年をとるということに対して、誤解してきたことに気づきました。七〇歳くらいになるまで誤解していたと思います。
老いというのは、なだらかな変化だと思っていたのです。手足を動かすのがだんだん億劫になっていって、
そのうちに自由に動かせなくなるとか、そういう感じだと思っていた。しかし、そうではなくて、あることを契機にして、
がたりと落ちていくのです。実際にそうなってみて、はじめてわかりました。
ちょっと寝込んで、起きあがるとふらふらする。四、五日もすれば元に戻るだろうと思っていたら、その「元に戻る」
という感覚がわからなくなってしまっているのです。最後に寝込んだ時は、とにかく起きあがったはいいのだけれど、
立っていられなくなった。どこかにつかまらないと立っていられないわけです。これには参りました。
子どもの世話にはならんと思っていたけれども、実際には、いま、食事のことから何から世話になっているわけです。
外に出て用を足すような時には、子どもがついてきます。ついてこないことが理想なんですが、ついてきます。いま、東京を離れて、
どこかに行って用事をするということができないでいるのですが、こういうことにいなるとは考えもしませんでした。
おまえは子どもに迷惑はかけないと言っていたけれども、かけているじゃないかと言われると、その通りで、
それはわからなかったんだよ、と言うしかありません。子どもが成長していく盛りの時は、将来、
子どもの世話になんかならずにすむだろうと思っていたわけです。こうなることがわかっていたらよかったと思いますね。
いまは少しよくなってきましたが、地面が少しでこぼこになっていると、自転車に乗っていて転んでしまうのです。そういう時に、
近所の女子中学生や高校生がたまたま通りかかると、「おじさん、どうしたの?」「大丈夫?」
などといって自転車を起こすのを手伝ったりしてくれます。みっともないなかと、つくづくみっともないなあと思います。
転びそうになったら、片一方の足をつけて止まればいいわけですが、それができなくて転んでしまうのです。最近は、
ややできるようになって、自転車を横にすっ転ばすみたいなことにはならずにすむようになりましたが、こうしたことは、
思いもかけなかったことだなあという感じです。
ある年齢になったら、こういうことが起こってくる、こういう問題に直面するというのは、どんな人でもだいたい共通しています。
このくらいになったら親が弱ってきて面倒を見なければいけないとか、それには経済的にいくらくらいかかるとか、
自分の身体も弱ってくるとか。
そういうこをあらかじめ、ひとつだけでもいいから、その年齢以前に解決していたら、とても楽です。
できればそうしたほうがいいのですが、それができるのは相当な人だと思います。ぼくらはその年齢になってはじめて気がついて、
これはいかんというので泡食って、いろいろ対策をするしかありません。
だから朗らかな老人なんてこの世にいるわけがないと、ぼくは思っています。でも、
そんな人が文筆家にもエディターにもいることを知り、仰天してしまいました。まじめに働いてた人か、
家に恒産がある人に違いありません。ぼくなどには縁遠い人です。
「青年時代みたいに戦争には引っかからないし、命の心配もないし、いまほど楽しい時期はない」
などと言う老人がたまにいますが、ぼくはとても信じられない。
普段はあまり考えないようにしていたとしても、ある軌道の中に入ってしまったら、
憂鬱で憂鬱でしょうがないというのが老人です。その軌道に入らないためにはどうしたらいいかということが、
老人にとって一番大事な問題なのだと思っています。
(「ひきこもれ ひとりの時間を持つということ」 吉本隆明 大和書房)