自由。もっとも光輝に満ち、もっとも危険で、そして最も陳腐な言葉。近代以降の侵略軍において、解放軍でないものは存在しただろうか?
(『自由を耐え忍ぶ』 テッサ・モーリス=スズキ 辛島理人訳 岩波書店 P5)
ここでいう「市民」は、日本語の語感からはずいぶんとかけ離れた意味をになっているので注意を要する。日本語の「市民」は、
ただの町の人、生活者、政治とは関わりのない普通の人というニュアンスが濃厚だが、ドゥプレのいう「市民」
とはフランス語のシトワイヤンのことで、ポリス=政治社会の構成員、すなわち公事=レス・ププリカに参加し、国家意思、
政治的意思の形成にかかわる自律的個人を指している。その意味では、「公民」とするほうが適当かもしれないし、
現にそのように訳される場合もある。ただ、日本語の「公民」にはお上に従う民というニュアンスがあり、
それではシトワイヤンの本義から大きくはずれることになる。フランス語のシトワイヤンとは、「人権宣言」として知られる、1789年の
「人および市民の諸権利にかんする宣言」における「市民」のことである。この「宣言」における「人」
とは啓蒙の思想家たちが好んで使った概念である「自然状態」における個人のことであり、「市民」
とは社会契約によって形成された共同世界=政治社会のメンバーを意味している。
これがフランス型の「市民」概念であるとすれば、「市民」にはアメリカ型の考え方が存在するとも言われる。この理解によれば、「市民」
とは、国家から自由な市場に参加し、私益を確保する人間として定義される。アメリカ型の「市民」
が国家からの自由を享受する個人であるとすれば、フランス型の「市民」は国家への自由を担う存在ということになる。このふたつのタイプの
「市民」は、見られる限り、「自由」に対するふたつの異なったとらえ方を前提にしている。十九世紀前半の思想家・作家バンジャマン・
コンスタンは、「国家への自由」と「国家からの自由」を、それぞれ、「古代人(古典古代のギリシャ・ローマ)の自由」、「近代人の自由」
として理解した。
(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)
(補足1:「ここでいう」の「ここ」とはレジス・ドゥプレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」を指す。
本文は訳注として掲載された文章である)
(補足2:「市民」はフランス革命以前は男性名詞としか存在しなかった。)
自由を干渉の不在-「私が自らのする選択を他者によって妨げられないこと」(I.バーリン)-
として定義する消極的自由の概念に対して提起されてきた批判を検討してきた。これらの批判によれば、この自由の概念は、(1)
選択肢を質的に区別し、その価値を比較する視点を欠いているという点、(2)
選択肢が行為者にとって現実的にアクセス可能なものであるかどうかを度外視する点、(3)
選択肢が行為者自身の内的な制約によって閉じられることを問題化しえないという点、(4)
意図的な干渉によらない構造的要因ゆえに生じている不自由や不作為によって放置されている不自由を自由の制約・
剥奪としてとらえることができないという点、(5)干渉が不在である場合にも支配が存在することを適切に批判しえないという点、(6)
他者との(間)ではじめて享受されうるような政治的自由をその概念から締めだしているという点において問題を含んでいる。「個人の・
行動に対する・外部からの・意図的な・干渉の不在」として自由が規定されるかぎり、膨大かつ深刻な不自由が許容されうることになる。
(「思考のフロンティア 自由」 齋藤純一 岩波書店)
ヘーゲルが「絶対知」と呼ぶものは、現在のグローバル化の予示であり、「歴史の終わり」と共に現れます。精神は、
その発展段階のすべてを経ると、歴史的プロセスの終わりを記す、ある完成状態に到達します。
この完成を、ヘーゲルはどのように定義しているか。それは、本質的に政治的な意味を持っています。歴史は、
最高レベルの自由が実現した時に終わりを遂げます。
人間の内的自由あるいは思考の自由に関していえば、この最高レベルは、ヘーゲルにすれば、プロテスタンティズムによって導かれた
「自省の原則」に相当します。
言い換えれば、みずから自分を裁くことができ、自分の行為に関する責任をきちんと判断できる時、人間は完全に自由なのです。
外的自由、政治的自由、社会的自由に関して言えば、自由の最高レベルは近代民主主義の台頭に相当します。
自己の意識と社会生活において解放された人間は、それ以上望みえないほどの完全な自由を手にします。
歴史が終わったといっても、もちろん何も起こらないという意味ではなく、それから先の出来事においては自己批判と民主主義以上のもの、
それ以上に羨望されるようなものは何ももたらされないという意味です。
絶対知とは、概念の領域でこのような政治的完成に相当するもの、すなわち最高レベルの完成に達した哲学的思考です。すべての問いは、
はたして絶対知が歴史と思考の停止を意味するのかどうかを知ることにあります。
ヘーゲルに批判的な読み手の多くはそう肯定し、たとえばハイデガーは、弁証法的哲学は最終的に時間と歴史を追い出し、その代わり、
国家の絶対権力に表されるような人間の有限性を、神の永遠性と無限性に置き換えたと論証しました。
フランシス・フクヤマは、絶対知にグローバル資本主義の勝利を見て取り、つまりグローバル資本主義に代換するものなどいっさいなく、
地球上における唯一の生産手段として君臨すると述べています。
たしかに、民主主義が資本主義と一体化していることは、今日、地球規模ではっきりうかがえます。
しかし私の考えでは、絶対知の登場によって、解放のプロセスすべて、
つまり人間が完全な自由を獲得するプロセスすべてが停止することを意味しません。ですから、新たな営みとは、
既存システムの外部に存在するもの、すなわち既存システムの内部には存在しないものを見つけることではけっしてありません。
絶対知は閉じた世界の思考であり、超越性はなく、部分修正されることもありません。グローバル化が意味するところはさまさにそこにあります。
各地で戦争や紛争が起こっているにもかかわらず、同じモデルが至るところで君臨しています。
とはいえ、グローバル化は「ストレンジネス(奇妙さ)効果」(同一性に他者性が混ざり合うこと)を妨げるものではありません。
まさにこの点を、私は絶対知に内在している「未来の根源」と呼んでいます。
そしてこれは、ストレンジネス効果の創造、つまり他者性のない世界において他者性を創造することなのです。
この逆説をあくまで維持し実践することが重要です。要は、歴史の終わりが告げられた現在、どうすれば我々は自己変革できるのか、
その術を知ることなのです。
(哲学者 カトリーヌ・マラブー氏インタビュー ダイアモンド・ハーバード・ビジネスレビュー 2007年4月号)
では逆に、アーレントは政治の純粋性に、なぜそこまで固執するのであろうか。それは「自由」のためである。
自由こそが政治の存在理由であり、自由は「意志」の中にあるのでなく、「活動」の中にある。
すなわち自由であることと活動することは同じである。「活動」において「自由」を定義づける彼女の議論は、
活動の役割をその人らしさの表現と定義する。その「活動」を通して、われわれは「世界」に入り込み、それに変え、そこに先例のない、
予見できない新しさをつくり出す。「活動」が「複数性」を生み出すのはこのゆえであり、公的な舞台に立つことで、人々の違いは明らかになる。
この、新しいものと、相違をもたらす能力をアーレントは「出生」(natality)と名づけ、「必要性」(necessity)
の圧力や効用の計算からは説明できないものとする。「活動」を効用や配慮に従属させては、自発性や創意を破壊することになるだろう。「自由」
とは、やはり「政治」を手段的権力的なものから純粋化する過程そのものに存在する。「政治のための政治」、
つまり政治が自己目的的であるというのは、人々が差異を保ちつつ共存できる世界を建設し、
維持すること自体が政治の目的であるということを意味するのであり、この政治的自由は経済やイデオロギーに妨げられてはならないのである。
すなわち公正な分配についての経済的問題と、
集団としてのわれわれが自分たちを統治する制度を形成するという政治的問題を別の問題として区別することが、
自由な市民であるための条件なのである。
しかし実際に、経済的問題と政治的問題をそのように厳然と区別することは可能だろうか。たとえば、M・
アグリエッタは次のように述べている。
「個人が資本に服従するのは、労働力の売り手としてだけではない。無数の社会関係(文化、余暇、病気、教育、性、さらには死さえも)
への編入を通じてなされる。資本制諸関係から逃れられるような個人生活や共同生活の領域はほとんど存在しない。」
つまり、資本の論理はすでに私的領域のすべてに浸透しているのであり、
このような状況下で経済的問題をすべて政治的問題から排除することが果たして望ましいことなのか、と問うことも可能であると思われる。
(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)
M・アグリエッタ:ミッシェル・アグリエッタ、「資本主義のレギュラシオン理論」
参考:"http://cruel.org/econthought/schools/neomarx.html">"3">新マルクス学派(ラディカル政治経済)
ではアーレントは「自由」というものをどのようにとらえているか。彼女は「自由」(freedom)と「解放」
(liberation)を区別する。「政治的自由」(political freedom)と「市民的自由」(civil
liberty)や「市民的権利」(civil right)は混同されてはならないとする。
市民的自由とは市民の私的生活を守るものであり、私的な事項に属するが、政治的自由は公共の事柄に参加する自由こそを意味する。
さらに言えば、アーレントの考える「自由」は、何か新しい事柄を産み出す能力でもある。
「政治的自由とは何かを意思する能力ではなく、私が何かをなしうるという能力なのである。」
つまり自発性と、何かを産み出す能力がアーレントの「自由」の内容である。そしてさらに重要なのは、従来の共和主義者
(自由主義的個人主義を批判し、公的意味において自由を理解する人々)でさえ、
自由をすでに設定された課題に対して集団的決定をなすことと考えるのに対し、設定された選択肢からどれかをえらぶ能力ではなく、
仲間とともに全く新しい可能性を探究する能力こそがアーレントの考える「自由」の内容である。彼女は人間の自由の中に、
奇跡を産み出すような特質を見、予測可能な出来事の連鎖を断ち切り、全く予測できない事柄をなそうとする能力の存在を強調する。
こうした集団的で、ダイナミックな活動のうちに見られるような「自由」のヴィジョンは、アメリカの開拓者精神を彷彿とさせる。
(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原敏子)