「娘が自分の母親のことを知らないなんて!」
そのとき、私は思い当たった。彼女達は恐れているのだ。私を自分達の娘と重ねてみているのだ。私と同じように無知で、
彼女達がアメリカに持ち込んだ真実や願いをまるで気にかけない娘達のことを。中国語で話しかける母親をじれったく思い、
片言の英語で説明する母親を愚かだと思う娘達のことを。おばさん達は、ジョイ(喜)とラック(福)
が娘達にとってもはや同じ意味でないことを、アメリカ生まれの娘達の閉ざされた心には”喜福”
が一つの言葉としては存在しないことを知っているのだ。いつか孫を産んでくれる娘達が、
代々伝えられてきた希望のつながりと断絶してしまったことを知っているのだ。
「すべてを話します」 私が一言いうと、おばさん達は疑わしそうに私を見つめる。
(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢瑞穂訳)