イラク戦争の折りに、ネット上で反戦の声を上げた若者たちを扱った番組を観た。うーん、そういうことではないんだなあ。
痒くなるような感じがした。気持ちはわからなくはないのだが、ものの考え方が、最初から的をはずしているのである。同じ時代に、
同じ地球上で、戦争が起こっているというのに、何もできない自分に無力感を覚える。と、彼らは言っていた。
ナニ、心配しなくてもいいって、まもなく他人事ではなくなるって、いずれミサイルが飛んでくるって。
意地悪でもなく、私はそう思った。つまり彼らは、無力感を覚えるというまさにそのことによって、戦争を他人事だと思っているのである。
自分のことではないと思っているのである。しかし、戦争が起こっているこの地球のこの時代を生きているのは、まさしくこの自分である。
なんで他人事みたいに無力感など覚えていられるものだろうか。
戦争を子供に教えるために、といった意見も聞かれたが、これも変である。戦争を生きている人は、戦争は生きるしかない。
そんなもの教えて教えられると思っているのは、戦争を他人事だと思っている人だけである。最後には、
反戦の声など無力だという自嘲ともなっていたが、これは仕方ない。声すなわち言葉というのは、こういった考えを伴って、
初めて力となるものだからである。
そんなふうに考えると、人というのは案外に呑気なもんである。何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。
自分の人生を他人事みたいに生きているから、そういうことになるのである。
で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。
それがどうした。
やっぱり私はそう思ってしまう。ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。
生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。
自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。
地球人類が滅びたとしても、そんなの誰のせいでもない。この一蓮托生感というのは、なかなかイイものである。
自分は別だと思うのをやめるだけのことである。
(「週間新潮連載 「死に方上手」 平成15年7月3日号 池田晶子)