2007/03/21

仕事と労働の同一視

労働が最も蔑まれた最低の地位から、人間のすべての活動力の中で最も評価されるものとして最高の地位に突然見事に上昇したのは、
ロックが、労働はすべての財産の源泉であるということを発見したときに端を発している。その後、アダム・
スミスは労働はすべての富の源泉であると主張したときにも、労働評価の上昇は続き、マルクスの「労働のシステム」において頂点に達した。
ここでは、労働はすべての生産性の源泉となり、人間のほかならぬ人間性そのものの表現となったのである。しかし、この三人のうち、
労働それ自体に関心をもったのはマルクスだけであった。ロックが関心をもっていたのは、社会の根本としての私有財産制であったし、
スミスが望んでいたことは、富を無制限に蓄積するための拘束のない進歩を説明し、それを確実なものにすることであったからである。しかし、
この三人はいずれも-その中ではマルクスが最大の力と一貫性をもっていたが-労働は人間の最高の世界建設能力と考えられると主張した。
しかし実際には、労働は、人間の活動力のうちで最も自然的で、最も非世界的な活動力であるから、彼らはそれぞれ-ここでもまた、
マルクスが最も目立っていたが-ある一定のまぎれもない矛盾にとらえられた。これらの矛盾の最も明白な解決方法、あるいはむしろ、
この偉大な著作家たちがその矛盾に気づかないでいた最も明白な理由は、彼らが仕事と労働を同一視したために、
本来仕事だけがもっているいくつかの能力が労働に与えられたという点にある。それは、この問題の本性そのものから生じているように思われる。
このような同一視は、明白な不条理を導き出さずにはおかない。もっともその不条理は、普通、
ヴェブレンの次の文章以上に鮮やかに明示されることはないのだが。すなわち、「生産的労働の永続的証拠はその物質的生産物-普通、
ある消費用品-である」というのがそれである。この場合、彼が、いわゆる労働の生産性を証明するために文の前半においた「永続的証拠」は、
彼が現象そのものの事実的な証拠にいわば強制されて文の後半においた生産物の「消費」という言葉によって即座に打ち消されているのである。


たとえばロックは、労働をただ「短命な物」ばかり生産するという隠れもない恥辱から救うために、
「人が損傷することなく持ちうる永続的な物」、すなわち貨幣を導入しなければならなかった。しかし、これは一種の急場を救う神であって、
この神がなければ、生命過程に服従する労働する肉体が、財産のように永続的で長続きのする物の源泉となることはできなかったであろう。
なぜなら労働過程の活動力よりも長く生き残り保持される「耐久物」はないからである。
そして実際には人間を<労働する動物>と定義づけたマルクスでさえ、適切にいえば労働の生産性は、物化、すなわち「物の客観的世界の創造」
によってのみ始まると認めざるをえなかった。しかし労働の努力をもってしても、労働する動物は、
それを何度も反復しないわけにはいかないから、その努力は、依然として「自然によって押しつけられた永遠の必要」である。ところが一方で、
マルクスは労働の「過程はその生産物において終わりに達する」と強調している。しかし、この場合、彼は、この過程にかんする彼自身の定義、
すなわち、この過程は、生産物が即座に肉体の生命過程によって「合体され」、消費され、滅ぼされる「人間と自然の間の新陳代謝」
であるという定義を忘れているのである。


(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P157-159)