批評の不在、わかりすぎるのでわからない写真の過剰、それは、同じ様な問題を抱えつつアメリカの1960年代に生じ、
日本では1970年代に反復されたことである。マイ・フォトグラフィティ、マイ・ライフ、すなわち「私」の写真、「生きている」私の
「リアリティ」の問題。端的に言って「女の子写真」とは、1990年代の「コンポラ」写真なのだ。つまり、
90年代後半以降の写真をめぐる状況は、70年代に日本に生じた反復の、子供世代の反復である。批評不在のスナップ写真の隆盛に、
「リアリティ」と「私」の問題が絡む構図。実際、すでに70年代初頭にも癒し系で日常派の「私」写真は数多く存在したし、
引きこもりならぬ「内向の世代」が論じられた時代でもあった。しかし四半世紀を経て、当然ながら新しい外的状況が加わっている。
1966年ニューヨークで開催された<コンテンポラリー・フォトグラフィー-ある社会的風景に向かって>展は日本に紹介されて、
いわゆる「コンポラ」写真の語源となった展覧会である。そこで展示された作家達によって「スナップ写真の美学」が表面化し、同時に
「違いがわからない」という冒頭の疑問が初めて意識されたのであった。例えば1969年から撮り始められ77年に出版されたギャリー・
ウィノグランドの傑作「Public Relations」について、当時すでに「写真エージェンシーのボツ箱の中には、
これよりもっと優れた写真がいくつもあった」、「非常に複雑な主題に対して、最も陳腐で浅薄な自明性だけを表現する生煮えのシリーズ」、
「基本的にどの写真も同じに見える」といった批判が出た。現在の我々にもおなじみの批判である。
周知のように彼の世代はロバート・フランク「アメリカ人」の大きな影響下に出発した。作家個人の「私」の生、「社会」から落ちこぼれた
「個」の実在によって支えられるオルターナティヴなリアリティを教えられた一群の若い写真家達が、
美しいプリントに代表される芸術写真のプロフェショナリズムと、
大上段に¥の政治に基づいたフォトジャーナリズムの両方に背を向けたその1960年代の状況を「世界は写真だ」と言い表せるだろう。
完全に写真的な現実のなかで、写真のリアリティはなんでありうるか?
フランクの世代と異なり、「コンテンポラリー・フォトグラフィー」たちは、「私」にリアリティを求めることも出来ず、
テレビによって完全に斜陽化していた「写真」にもリアリティを求められなかった。
ウィノグランドにとって1962年のキューバ危機は転機となった。「その時点で、俺には自分がnothingであることがわかった。
それは解放だった。俺はnothingだったんだ」。かつて柄峪行人は同時代の批評の中で「内向の世代」にふれ、
豊かな内面をもたないからこそ内向するのであり、内向の果てに自己は内破され、そこに社会との接点、
すなわち構造的なものが見いだされると論じ、由井由吉の初期作品において、
小説における言語使用にそれが一つの切断をもたらしたことを指摘した。コンテンポラリー・フォトグラフィーとは、
写真におけるその様な切断である。自己の空虚を突き抜けたウィノグランドが写真を通じて見いだすものも構造的なものであって、
それは超越的に存在するような社会構造ではなく、人間と人間の偶然の付置によって生起するような構造である。「写真はいつも戸外にある。
それは自分の外へ出る方法だ」
(「白と黒で」 批評の不在、写真の過剰 清水穣)