しかし良心が自動的に機能しない人々は、もっと別な基準にしたがっていたようです。こうした人々は、特定の行為を実行したあとでも、
自分と仲違いせずに生きてゆける限度はどこにあるかと問うのです。そしてこれらの人々は、
公的な生活とはまったく関与しないことを決めたのですが、それはこのことで世界がより善くなるからからというのではなく、そうしなければ、
自分と仲違いせずに生きていくことができないことを見極めたからです。ですから公的な生活に参加することを強制された場合には、
これらの人々は死を選びました。残酷な言い方ですが、こうした人々が殺人に手を染めることを拒んだのは、「汝殺すなかれ」
という古い掟をしっかりと守ったからではなく、殺人者である自分とともに生きていることができないと考えたからなのです。
道徳的な判断の際に、あらかじめこのような基準を定めておくというのは、思考の緻密さを示すものでも、
高度の知性を示すものでもありません。むしろこれは、自己とともに生きていきたいという望みであり、自己と交わりたい、
すなわちわたしと自己の間で無言の対話をつづけたいという好みを示すものです。これはソクラテスとプラトン以来、
わたしたちが思考と呼んでいる行為です。こうした思考は、すべての哲学的な思考の〈根〉のところにあるものです。
この思考は技術的なものではなく、理論的な問題にかかわるものでもありません。思考することを望み、自分で判断しなければならない人々と、
そうでない人々を隔てる〈溝〉は、社会、文化、教育などのどのような違いによっても定められません。
ヒトラー体制において「尊敬すべき」社会の人々が道徳的には完全に破壊したという事実が教えてくれたのは、こうした状況においては、
価値を大切にして、道徳的な規格や基準を固持する人々は信頼できないということでした。わたしたちはいまでは、
道徳的な規格や基準は一夜にして変わること、そして一夜にして変動が生じた後は、
何かを固持するという習慣だけが残されるのだということを学んでいます。
このような習慣にしたがう人々よりも信頼できるのは、疑問を抱く人々、懐疑的な人々です。懐疑主義が善いものだとか、
疑うことは健全なことだとか言いたいわけではありません。懐疑や疑念は、物事を吟味して、自分で決心するために使えるのです。最善なのは、
ただ一つのことだけが確実だと知っている人々です。すなわちどんなことが起ころうとも、わたしたちは生きるかぎり、
自分のうちの自己とともに生きなければならないことを知っている人々なのです。
それでは、自分の周囲で起きていることに手を貸すことを拒んだこうした人々を無責任だと咎める非難については、
どう考えればよいでしょうか。わたしは、世界に対する責任というもの、この何よりも政治的な責任というものを、
もはや負うことができなくなる極端な状況というものが、おこりうるということを認める必要があると思います。政治的な責任というものは、
つねにある最低限の政治的な権力を前提とするものだからです。そして自分が無能力であること、あらゆる力を奪われていることは、
公的な事柄に関与しないことの言い訳としては妥当なものだと思うのです。
このような力のなさを認識するためには、ある道徳的な特質が必要となります。幻想のうちに生きるのではなく、
現実と直面するための善き意志と善き信念を必要とするのです。それだけはこの言い訳の妥当性は強められると思います。
どんな絶望な状況においても、強さと力をわずかながらも残すことができるのは、まさに自分の無能力をみずから認めることによってなのです。
(「独裁体制のもとでの個人の責任」 ハンナ・アーレント 中山元訳 筑摩書房 「責任と判断」より)