クロマトグラフィーというものがあるが、それで例えてみよう。紙に付けられた黒いインクの1滴が、レフェランである。
溶媒によってこの黒い滴から、様々な色彩が展開する。この展開された色彩が、写真性である。そして、これらの色彩を展開した黒色が、
写真である。最初の1滴=レフェランと最後の黒色=写真は同じものではないか、という疑問がわくだろう。勿論同じである、
内在しているのだから。しかし、表現としてのインク1滴と、様々な色彩を展開する=表現するものとしての黒色は別のものである。
写真の位置は、見えることと見えないことの境界であった。それは視覚領野を外側から構造付けている、ア・
プリオリな他者とも言い換えられた。この構造としての写真の特質は、可能性と対立するものとしての潜在性であった。問題は、
この構造としての写真のあり方である。それはレフェランの中の内在であり、それと独立には構造は存在し得ないものである。
さらに内在は配分的である。つまり、視覚構造としてのカメラ・アイは1つ1つのレフェランに配分されてしまうのである。
ここで注意しなければならないことは、1つ1つのレフェランが、モナドのように同じ一つの構造を表現している、
と言っているのではない(それでは、構造はレフェランから独立した別の全体性を持つことになるだろう)。むしろ、配分の結果、カメラ・
アイはそれぞれのレフェランの中へ解消してしまう、と言って良い。写真の解像度はここにある。
「構造」を「生命」と置き換え見ると、はっきりするかもしれない。「生命」は明示的には規定できないが、生物の中に「内在」する。
ここで、生物に対する見方をどんどんミクロのレベルへ下げ(解像度を上げる)、分子、原子レベルまで下げていく。すると、「生命」
は最早消滅してしまったことに気がつくだろう。我々が見るものは生も死もない粒子の結合と分離だけである。写真作品で起こっていることは、
従って、視覚構造のこの解消=解像(resolution)であり、同時にベンヤミンにとってもそうであったように、写真の奇跡は、
見えないものが写るということである。見えていなかったものが写っているといっているのではない、写っているのだが見えないのである。勿論、
我々は雲というレフェランを見ることが出来る。
だから、「雲の写真だ」などと言うし、「強大な風」、本質としてのレフェランは視覚の外にある。写真の本質にあるものは、
この写真的不可視なのだ。
(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅳ.写真のレフェラン 清水穣)