「無意識に浸透された/無意識が織り込まれた空間(ein unbewuβt durchwirkter Raun)」-たとえば、
最も初期のテクノロジーであるピンホールカメラを考えてみる。ピンホールカメラで撮影された被写体は一様に奇妙な密度を帯びている。
19世紀の人々を魅了し、あるいは嫌悪させたこの不思議な密度はどこからやって来るのだろうか。
それは、カメラの技術的な原理とは逆に、写真映像というものが基本的に眼を閉ざした知覚の産物ということである。
対象があって見るのではなく、そこでは視覚は対象物に先行し、自律的なのだ。あの奇妙な密度は、
自律的な視覚から産み出される夢の中の光景に固有の輝きであり、J・クレイリーの言うようなカメラ・
オブスキュラからの切断をそこで確認することが出来る。
Ⅰ章で論じたように、カメラ・アイが写している(視覚)構造は、視覚領野に属さないで、その領野を構造付けている、膜のような存在である。
視覚構造、という言葉を意識の構造で置き換えればわかるように、当然、写真には無意識という意識構造が写し出されることとなる。
問題は視覚領野にそれ自体として無意識の部分がありうるか、ということではなく、構造=無意識という概念の理解、つまり潜在性なのである。
言い換えれば次のように問うことは誤りである:自律的な視覚領野の内、どの部分が意識されており、どの部分に無意識が在るのか、と。
ア・プリオリな他者として、視覚を構造付けているカメラ・アイは、視覚しうるもの全ての外部にあり、
無意識とは上記のように意識しうるもの全ての外部にある。視覚的無意識とは、この、すべての可能性の外部にある潜在性を意味する。おそらく、
ベンヤミンが、そこで、高速度写真を例としてあげたのは今から見れば、当然のように犯されてしまった間違いであった。
なぜなら、当時初めて、人間はコンマ0何秒という世界を発見したからである。ベンヤミンにとって、それは事実上、
見えるもの全ての外にあったのだ。けれども、もしそれが視覚的無意識であるならば、現在の我々は視覚的無意識を持たないと言わねばなるまい。
一粒の水滴がどのように水面に砕けるか、高速で動く車がどのようにクラッシュするのか、人間の筋肉が走るときどのように躍動するか・・・・・
・人間の眼が捉え得ず、カメラだけがもたらしうる映像など、現在の我々にとっては視覚しうるものの極めて日常的な一部である。
かつて意識されず、見えていなかったものが、冷徹なカメラ・アイによって今、写真として現前している、意識の連続性、我々の鏡は砕け散り、
アウラも消滅した-このわかりやすさとは逆に、ベンヤミンのテキストが何か不透明に感じられるのは、カメラによって剥き出しにされる「現実」
とベンヤミンが呼ぶものが、現在の我々には単なる日常(そこにはアウラも別に欠けてはいないだろう)だからである。
ベンヤミンにとって写真は、精神分析にとっての錯誤行為のように、ルドルフ・カスナーにとっての「顔」のように、「徴候」である。
山なみや、影を落とす枝の写真も、当然徴候である(だから、視覚的無意識に侵されている)。徴候は、表象ではない。視覚的無意識は、
写真という徴候の中に織り込まれている/浸透しているので、山なみを眺め、枝の葉ずれを眺める中間的な距離はそこでは不可能である。
後に詳しく見るように、徴候の中に織り込まれている象徴的なものは、徴候に内在するのであり、徴候の外に、徴候から離れた「意味されるもの」
としては、実在しない。
この意味でのみ、アウラの消失とは、「遠さの1回限りの比類なき顕れ」の喪失、距離の喪失なのである。
写真とは、視覚的無意識が写し出されている。それは、写真の潜在的な質として、決して意識され得ず、見られ得ないものとして、
写されているのである。
これが、私が写真的不可視(the photographic invisible)よ呼びたいものである。
(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅱ.視覚的無意識 清水穣)