直樹 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2007/04/05

ひとびとを集めるのは悲集成

優れた小著「無知な先生」(The Ignorant School Master,trans,Kristin Ross.)
においてジャック・ランシエールはひとびとをあつめるものは集成あるいは集団性ではないと主張している。その反対に、


「お望みならば、真理が集めるといってもよい。だが、ひとびとを集めるもの、ひとびとを結び付けるものは、非集成なのだ。
人々が結び付くのは彼等がひとびとだからである、つまり、ひとびとがお互いにはなれた存在だからである。言語は彼等を結び付けない。逆に、
言語の恣意性こそが彼等に翻訳を強いることによって彼等に伝達するよう努力させる。と同時に、
言語の恣意性は彼等を知性の共同体のなかに置くことになるのである。」


(「多言語主義と多数性」 より脚注(7) 酒井直樹)



実践としての社会関係に関する問いとしての多言語主義

ここから抜け落ちているのは「標準英語」
を習得できないとされる黒人の児童が彼ら以外の人々とどのようなあらたな社会関係を作ってゆくのか、あるいは、「標準英語」
を身に付けていると考えている「典型的国民」が如何にしてこうした黒人とあらたな関係を刻印できるか、といった、
より実践に結び付いた問いなのである。アメリカ合衆国に現存する社会条件を考えれば、いわゆる個人の児童が「標準英語」
を習得できるかどうかという問いは、将来彼らが飢えずに生きられるかという問いに結び付いている。飢えの問題は共役性の問題である。


敷衍して考えれば、ここで問われているのは、非共役性が予想される場面で、ひとは、
いかにして非共役性を超えるための実践を企画できるのか、なのである。まず、相手が何を言っているのか分からない。
どうやって相手に自分のやりたいこと伝えたいことを分からせたら良いのか分からない、という事態があり、
その説明として多言語状況が持ち出されてくるのであって、非共役性の状況へのこうした政治的な感覚を持たないとき、
多言語主義は欺瞞的なヒューマニズムの談義に終始するか、均質なコミュニケーションの保証された「われわれ」
を前提する国語主義への回帰に終わるだろう。そして、まず最初に出会わなければならないのは、
そのようなコミュニケーションの保証のない状況において、人は何をするかという、問題であろう。多言語主義は、なによりもまず、
実践としての社会関係に関する問いとして現出せざるをえない。


非共役性の状況で、まず私たちが行わなければならないのは、そのように共通の基盤に立たない人あるいは人々に向かって、
語りかけること、あるいは、接近し何らかの交流の意思を差し示すことであろう。それは呼びかけであり、
他者に向かって自分の意図を届けるための一定の構えを採ることである。それは自らの発話に宛名(アドレス)
を記入することであると同時に一定の他者に向かってあるいは一定の他者を目指して自からを提示することである。


(「多言語主義と多数性」 酒井直樹)



多言語主義と多数性

言語を可算名詞として考え、
数えられる統一体として捉えられた言語が複数並存する状態を想定することから多言語主義の考察を始めてはならない点は、あらためて、
確認しておかなければならない。この点は、すでに多文化主義の文脈でも私が何度か論じてきた主題にかかわっており、
多文化主義や多言語主義の多数性や複数性を、単純な加算的な統一体の複数の並存と考えるや否や、
ここでいわれている多数性の持つ政治的な意義が見失われてしまうように思えるのである。と同時に、英語、フランス語、日本語といった具合に、
各々の言語を名詞として指定することができるために、世界には言語の名前の数だけの言語が存在し、
世界はこれらの言語の複合体であるかのように理解するのを避けることは非常に難しい。雑種やクレオールを賛美するのはよい。
だが雑種性を理解するときの概念の動きそのものまで干渉し、
最も卑近な文脈でも雑種性を考える仕方そのものを方法論的に絶えず検証し変更してゆかない限り、雑種やクレオールの賛美は、
政治状況が変われば、純血性の賛美へと結局回帰してしまうだろう。


「日本文化の重層性」といった修辞に現れているように、
文化や人種の同一性を強調する議論は必ずしも雑種性を拒絶してきたわけではなくむしろ雑種性を横領し同一性の力学の契機としてきたからである。
だから、雑種性を同一性に横領できないような形で考え抜くことが、多言語主義をめぐる議論ではまず初めにある課題であると私は考えている。


(「多言語主義と多数性」 酒井直樹)



2007/02/09

人種主義に関する提言(4)

もちろん、本提言におけるわれわれの中心的関心は(歴史的に限定されたいい方をしはじめれば)ヒューマニズムとその批判である。
人間主義的ヒューマニズムは--あるいはその審問形態としての「哲学的人間学」が同定しようとしてきた人間性のように--
特殊的に人間的な本質、その本質を認知することによって人類(正確にいえば人間・種)
を非人類から弁別することをわれわれに可能にするような本質の存在を前提してきた。と同時に、人間主義的ヒューマニズムは、時と場所の違いを超越して普遍的な人類の共通性を指示し、「人間・種」をその共同性において統合するような本質の存在をも前提してきた。
すでに人間主義的ヒューマニズムの批判者の多くが主張してきたように、こうした人間本質観の結果として、ヒューマニズムは、人間の他者性、他なる人間の外部性、即ち、「人間」という普遍的本質性に対する外部性を認める能力を失ってしまったのである。つまり、人間主義的ヒューマニズムはその普遍主義的姿勢のために、われわれが他者に出会う可能性を潰してきたのである。
ところがその裏返しとして、人間主義的ヒューマニズムの普遍主義的憧憬を拒絶するその反対者の多くはしばしば特殊性に固執し、「文化的」、「国民的」あるいは「人種的」な特殊体験の究極の価値にしがみついてきた。しかし、こうした反対者は、文化、国民、国民国家、そして人種といった観念は(時にこれらの観念は同一のものとされ区別されないこともある)人間中心主義の語彙と全く供約的であり、ヒューマニズムの謳歌する普遍的価値を分節化するための概念装置と考えられているものであることを忘れてしまっているのだ。
そうである以上、こうした観念は、特殊な「文化」「国民」「国民国家」あるいは「人種」のなかにある差異、他者性、そして外部性を密閉してしまうのだ。


再び、われわれの企画は外部性の問題にかかわるものであることがわかる。われわれは、ヒューマニズムや、特殊主義や、あるいはそれらの立場が一見対立しているという認識の「外部に」またが「超えて」自分たちがいる、という立場から出発することはできないように思える。しかし、あまり上手にではないかもしれないが、人種主義の問いにどうにか肉迫しようとしてわれわれが採用した概念装置が有効性をもつものであるならば、われわれの問いかけは歴史に向かっての問いかけであり、ひとつの歴史ではなく複数の歴史の試練を受けるべき問いかけであることがわかるのではないだろうか。つまり、ひとつ確認しておかなければならないのは、人間中心主義的ヒューマニズムの「人間」は歴史現象である、すなわち、人間中心主義的ヒューマニズムの「人間」は歴史において歴史の効果として現出したものである以上、「人間」は外部性に取り憑かれ・所有されていて(したがって、けっして「所有され」えないものによって所有されている)、歴史の外部性によって取り憑かれているのであり、「人種」も「人種主義」も同じように歴史の外部性によって取り憑かれている、という点である。ということは、ヒューマニズムとその批判と人種主義のあいだには歴史的に分節された関係があるのだ。しかし、これは、これらの項の間に因果的な関係が存在するということではなく、これらの項の間に共犯関係の可能性を予測し警戒することからわれわれの企画を始めざるをえない、ということなのである。「人間」「国民」「国民国家」「人種」といった、同一性と共同体の異なった構築体は、分かち難く歴史に結びついており、一定の歴史性、歴史の不可避性の支配下にある。歴史性は、批判のための必要条件であるかぎりにおいて、人種主義の批判という政治的実践の可能性の必要条件になっているのであり、それらの構築体はすべて、この歴史性によって支配されている可能性をまず認めることからわれわれは始めなければならない。なぜなら、人種主義を非難する必要はけっして無くなったわけではないことを知りつつ、しかし、われわれは非難の単調さの先へ赴くべく考察することをめざすからだ。

(付記 ウイリアム・ヘイバーおよびナオキ・サカイによって共同執筆された。

なお、日本語訳の文責はナオキ・サカイにある)

人種主義に関する提言(3)


人種主義が侵略的でありつつとらえ難く偏在するという事実、つまり、人種主義が言説の場全体を飽和してしまうことができるだけでなく、
ある種の言説の実践にとって欠くことのできない可能性の条件を構成しうるのではないかという事態をわれわれはこれまで強調してきた。
ここで含意されているのは、人種主義とは、たんに、
知識を自らの都合に合わせて誤魔化して利用する一定の心理的態度や偏見のことであるのではないという点である
(人種主義が分節化できないでいるのは、なぜ、またいかに、
人種主義と知識の制度の間の連帯がこれほど明白な説得力をもってしまっているか、なのである)。別の言い方をすれば、人種主義は、
それ自身は無罪である知識や言説の実践に後から押し付けられた、
曲解あるいは誤用とする立場をわれわれはもはやとることはできないのである。たとえば、
一定の学問的作業の制度的構成と実践の特定の概念化--例としては「人類学」、アメリカ合衆国で、「地域研究(エリア・スタディーズ)」
と呼ばれる学問分野、「日本学」など、がただちに挙げられるが--
はその学問分野の成立時において打ち立てられた認識論的態度のために、 最終的には、
人種主義に取り込まれ荷担していると考えざるをえないだろうし、また、この認識論的態度のために、
これらの学問分野を構成する実定性やこれらの分野で表象される事実において、人種主義は再生産されつづけるのである。しかし、
事態は一段と複雑である。というのも、この認識論態度や、学問的表象の結果と形態の批判それ自体が、
人種主義に反対の立場をとっているからといって、ただちに人種主義から自由になっているわけではないからである。







人種主義の批判が本来の意図を裏切って人種主義を再生産してしまうこの矛盾は、
特殊性への固執によってヘゲモニー的支配に対抗しようとする場合にとくに顕著になるだろう。ヘゲモニー的支配は、
自らの産出の可能性の条件を普遍的なものとみなす言説の実践によって支えられている。
自らの普遍性の顕現であると主張するような言説の徹底した批判は、正当であるだけでなく緊急に必要であることはいうまでもない。しかし、
特殊なものの原初的な正統性に依拠するヘゲモニー的支配の批判は、そうした特殊性「自体」
を構成する概念装置を受け容れてしまうことによって、特殊性のなかにある差異の弾圧をしばしば正当化する結果になる。さらに、
特殊性の分節化を可能にする概念装置そのものが自らの普遍的妥当性を前提しているという点を、
特殊性に固執する批判はしばしば忘れてしまうのである。
特殊性への固執も相対主義への固執も自動的に人種主義からの自由を保証するわけではないのである。



人種主義に関する提言(2)


他方、だからといって人種主義を対象化する試みを素朴に拒否するわけにもゆかない。そのような拒絶は、対象としての「人種主義」
が存在しないというだけではなく、人種主義「そのもの」も存在しないと、ほのめかすことになるだろう。さらにもっとひどいことに、
「人種主義」は、その外部を欠いている以上、必然的であり、存在に内在し、自然なものである、とほのめかすこと
(われわれには実になじみのある「ほのめかし」ではないか)になるだろう。このように、拒絶は、
人種主義をその固有の文節化に従って特定することを不可能にしてしまい、
批判の実践を不可能にさせてしまう政治的冷笑主義にわれわれを追いやってしまうだろう。人種主義の真剣なかつ厳密な批判は、
少なくとも人種主義には「外部」があるという希望を必ず設定しなければならず、人種主義の「外部」への希望を維持するためには、
基本的にその希望がたんなる信仰の問題であってはならず、人種主義の外部はたんなる虚構や「観照的な」
ユートピアであるわけにはいかないのである。







われわれが潜在的なかたちと顕在化されたかたちの両方の人種主義に対する告発を行うためには、
われわれは対象としての人種主義を一方的に拒絶し、そのとらえ難い偏在性を諦めて受け入れるわけにもゆかないし、かといって、
冷笑主義の諦観の立場からも禁欲主義(ストイシズム)の自己正当性に硬直した立場からも、
われわれの考察は出発するわけにはゆかないのである。







したがって、人種主義を一方では可能な対象としてまた他方では不可能な対象として産み出すさまざまな公式、すなわち、
人種主義に関する言説を知識として産み出し学問的領域として確立するための公式と、
そうした公式をひるがえって追認する役割を果たす知識に則って、人種主義の「外部」をつくり出すわけにはゆかないのである。むしろ、
必要なのは対象化可能性が構成されるさいに動員される基本概念装置、対象化一般、そしてとくに「人種主義」
の対象化を可能にする基本概念装置を、あらためて問題視することなのである。「内部」と「外部」、「主観」と「対象」
といった対立項の妥当性に挑戦し、これらの項がたがいに本当に排除的な関係にあるのかどうかを問うことも必要だろう。
こうした再検討の作業の過程で、
他者の外部性を内部性に対立する外部性とは違った仕方で考えることがわれわれに要求されてくるかもしれない。
もちろんこうした関心は永らくある種の哲学的実践にとっての関心でもあったわけだが、われわれがこの再検討において求めているのは、
哲学的問題への解答ではなく、そうした哲学問題がわれわれの政治的実践においても有意義である事実を明示することなのだ。







まさにこの意味で、われわれの企画はある種の理論的責務を自ら引き受けるひとつの投企(希望の可能性の探求としての未・来、
つまり未だ来ないものへの投企)であることがわかるだろう。いうまでもなく、理論的であることへのこの責務は、
同じ理論用語を使うといった同意の場面に固執することでも、またその対象に十全な「人種主義の理論」
をつくり出すことだとも了解されてはならない。あるいはまた、この理論的であることへの責務は、一般性においてのみ思考すること、
人種主義的弾圧の特殊例に関する特定の議論を拒絶することを、われわれに要求するわけでもない。この企画においては、
われわれは理論的に現実に関わることによって政治的に現実に干渉することをめざす。そして、この企画が政治的干渉を意味しうるのならば、
特殊な事実に関する特殊性が構成されるさいに動員される概念装置を、その事実的な特殊性の側面と同時に特殊性一般の側面においても、
問題視するのでなければならないだろう。つまり、われわれは、
人種主義の特定の例に固有の特殊な状況あるいは環境に注目しなければならないが、と同時に、そうした特定の例をひとつの
「人種主義の例証あるいは審級」として、ひとつの事例として構成する在り方へも注目しなければならない。



人種主義に関する提言(1)



人種主義に関する提言


人種主義に関する委員会




1987年3月20日 於シカゴ

ウィリアム・ヘイバー、ナオキ・サカイ(日本語訳文責 ナオキ・サカイ)



まず最初に、ここで人種主義と呼ぶ現象あるいは一群の現象を考察し、
人種主義の政治においてこの考察を成し遂げようとするわれわれの企画には、
一定の困難さが不可避に伴うであろうことをあらかじめ認めておかなければならない。われわれは人種主義について考察し、
人種主義について論証し、人権主義を告発するわけだが、この困難さはわれわれのこうした言説と実践の対象となる「人種主義」
の地位にかかわっている。
確かにわれわれは広範にわたる人種主義のまったく見粉いようのない悲惨な効果をたえず目撃しているわけだが、だからといって、
人種主義とは何であるかをすでにわれわれは確信をもってあるいは躊躇せずに知っていると安易に前提にするわけにもゆかない。また、
おそらくより意識的ではあっても結局は自己反省的な懐疑を含まない、つまり「人種主義」を孤立した概念的対象として設定する、
人種主義の定義を提案するわけにもゆかないのである。さらにまた、だからといって、「人種主義」の不可避な曖昧性を確認したという、
いかにも教育的な身振りを思わせる建前に自足するわけにもゆかないのである。
われわれの企画の全体は対象としての人種主義のもつ多義的な性格に呪縛されており、
その意味で一定の不可能性に制約されていることをわれわれは認知しなければならないのだ。しかし、この不可能性の認知を経なければ、
人種主義的な弾圧をしばしば正当化する言説をたんに再生産する代わりに、
そのような言説を告発することができるようになることは望むべくもないだろう。







一方で、もし、われわれが曖昧さのない対象性を設定する方針を確信をもって採用するならば、つまり、われわれが「人種主義」
と呼ばれる対象の限界を規定し限定しうるとするならば、つまり、人種主義的なものから人種主義的でないものを区別できるとするなら、
少なくとも以下の立場を暗黙のうちに前提したことになるだろう。すなわち、われわれは一定の視座、つまり、
そこからは人種主義とその外部が明確に同定できるような視座を占めていることになり、この視座は、
われわれが意図しているか否かにかかわらず、「人種主義」の外に設定された視座ということになるだろう。
いまここで問題になっているのは、第一義的には、人種主義に関与してしまっているわれわれ自身の罪責感に関する、自己反省、
自己批判、あるいは告白、などではない。超自然的にその対象から距離をおかれた視座を採用できると思い込むことによって、
そのような視座が構築される諸前提が、
あからさまに人種主義的な言説の諸前提と実はまったく供約的なものである可能性を考えられなくしてしまうのだ、
という点を指摘しておくことは重要だろう。