ここまでは、私はウェリングの名前を用いず、他の名前に託して論じてきたが、ここから先は、彼の具体的な作品に依らなければ論じられない。
ビュスタモントが、極限まで表層を浮上させた構造としての写真性を、ウェリングはレフェランの中へ解消=解像させる。画面にレフェランが現れ、ちょうど質量が空間を歪めようと、画面を歪ませ、その歪みにおいて写真的不可視は表出される。そこで、ウェリングが重視するものが、固有名である。彼は写真の解像度(つまり、レフェランの中への構造の解消=解像)を上げることで、画面に歪みをもたらすが、この歪みをもたらすものこそ固有名詞である。ウェリングの作品に、(抽象写真をシリーズを除いて)全て、撮影した場所の名前が入っているのはその為なのだ。
例えばフォルクスワーゲン工場/Wolfsburgのシリーズを見よう。ナチスの、国民総モータライゼーション政策の拠点として、人工的に中央ドイツの荒野の真中に出現した街、ヴォルフスブルク、その旧市街は、工場労働者の為に計画的に建造されたものだが、大部分は爆撃を免れ、今でも残っている。ウェリングが被写体として選んだそれらの町並みのいくつかは、ナチスの過去を連想させる美学的特徴を帯びている。けれども、写真の時間性が、写真の中で過ぎ去った時間にあるのでなかったように、ウェリングは過ぎ去ったナチスに思いを馳せているのではない。
ドイツの人工的都市、鬱陶しいほど、偏執的に絡み合った、灰色の空を覆い尽くす冬木立の中産階級向けの凡庸な住宅棟の異様な輝き。撮影されているものは、ごくありふれた日常的断片であるが、それらの存在ははっきりと、あの時代の歴史性に「浸透させて」いるのである。歴史がまだ残っていて、人に過去の忌まわしい記憶をよみがえらせる、等というという陳腐な追憶としての過去は問題ではない。ウェリングの作品によって、その歴史性は、目の前の建物や工場から、切り離せないものとして、それらの被写体を単なる表象から、レフェランにし、「特に、どこといって変なところはないのだが、何かが変である」レフェランの力によって、ウェリングは構造を歴史性の中へ解消=解像するのだ。
また、アメリカの奇妙な郊外住宅を撮影したRailroad Townsのシリーズはどうか。
スタイルとして一見ビュスタモントに接近しているように見えるが、ここで、ウェリングが見据えている歴史性は、ヨーロッパからの差異として、言い換えれば、ヨーロッパの突然変異としてのアメリカの歴史性である。(恐らく、日本の建売住宅展示場なら、もっと凄まじくも滑稽な醜悪さが顕在化しているだろう。) この歴史性は、何等かのアメリカ通史に位置付けられるような歴史ではないのは、ヴォルクスブルグの場合と同じである。建築家リチャードソンの設計した建物を撮ったシリーズでは、その点がまだ曖昧であったものが、Railroad Townsのシリーズでは、明確にされ、その結果、顕在的な歴史的データに還元されてしまうような歴史性は注意深く取り除かれ、どこにでもある、日常的な光景の中に浸透した歴史性だけが抽出されている。もっと具体的に言えば、一面においてこの歴史性とは、様々な様態(アメリカの郊外住宅や建築家の設計や、果ては日本の展示場のように)において転調、変調を受けつつ現れる19世紀近代である。しかも、別の面では、それはまさにこの近代が被っている変調と転調そのものである。かつてのウェリングは前者に重点をおいていたが、最近では作品が純化した結果、後者へと向かっている。
しかし、何故19世紀なのか。
「ポストモダン」、例えば、自己言及性、メタフィクション、メディアのリアリティ、「大きな物語」の終焉とか、メディア空間での軽やかな差異の戯れ、シュミレーショニズムとか、カットアップないしリミックスによる無限の自己生産とか、それらしき定義を我々は既に幾つか聞いている。しかし、以上の規定のすべては、実は既にまずドイツロマン派にあてはまってしまう。言い換えれば、それらは19世紀的=モダンなのだ。作品が完結した作品としてではなく、言語の自己展開によって無限に反射を繰り返すプロセスとして構成されることは、シュレーゲルの美学の一つの理解だろうし、作品が自ら自分の虚構性、あるいは虚構としての完結性を裏切って暴き立ててしまうこととしてのメタフィクションはホフマンの写真では珍しくなく、人間とか天才とか言った「大きな物語」が卑近な茶呑み話へと転落し希薄に流通する様なロマン派ではないがグラッベの作品を見ればよく、メディア的現実性に取り巻かれている事への認識はその名も「モダンの批判(1846)」というキルケゴールの一文にあらわである。彼らが新しいのではない。我々が古いのだ。
ここから2つの重要な視点が提起されるだろう。
1つは、ポストモダンと専ら言われている概念は実はモダンであるということ。そして、その際モダンとして了解されていたこと(大きな物語、作品の統一性)はむしろクラシックだということ、従って、ポストモダンなるものはこれまで基本的に存在しなかった。
次に、しかし逆に言えば、モダンの概念が抽出され得るということは、すなわち我々の生きている生の諸条件がもはやモダンなものではなくなり、いわば認識論的な距離で獲得していることの結果であるということ。言い換えれば、我々はポストモダンな世界を既に生きているために、未だにポストモダンを認識できない、丁度自分の見ている眼を自分では見ることが出来ないように。
だから、ウェリングがモダンに視線を向けることが、彼のポストモダンと矛盾するものではないことは明らかである。彼にとって近代とは、写真性そのものである。彼が選択する被写体が、全ての写真の発生期と平行していることを思い出そう。Railroad Townsのシリーズにおいて、我々は、近代の視覚構造としての写真的不可視、それが様々な様態において変調され、その変調とともにレフェランの中に織り込まれていることを知るのである。
こうして、単なる美醜とは異質の、見苦しい奇妙さ、醜悪さとして現れる、写真表現に固有の歴史性、その最も意識的な表現を我々はジェームズ・ウェリングの最近の仕事において見るであろう。ウェリングに写真史に対するいわゆるポストモダン的な参照、皮肉を見るのは大きな誤りだと思う。重ねられた歴史性は美術史や写真史のそれではない。写真の時間性が経過する時間でもなく、瞬間でもなかったように、それは「外・時間」に属し、この時間性=歴史性が、写真の1つ1つのレフェランに内在している。そして、これらレフェランの特質とは、写真的に不可視だということだ。写真的不可視、それは全面的可視性の世界の真中に、灰色の光を侵出させる。
(「不可視性としての写真」 3.写真表現=記号の存在論 清水穣)