ところで、ヴィトゲンシュタインが(白黒)写真について考察するとき、彼の関心もまた色彩にある。
ヴィトゲンシュタインはまず、それ自体として存在する色というものはない、と言う。
ある絵画の中の青はカラーチャートの青とは別の色である。もっとも、このように色を色調として捉える、つまり、
ある色は常に他の色との関係において見られ、理解される、という考え方はそれ自体目新しいものではないし、色彩学の常識であろう。しかし、
彼はそこに透明性という概念を絡ませる。それは、透明色のことではなく、不透明色が産み出す効果としてのそれである。例えば、
油絵にかかれた透明なグラスの表現がそうである。色彩が、基本色に基づいた互いに示差的なシステムをなすならば、透明性というのも、自ずと、
その中の1つの関係性に他なるまい。例えばジョゼフ・アルバースなら、透明性とは、
2つの色の間にその2色の丁度中間の色を置いたときの生じる相互効果だと言うだろう。しかし、白~灰色~黒という階調には透明性は生じない。
何故か?
また、彼は色盲の人の色覚を問題にする。赤緑色盲の人に不可能なことは、赤と緑を区別することであって、
赤ないし緑を見ることではない。もし、色彩が示差的なシステムをなすとするならば、例え赤が知覚出来ないひとでも、
その他のすべての色ではない色として、赤が見えるはずである。いわば、生きられた色彩システムとして、色盲の人が赤を見ているとすれば、
何故、緑との区別がつかないのか?それは、システムの中で緑が占める関係性と、赤のそれが同じだからであろう。しかし、それなら、
何故正常な色覚の持ち主は、赤と緑を区別出来るのか?
これらがヴィトゲンシュタインの執拗な問である。彼は、色彩学の常識から、モンドリアンやカンディンスキーの「コンポジション」
へ進む代りに、驚くべき結論にいたる:グレースケールはすべての色の中間領域に分布する色であり、つまり、
アルバースによれば透明性の効果を可能にする色である。光が眼に見えない代りに、眼に色彩を見せるように、
灰色の階調は透明性を視覚にもたらすのだ。同様に、我々が赤と緑を区別し、赤色、緑色を別の色として見ることが出来るのは、
それ自体として不可視な中間色、すなわち赤緑・緑赤-無論、こんな色彩は現実にはない-のおかげである。色盲の人にかけているのはまさに、
この中間色なのである。たしかに「色についての考察」という断片的な書物から、
統一的なヴィトゲンシュタインの主張というものを導くのは困難である。しかし、私は、結局彼が言いたかったことは、
色彩というものの視覚自体に対する外部性ではないか、つまり色とは眼に見えないものなのだ、ということではないかと思っている。
不可視性としての色彩、中間に生じるものとしての色彩、という考え方は、音楽を例にとれば最もはっきりするだろう。
音楽を聴くと言うとき、我々は音と音の関係を聴取しているのであって、音を聴いているわけではない。従って、それ自体としてある音の色、
つまり音色という考え方は最初から妥当性を持っていない。
様々な音色の多くの楽器を使ったからといって、ある楽曲が「色彩豊か」になるわけではない。そうではなくて、
音の関連性=調性ももつ色彩というものがある。同じメロディでも、
ハ長調で奏でられるときと嬰ハ長調で演奏されるのでは色彩感が異なっている。しかしここから、例えばハ長調は赤、嬰ハ長調はオレンジ色・・・
と対応させるのは滑稽である、何故なら、それでは音色と同じことになってしまうだろう。実際、調性の色彩感を我々が感じるのは、
転調の瞬間だけである。クロマティック=半音階、あるいはメシアンやリゲティの曲から発生して来る疑似調性の色彩感は、頻繁な転調、
ないし疑似転調による万華鏡のような効果に他ならない。異なる二つの調性、二つの異なる関係性の間で生じるものとして、この色彩感は、
聴覚の外にあると言わねばならない。何故なら、我々の耳が聴取するものは、それぞれの関係システムのみだからである。
色彩とは不可視である。ヴィトゲンシュタインにとって、写真の色彩とは不透明なグレイスケールに転写されたメタリックな光沢と、
ブロンドの髪のことであった。絵画における不可視性が「色=色彩」ならば、写真における不可視性は「光=灰色」である。そして色彩の本質、
それは色調ではなく転調なのである。
(「不可視性としての写真」 2.表層-色彩に関するノート 清水穣)