2007/03/13

不可視性としての写真 写真の時間性

Ⅲ.写真の時間性


Ⅰ.でみたように、写真の表層的な性質は、常に何かの写真である、ということであって、写真という空虚な場に、何かが写される
(あるいは写されない)わけではない。言い換えれば写真はこの、空虚な場所という概念を、無と真空を拒む。


ところで、空間とは対象と別の対象の間の置換可能性によって産み出される空虚な場所のことであるから、写真には空間性はない。
写真には、置換可能性な時間性だけが存在するのだ。この時間性とはどのようなものだろうか。


まず写真の時間性は、決定的瞬間のことではない。Ⅰ.で論じたように写真は、事物の世界の流れから、決定的な瞬間を切り取ったりする、
そういう前提を現象学的に還元するところに成立したものなのだから、何も「瞬間を止めて」いるわけではない。


フッサールが「自然な考え方のテーゼ」とよび、多くの写真論がおかしている誤りは、
同時にまた伝統的な認識論が犯してきた過ちでもある。上述の「他者」の効果について、ドゥルーズは以下のように論じている。


「ここから、他者は、私の意識を、必然的に半過去へ、もはや客体とは一致しない一つの過去へと傾斜させる。他者が現れないうちは、
例えば一つの安心出来る世界が在って、そこから私の意識は区別されていなかった。他者は恐ろしい世界の可能性を表現しながら現れるが、
その世界は、それに先行する世界(安心できる世界=私 M.S)を過ぎ去られることなしには、展開しない。私とは、
過ぎ去った私の客体に他ならず、私の自我とは過ぎ去った世界、まさしく他者が過ぎ去らせた世界でのみできているのだ。他者が可能な世界なら、
私は過ぎ去った世界である。そして認識論の全ての誤りは、一方が他方の消滅によってのみ構成されるのに、
主体と客体の同時性を要請することである・・・・・・こうして他者は意識とその客体の分離を、時間的な分離として保証している。


他者の現前の第1の効果は空間としての知覚の諸カテゴリーの配分に関わっていた。しかし他者の現前の第2の効果、恐らくはより深い効果は、
時間と、その諸次元、つまり時間の中で先行するものと後に続くものの配分にかかわっている。」


少し長くなったが、要はこういうことである。現象学的還元によって、見る私と見られる世界は一つになった。写真は見ている眼として、
この世界=私を、視覚領野を構造付けているア・プリオリな他者であった。しかし、その時、私と世界はどのように発生して来るのだろうか?
他者は時間軸に沿って、過去と未来へ同時に私と世界を分割生成するのである。写真は、時間軸に沿って、見る私を過去へ、
見られる私を未来へ絶えず分割し続ける。バルトのca-a-ete(「それはかつてあった」)とは、このことに他ならない。
つまり実はca-a-eteであるのは写真を見る私である。他者が過去にしていった世界で出来ている私なのである。


ところで、構造としてのア・プリオリな他者は、私=世界にとっての絶対的外部であるから、ア・プリオリな他者が、
絶えず私と世界を分裂生成する現在という時間は意識には決して現前しない。そして、
写真の時間性はバルトの言うようなca-a-eteではなく、この決して現前しない現在である。それは、
現在時制おける記号の存在とでも言えるものである。そのような、時間の流れの外にある時間性をクセナキスの用語を借りて「外・時間
(hors-temps)」と呼んでおこう。

ここでも潜在的なものと可能的なものの区別は有効である。ベルクソンにとって即時的な過去とは、
かつて現在であったが時が過ぎて過去になったような時間性ではなく(それは可能的な過去である)、時の流れと無関係に実在する、
潜在的な時間性であった。この即自的な過去とは、従って、すべての時制に「浸透し」「織り込まれ」ているのである。写真の時間性は、
まさにこの即時的な過去であり、決して現前することのない現在である。


けれども、この「外・時間(hors-temps)」に我々が常に遅れて到達することは本当である。あるいはca-a-eteとは、
この時間的遅延に、そして記号と遭遇したときの引き裂かれるような感覚に、バルトが与えた名前なのかもしれない。


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅲ.写真の時間性 清水穣)