清水:
変わりましたね。「不可視性としての写真」でやろうとしたのはピュアな写真論でした。当時も今も、写真をめぐる言葉のメーンストリームは
「リアル」という言葉だと思うんです。たとえば「リアルにモノを撮るのが写真である」という考え方です。
でもリアルなものを表現するときに、ただシャッターを押せば写るわけではない。だからアレやブレなどの手法が生まれたり、
とにかくどこかの現場へ行って撮るということが繰り返されている。現実の向こうに本当のリアルな裸の世界があって、
人間の目ではそこまでたどり着かないけど、カメラの力を借りればそこまでたどり着くんだ、という考え方ですね。
これは簡単にいってしまえばシュールレアリズムですよ。
写真論も大まかに言えばそこからきています。でも、僕はそこから抜け出したかった。それが「不可視性としての写真」だったんですが、
やってみてかなり難しいということがわかったんです。それに、具体的な写真家や写真作品を直接論じない、
純粋な写真論に自分でも飽きてしまった。なぜかというと、誰についても同じことしかいえない写真論なんか意味がないじゃないか、
ある写真家について新しい発見が何もない批評なんて、と思ったんです。
(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビューより)