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2007/03/14

清水穣著『不可視性としての写真』(著者インタヴュー)











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清水穣著『不可視性としての写真』(著者インタヴュー)

(『アサヒカメラ』1995年11月号、朝日新聞社刊)


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写真評論、研究論文などを対象とする「重森弘淹写真評論賞」の第1回受賞作となった
「The photographic Invisible――写真と不可視性」のなかで著者の清水穣氏は明快に言う。
写真とは表象を持たずにレフェラン(指示対象)
だけを持つ特殊な記号である。記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、
心理とも記憶とも関係がない。写真は、「撮るもの」からも「撮られたもの」からも独立している。
これが私たちの出発点だ、 と。

 「僕の場合は、
写真というメディアというよりも写真がもたらした一種の認識論的切断というものに関心があったんですね。
それ自身の対象を持たないがゆえに可能な衝撃力、そういうものを理論的に詰めていかなければいけない、と。
それを押さえずにはそもそも論が立てられないし、印象批評になっちゃう。
僕にはとりあえず感情移入するという能力がなくて(笑)」


 この受賞論文は、J.ウェリングの個展のさいに出版されたテクストを新たに書き改めたものだ。

 「ウェリングは、自分の持っているイメージを意匠として形にしたり、写真を単なる技法とするのではなく、
〈写真を撮る〉 ということについての思考、
つまり現実の薄皮を剥ぎ取ってフィルムに定着させることの意味を考えながらそれを制作に結びつけていく。
その作品について書くのだとすれば、写真を撮る行為そのものから論じ始めなければならない。

 それから、とくにベンヤミンが典型的なんだけれども、アウラの記号論みたいな、
記号の持っている意味というものをひとつの巨大な外部性みたいなものに措いておく。それに対しての決断、
というか切断がベンヤミンの思考のなかにあったと思うんですね。そういうところをフォローしたかった」

 そうした理論的作業のかたわら、「海外の理論や文化を輸入することも必要だけれども、
例えば長船恒利みたいにトーマス・ シュトゥルートみたいな作業を同時代に、
しかも数年早くやっている作家もいるでしょう。 そういう作家を紹介していくことも必要」と語る。

 インターネットでの情報流通の状況の話題では、いくつかのホームページに触れながら、その問題点を指摘する。
さまざまなかたちでの実践的なコミュニケーションの方法論を探る様子が印象的だった。
脱領域的な活動を期待させる一人だろう。




2007/01/31

「不可視性としての写真」でやろうとしたのはピュアな写真論でした

清水:

変わりましたね。「不可視性としての写真」でやろうとしたのはピュアな写真論でした。当時も今も、写真をめぐる言葉のメーンストリームは
「リアル」という言葉だと思うんです。たとえば「リアルにモノを撮るのが写真である」という考え方です。

でもリアルなものを表現するときに、ただシャッターを押せば写るわけではない。だからアレやブレなどの手法が生まれたり、
とにかくどこかの現場へ行って撮るということが繰り返されている。現実の向こうに本当のリアルな裸の世界があって、
人間の目ではそこまでたどり着かないけど、カメラの力を借りればそこまでたどり着くんだ、という考え方ですね。
これは簡単にいってしまえばシュールレアリズムですよ。

写真論も大まかに言えばそこからきています。でも、僕はそこから抜け出したかった。それが「不可視性としての写真」だったんですが、
やってみてかなり難しいということがわかったんです。それに、具体的な写真家や写真作品を直接論じない、
純粋な写真論に自分でも飽きてしまった。なぜかというと、誰についても同じことしかいえない写真論なんか意味がないじゃないか、
ある写真家について新しい発見が何もない批評なんて、と思ったんです。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビューより)



竹内敏信さんに聞く645の魅力

-画面が大きくなると、本当に画質がよくなるのですか。

竹内敏信(以下竹内):それはだれに聞くまでもないこと(苦笑)。つまり同じものを撮っても、
35ミリより645で撮ったほうがきれいに仕上がる。例えば、大きな全紙、全倍にすると明らかな差が出てくる。粒子が目立たなくなるし、
微妙なグラデーションも表現できる。特にフジのベルビアの登場は大きいな。
この歴史的な傑作フィルムによって90年代から風景写真が大きく変わった。ベルビアと645を組み合わせることで、
デリケートな風景写真の表現がすべてできるようになった。これが日本人の風景写真意識を変え、
大勢のアマチュア写真家が表現としての風景に挑もうとするようになったんじゃないかな。


-でもアマチュアが使うには645は少し重くありませんか。

竹内:ちょっと大きくて重いことが、「撮る」という意識を明確にするんです。特にアマチュアの場合はね。きちっと三脚をつけて、
撮影に挑むぞ、という意欲がわいてくる。これは大きい。正確にきっちりと、自分の望むものを引き出させる、そういう大きさ、重さなんだ。
それに自然を撮る側としては「撮らせていただく」という姿勢を忘れてはいけないけど、645はあまり大げさすぎず、
自然のふところに入っていくには最高のシステムだと思うよ。


-なんだか、いいことずくめのようですが、その割には、竹内さんはよく「645の画面はだらしがない」と言います。

竹内:それは画面比率のこと。35ミリの2対3の画面比率はとても緊張感があって美しい。それに対して645や6×7の画面比率は
「だらしがなくて」、かなりうまくないとヘタに見える。この画面比率を知ったうえで、風景表現に取り組むべきだし、
訓練によって緊張感のある画面が引き出せるようになると思う。


-645を使いこなすには風景をどう切り取るか、よく考えることが大切なんですね。

竹内:風景を切り取る? 違う、違う。何を言っているの。 空間を「切り取る」なんていう発想はろくでもないよ。そうじゃなくて、
風景の美の本質を「引き出す」んだよ。そのためにズームレンズを使うんです。


- どうやって訓練すればいいんですか。

竹内:写真表現、ファインダーの中の自分のセンスを磨いていくことだね。センスを磨くことによって、
どこを引き出せばよいかが風景の中に見えてくる。


-なんだか雲をつかむような話ですが、もう少し具体的に教えてください。

出会った風景の中でもっとも特徴的で本質的な美を探すということだよ。「風景に神宿る」ってよく言うんだけど、風景の中には神様がいて、
その神さまがいるところを探し当てる。ちょっと見渡せば自然の中にはどこにでもあるのだけど。
そういう隠れている美の本質をカメラアングルやレンズワークを工夫して引き出していく。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 竹内敏信さんに聞く645の魅力から)



「撮る」から「見る」へ

-清水さんの文章というのは、徹底して写真を見て読むことから始まり、
そして再び読者が写真を見ることへと戻そうとしているようにも思えるんです。


清水穣:うまい言い方だと思います。僕がとり上げた写真家がなぜ面白いかをひたすら読者に追体験してほしい。その意味では、
僕の文章には感想がありません。感想を書きたいとも思わないし、写真を形容する言葉を探すのもめんどうくさい。(笑)


-感想は写真を見た人に任せるんですね。一方でメディアに写真が氾濫し、誰もが写真を撮るこの時代に、写真を作品として意識的に
「撮る」ことの可能性についてどう思いますか?


清水:すべてのものが撮り尽くされているとは思いませんね。何を撮ってもいいし、いつだってシャッターチャンスはあると思う。
ただテクノロジーの進化で誰もが失敗しないでなおかつ大量に撮れるようになった。そうなると何が起こるかというと、
見る力がないことに気づかされるです。公募展を見ても、ありえないというくらい、選んでいる作品がよくない。


-写真が誰にでも撮れる時代だからこそ、見る力が重要ですね。


清水:そのとおりです。写真家だって自分で写真を選ばなければ始まらない。どんなに素朴に撮った写真でもいい写真はいい。
それが写真の自由なんです。どんな絶望的な気持ちで撮っても希望に満ちた写真に撮れるかもしれない。そこが写真の面白さ。人類の希望です
(笑)。でも、その希望は「見る」力があってこそ見えてくる希望なんです。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビューより)



リアルはジョーカー

-清水さんはかつて、写真の存在論があるとしたら、それは撮られているものにも撮っている人にもなくて、
撮られているものと現実との落差そのものにあるのではないか、という意味のことを書いていらしゃいましたね。


清水穣 (以下 清水):

それはバルトが言っている「第三番目のもの」と同じです。写されたものの個性でも、写した側の個性でもない。じゃあ何だろう。バルトは
「プンクトゥム」であるとか、「鈍い意味」であるとか、いろいろな言い方をしていますね。写真論では「第三番目のもの」を「リアルなもの」
「語りえぬもの」と名づけて済ませてきたんですよ。つまり写真論も。見る側も画一的なんです。「リアル」
という言葉をジョーカーのように使えるから。「日常のふとした瞬間を切り取った時、世界がふとリアルに感じられる」
とでも言っておけばいいんですよ。でも、これって要するに広告の言葉ですよね。60年代の後半くらいからそうなっちゃった。だからダイアン・
アーバスは簡単に広告にとりかこまれて、最終的に絶望してしまった。日本で言えば「ディスカバリー・ジャパン」のころから、
リアルで手垢のついていないものじゃないと売れないんですよね。でも、それがなぜかいつもワンパターンなんです。


-そのリアルはいつでも取り替え可能なリアルなんですよね。

清水:僕はそれをナチュラルメークって呼んでいるんです。


-確かに語義矛盾ですよね。言いえて妙です。(笑)

清水:おかしいでしょ。ナチュラルなメークって。化粧品でたとえるとよくわかるんですけど、化粧品はナチュラルじゃないと売れないでしょ。
自然とかリアルがいかにコマーシャライズされていて、いかにイデオロギーかということがわかるんです。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビュー)