ヘーゲルが「絶対知」と呼ぶものは、現在のグローバル化の予示であり、「歴史の終わり」と共に現れます。精神は、
その発展段階のすべてを経ると、歴史的プロセスの終わりを記す、ある完成状態に到達します。
この完成を、ヘーゲルはどのように定義しているか。それは、本質的に政治的な意味を持っています。歴史は、
最高レベルの自由が実現した時に終わりを遂げます。
人間の内的自由あるいは思考の自由に関していえば、この最高レベルは、ヘーゲルにすれば、プロテスタンティズムによって導かれた
「自省の原則」に相当します。
言い換えれば、みずから自分を裁くことができ、自分の行為に関する責任をきちんと判断できる時、人間は完全に自由なのです。
外的自由、政治的自由、社会的自由に関して言えば、自由の最高レベルは近代民主主義の台頭に相当します。
自己の意識と社会生活において解放された人間は、それ以上望みえないほどの完全な自由を手にします。
歴史が終わったといっても、もちろん何も起こらないという意味ではなく、それから先の出来事においては自己批判と民主主義以上のもの、
それ以上に羨望されるようなものは何ももたらされないという意味です。
絶対知とは、概念の領域でこのような政治的完成に相当するもの、すなわち最高レベルの完成に達した哲学的思考です。すべての問いは、
はたして絶対知が歴史と思考の停止を意味するのかどうかを知ることにあります。
ヘーゲルに批判的な読み手の多くはそう肯定し、たとえばハイデガーは、弁証法的哲学は最終的に時間と歴史を追い出し、その代わり、
国家の絶対権力に表されるような人間の有限性を、神の永遠性と無限性に置き換えたと論証しました。
フランシス・フクヤマは、絶対知にグローバル資本主義の勝利を見て取り、つまりグローバル資本主義に代換するものなどいっさいなく、
地球上における唯一の生産手段として君臨すると述べています。
たしかに、民主主義が資本主義と一体化していることは、今日、地球規模ではっきりうかがえます。
しかし私の考えでは、絶対知の登場によって、解放のプロセスすべて、
つまり人間が完全な自由を獲得するプロセスすべてが停止することを意味しません。ですから、新たな営みとは、
既存システムの外部に存在するもの、すなわち既存システムの内部には存在しないものを見つけることではけっしてありません。
絶対知は閉じた世界の思考であり、超越性はなく、部分修正されることもありません。グローバル化が意味するところはさまさにそこにあります。
各地で戦争や紛争が起こっているにもかかわらず、同じモデルが至るところで君臨しています。
とはいえ、グローバル化は「ストレンジネス(奇妙さ)効果」(同一性に他者性が混ざり合うこと)を妨げるものではありません。
まさにこの点を、私は絶対知に内在している「未来の根源」と呼んでいます。
そしてこれは、ストレンジネス効果の創造、つまり他者性のない世界において他者性を創造することなのです。
この逆説をあくまで維持し実践することが重要です。要は、歴史の終わりが告げられた現在、どうすれば我々は自己変革できるのか、
その術を知ることなのです。
(哲学者 カトリーヌ・マラブー氏インタビュー ダイアモンド・ハーバード・ビジネスレビュー 2007年4月号)