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2007/03/01

ベッヒャー論への難しさ

写真はレフェラン(指向対象)の芸術である。しかし、写真論の困難は、レフェランを純粋にそれだけで論じることの困難でもある。
我々はかならず、写された世界を論じるか、写真の写し方を論じてしまうのだ。ベッヒャー・シューレについて語る困難もそれと同様である。
人は世界各地の給水塔を論じ、重化学社会の歴史を論じてしまう。あるいは「主眼を廃した客観的な方法論」を論じ、
新即物主義とのつながりを見て、タイポロジーの系譜を辿ったりする。もし対象自体に意味があるのであれば、
それはドキュメンタリーにほかならない。もし対象は任意であり、写真のスタイルをも含めた意味でのタイポロジーが重要だというのであれば、
ベッヒャー・シューレは無限に増えるであろう。


(中略)


ベッヒャー論をさらに混乱させるのは、「対象の尊厳を十全に引き出すために、人為をミニマルに切り詰める」という類の言い回しである。
「何もしない、何も作らない」この方法論はドキュメンタリー写真「例えば写真集「ルール工業地帯」)に限りなく近い。これはゲージが
「音を音のままにしておく」と言う時に生じる誤解と同型だ。音を音のままにするために、何もしなければ。それは騒音になるだるだろう。
そして騒音もまた音楽の一つである。だから、音を音のままにするためには、何かしなければならない。つまり「何もしない」ためには、
厳密な秩序に従わなければならない(ゲージが用いた易教のように)。それがベッヒャーの場合タイポロジーであり、
彼らの不動のスタイルである。


ベッヒャーの作品は反ドキュメントである。ドキュメントとは、ある現実(と想定された)
状況についてのドキュメントであるからストーリー(説明文、報道記事)から自由でない。言い換えれば、写真に写された断片とは、
連続した現実の部分であるとされる(部分→全体)。しかしレフェランは何かの部分ではなく、完結している。何もしない、
とはモノをモノのまま完結させて写真を撮ること。モノをレフェランにすることである。だからレフェランは何もドキュメントしない。つまり、
厳密な秩序に従ったドキュメンタリーというのは存在しないのだ。


ベッヒャー・シューレを論じるにあたって、ベッヒャー的レフェランの特質はその政治性にあると私は考えている。もちろん、
直接彼らの作品に政治的なモティーフを探すというのはナンセンスである。しかし、芸術を政治から隔てようとする純粋主義(芸術のための芸術)
と、政治的な芸術(例えば政治的マイノリティの作品)に良心的な同意を贈る身ぶりは、同じヒステリーの表裏であり、それは、
芸術は政治的な主題(とは、たいていの場合全く政治的ではない)に従わなくとも本質的に政治的であること、それどころか、
最も非政治的なものこそ政治は宿っているのだ、ということを隠蔽する。戦後ドイツにおいて、最もこの抑圧が顕著なのが芸術(ファインアート)
の分野である。芸術は非政治的でなければならない。芸術を「政治的な芸術」のゲットーの外部で政治的に解釈すること、特に、
やっとドイツという壁を越えて国際的になった芸術に対してそうすることは不快であろう。それこそ政治の効果なのだ。
配線から復興した文化的国家として、首相は当然モーツァルトくらいはピアノで弾けなければならないし、
官僚の趣味も会議後のオペラでなければならない。彼らは「教養」の政治性を知悉しているからである。戦後の新生ドイツは、もはや「ドイツ」
ではなくなった国民としての同一性を芸術と文化に託した。それは立派な政府だったのである。今は削減の方向にあるとはいえ、文学、美術、
音楽への恵まれた公的助成は、戦後政治の一部である。芸術に国家予算をつぎ込むこと。それ自体は何ら批判すべきことではない。しかし、
スキャンダラスな言い方をすれば、それもまた西ドイツにおけるナチスの遺産なのである。


以下で述べるように、ベッヒャー・シューレを戦後ドイツという特定の政治的空間と切り離して考えることは不自然である。もちろん、
強調しておきたいが、それは不可能ではないし、本論で示される解釈はたんなる一解釈にすぎない。ただ、
ドイツという固有の文脈を消去したとき、それは抽象的な解釈ゲームになるだろう。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)



2007/02/28

ベッヒャーの無人世界

超越論的主体の場所、無人風景はこの境位で現れる。それは私と世界に先立つ、非人称的な風景であり、そこにおいて人間は何も見ない。
見るのは風景である(セザンヌ)。無人の「風景」に現れているのは「私」と「世界」(複数形)のあいだの「境界」に「潜在」するものである。
この潜在性・中間性をどのように理解するかが問題となる。これは、写真は何を表現するのかという問題でもある。


無人風景の中間性の第一の理解は、汎神論に接近する。例えば、我々は光そのものを見ることは出来ないが、
偏在する光によって映像を見ている。同様に、我々は質量=物質をその形式(現在態)において認識しているが、物質そのもの(可能態)
を認識することは出来ず、このとき物質とは先天的諸形式の彼方の物自体というよりは、むしろ光のような偏在である。
世界を構成するあらゆるものの存在は、そのままmでは見ることが出来ない。だから問題なのは、水蒸気を水に、水を氷にするように、
それ自体としては不可視のものを目に見えるようにするレンズであり、偏在する物質そのものを映像化するフィルター、つまり、ブレヒトの
「方法」なのである。


この場合、写真には物質の存在感(物の瑞々しい存在感)が表現される、と言うべきなのだろう。そしてその存在感に、さまざまな要素
(例えば歴史や記憶)を連携させ、こうして人は写真を雄弁さで覆い隠す。しかし、たとえこの偏在が、
何か包括的な全体集合ではなくおのおのの存在者への内在であるとしても、これはまさしく神秘主義(汎神論)と言うべきである。
あらゆる記号性の彼方で、宇宙は神(魂、存在、カオス、アウラ)に満たされている。魂はあらゆるものに宿っており、
芸術家の秘蹟によって顕現する、というわけなのだから。


中間性の第二ヴァージョンは反転したイロゾイズムIlozoism(物質生命論)である。イロゾイズムでは、
物質から離脱したり物質へ宿ったりする「魂」を認めず、おのおのの物質は独立して生きていると考える。
人間の生と自然の生は独立した二つの生命であり、さらにある物質の生と別の物質の生は独立した二つの流れである。この考えを反転させると、
すべての生の流れの外にある世界が現れる。そこにおいて、あらゆる生の流動が遭遇し、融和し、また崩壊するような真空地帯。例えば、
人間というシステムという自然というシステムが浸食しあう場所、それはビュスタモントやボルツの、
無表情な無人の風景に相当するかもしれない。ここにはなるほど神秘的な深みのようなものはない。無人風景は、
時間と空間をすり抜けて単に存在し続けるだけの、感動とも絶望とも無縁な宇宙の退屈な有り様にすぎない。定義上、全ての思考可能性、
知覚可能性をすり抜けるこの世界は、人間には絶対的に無関心であるから、「非人間的」でも「無機的」でもない。
原子核と一番内側の電子雲のあいだに広がる距離のように真抜けてはいるが、人を発狂させるには充分なほど絶対的に愚鈍である。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)