-清水さんはかつて、写真の存在論があるとしたら、それは撮られているものにも撮っている人にもなくて、
撮られているものと現実との落差そのものにあるのではないか、という意味のことを書いていらしゃいましたね。
清水穣 (以下 清水):
それはバルトが言っている「第三番目のもの」と同じです。写されたものの個性でも、写した側の個性でもない。じゃあ何だろう。バルトは
「プンクトゥム」であるとか、「鈍い意味」であるとか、いろいろな言い方をしていますね。写真論では「第三番目のもの」を「リアルなもの」
「語りえぬもの」と名づけて済ませてきたんですよ。つまり写真論も。見る側も画一的なんです。「リアル」
という言葉をジョーカーのように使えるから。「日常のふとした瞬間を切り取った時、世界がふとリアルに感じられる」
とでも言っておけばいいんですよ。でも、これって要するに広告の言葉ですよね。60年代の後半くらいからそうなっちゃった。だからダイアン・
アーバスは簡単に広告にとりかこまれて、最終的に絶望してしまった。日本で言えば「ディスカバリー・ジャパン」のころから、
リアルで手垢のついていないものじゃないと売れないんですよね。でも、それがなぜかいつもワンパターンなんです。
-そのリアルはいつでも取り替え可能なリアルなんですよね。
清水:僕はそれをナチュラルメークって呼んでいるんです。
-確かに語義矛盾ですよね。言いえて妙です。(笑)
清水:おかしいでしょ。ナチュラルなメークって。化粧品でたとえるとよくわかるんですけど、化粧品はナチュラルじゃないと売れないでしょ。
自然とかリアルがいかにコマーシャライズされていて、いかにイデオロギーかということがわかるんです。
(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビュー)