2007/02/19
硫黄島の星条旗
1945年以降、かれはしばしば控え目にせざるを得なくなる。名前はジェームズ・V・フォレストール・ローゼンソール。ユダヤ系ロシア移民の子である。その彼が1945年2月23日、アメリカ国民にとってまさに伝説的なこの戦争写真を撮影した。
(中略)
海兵隊は上陸後四日間で、摺鉢山守備隊の日本軍をけちらし、山頂を占領した。ハロルド・G・シャイアー少尉率いる兵士40人は、山頂に大隊旗を立てた。硫黄島の真のヒーローたちが、星条旗に鉄の棒にくくりつけて地面に押し込んだのだ。その光景を撮影していたのは、海軍雑誌「海兵隊」のカメラマン、ルイス・ロウリーだった。これが本来の国旗掲揚だったのだ。だがロウリーにとって不運だったのは、旗が小さすぎたこと。
(中略)
これが、歴史的な「国旗ドラマ」の第一幕になる。時は現地時間で十時二十分。ローゼンソールが山頂に這い上がったとき、そこには海兵隊員がうようよしていた。
(中略)
その後の次第は、目撃者のリチャード・ウィーラーに語ってもらおう。
「最初に旗が立ってから三時間くらいして、ジョンソン大佐が旗の交換を決定したんです。大隊旗は、遠くからだと双眼鏡がなければ見えなかったんです。縦60センチ、横135センチしかありませんでしたからね。勝利の旗がどう見えるか、その見栄えは兵士の士気に重大な影響を及ぼします。ジョンソンは、もっと大きな旗が必要だって思ったんです」
当のジョンソン大佐は、自分のこのときの決心があとあと、どのような熱狂的愛国心を巻き起こすことになるか、つゆ知らなかった。ともあれ彼は、戦車揚陸艇LST779にあったかなり大きめの旗を調達し、山頂まで運ばせた。
ちょうどそのとき、ローゼンソールが息を切らしながら山頂に到着したのである。彼は、海兵隊員がその旗(縦142センチ、横244センチ)を拡げているところを注目する。
(中略)
そして海兵隊員5人と船員1人が、旗を立てはじめる。旗ざおを何とか持ち上げ- この棒は前のと同一 -、石の山に突き刺す。
「私はカメラを持ち上げて撮ったんだ」
こうしてあの写真ができあがった。星条旗は確かにアメリカ製だったが、皮肉にも旗ざお(折れた鉄の棒)は日本製だった。摺鉢山にあった日本帝国の、破壊されたレーダー局から持ってきたのだ。
(中略)
彼が「ポーズをとらせたんですか?」と聞かれたのは、これが最後ではなかった。もちろん私もその質問をした。彼の答えは、何十年もの「トレーニング」を経て磨きがかけられていた。
「あのな、ああいう写真はヤラセじゃできっこないんだ。やろうとしても、うまくいかなかっただろう。あのときは条件が整っていたんだ。風はいい方向に吹いていたし、男たちの動きも決まっていた。それにタイミングもピタリ。もう一度言うが、まったくの偶然の仕業だ」
加えて「天の配剤」もあった。神はローゼンソールの写真にご加護を与えたのである。実は、硫黄島の写真十二枚のうち、二枚は露出が過多だった。あの旗の写真だって、そうなる可能性はあったのだが、
「運よく、そうならなかった」
(中略)
話を1945年に戻す。第二次大戦のアメリカ全面勝利は、もう目前に迫っていた。だが最後の戦闘が残っていた。そこで七回目の、最後の戦時国債が発行されることになった。これをさばくためには、印象の強い写真を使う必要がある。これにかなう一枚がなかった。
アメリカは国家を挙げて、写真のヒーローを探した。被写体は一体誰か?
ローゼンソールはすでに摺鉢山の山頂で、六人の名前を聞き出そうとしていた。だがごった返していたため不可能だった。そこで海兵隊の調査班がまず写真の腕と手を数え、やっとのことでその六名を突き止めた。
名前を挙げよう。六人のうち三人は、調査時点ですでに戦死していた。フランクリン・ススリー(ケンタッキー州ユーイング)、マイケル・ストランク(ペンシルベニア州コーンモー)、そしてハーラン・H・ブロック(テキサス州ウェスラコー)である。
生き残ったのは、ジョン・ブラッドリー(ウィスコンシン州アップルトン)、レネイ・ガニョン(ニューハンプシャー州ハウクセット)、そしてアイラ・ヘイズ(アリゾナ州バプチュール)である。
(中略)
この三人はいまやVIPになった。大将扱いで歓喜の故国に戻った。ワシントンでは、感激している議員と将軍たち、そして市長やそのほかの愛国的なファンから、議会とホワイトハウスのあいだで祝福を受けた。勝利に陶酔していた国民は、なかの一人にとりわけ注目していた。それはインディアンのヘイズである。
彼は、インディアンが最終的に白人と和解したことの、生きた証人ではなかったろうか? 彼は善良な「母国アメリカ」の人種統合政策の、生きたシンボルだったのではなかろうか?
(中略)
ヘイズはピマ族だった。アリゾナ州の種族で、十九世紀にはまだ平和的なことで有名だった。農業をやって、綿花を栽培していた。
「白人開拓者の群れを襲って女性を強姦し、男たちの頭皮をはぎ取る」なんて、考えたこともなかった。それをやったのは、好戦的なスー族とアパッチ族である。ピマ族はこの二部族とかかわりをもたないようにしていた。
だがそこへ白人がやってきて、ピマ族に殺人を教え込んだ。第一次大戦と第二次大戦で、ピマ族は米軍兵として戦う。ヘイズは1942年に十九歳で入隊した。海軍初のインディアン兵である。当初から部隊のなかで最高の射手だった。
エリート部隊の好戦的なところを身につけ、模範的な兵士となった。
(中略)
だが、運命の1945年2月23日が訪れ、その後は国家が感謝をこめて彼を英雄扱いした。だが本当は英雄ではなかった。
摺鉢山征服に参加していなかったからである。ローゼンソールが写真を撮ろうとしたあの瞬間、たまたま近くにいただけなのだ。だがこのことが、その後の彼の人生を暗転させる。
しかし戦争直後のアメリカには、そんな裏話を聞こうとする人なんて一人もいなかった。
「彼はヒーロー。それでいいじゃない」
高級ホテルに泊まり、トルーマン大統領と握手し、ハリウッドのスターたちにキスをし、パーティで次々に人に紹介された。酒を飲む回数が必然的に増え、ヒーローを大事にする国家のために乾杯し続けた。戦時国債でヘイズを広告に使った委員会はどこも、彼にウィスキーを三本贈った。
そうこうするうちに、あの国旗掲揚をめぐるプロパガンダはいっそう激しさを増した。世間は、弾丸で破れたあの旗が集中攻撃のなかで立てられたのかどうかを知りたがったし、ジョン・ウェイン主演の映画「硫黄島の砂」にはヘイズ自身が出演した。この映画はもちろん、戦争の実際を描いたものではない。アメリカ人好みの筋書きになっていた。
こうして真実は脱落していった。ヘイズはそれを感じていたので、当初は小声で抗議していた。宣伝ツアーでローゼンソールと会ったとき、彼はしみじみ嘆いた。
「みんな、私に酒を勧めて、こう言うんです。「ヒーローよ、おめでとう」私はうんざりです。そのたびに、本当のヒーローたちが死んだことを、考えさせられるからです。私はヒーローなんかじゃありません。あなたがあの写真さえ撮らないでくれたら」
戦争は終結した。彼の「ニセの凱旋」が日に日に輝きを失っていくころには、ヘイズはアル中になっていた。酔っぱらっている間は少なくとも、「アメリカで誰からも愛されている初のインディアン」という役柄を忘れることができたからである。酩酊から覚めると、彼は二重に恥じた。
(中略)
1946年、彼はアリゾナ州に戻る。インディアンが優しく迎えてくれ、彼のために、軽食堂付きのガソリン・スタンドを建ててくれた-観光客相手の商売である。
実際、観光客はやってきた。スタンドの入口前には、ヘイズが旗を立てようとしているところを模した記念碑が建った。夜になると、その記念碑にライトが当てられた。何マイルも離れたところにもう「ヒーロー近し」の看板が立っていて、彼はここでも、まるで遊園地並みに商品化されていた。
(中略)
すぐに彼は泥酔者として警察に保護される回数が激増した、急速に落ちぶれていったのである。
彼を救おうという動きは二つあった。まずインディアンのソーシャル・ワーカーが何人か、フェニックス(アリゾナ州)からやってきた。彼らはヘイズをシカゴに送り、ある会社で職業訓練をさせようとした。
(中略)
だがシカゴでも、有名人であることが災いして落ち着けなかった。カメラマンにいつも追いかけられた。旋盤の仕事を覚えようとしたのだが、会社から出るとすぐに、ファンたちが酒をおごろうともちかけた。全国どこへ行っても、陰謀が張りめぐらされているみたいな状態。結局彼は仕事に就けず、バーと警察の泥酔者保護室を往復することになる。
社会復帰の二度目のチャンスは、サン・タイムズ紙(シカゴ発行の朝刊紙)のキャンペーンだった。これは1953年に、この国家的英雄を救おうとして始まり、同紙は何週間も、「アイラ・ヘイズを誰か救ってくれませんか?」と広告を出し続けた。
結局、ロサンゼルスのマーティン夫妻(俳優のディーンと歌手のベティ)が、ヘイズを運転手として雇うことになった。だがビバリーヒルズの大通りでも、カメラマンが何人か、しつこく彼を追いかけた。そしてある日、硫黄島の突撃に参加していた海兵隊員からぶちのめされ、「この嘘つき野郎め!」と罵倒されたのである。
ヘイズに真の復帰チャンスはなかった。マーティン夫妻も、彼が死ぬほど飲むのを止められなかった。1954年11月、彼はロサンゼルスを去ってアリゾナ州に戻ったが、1955年1月23日の夜、アル中で死亡した。発見時には、軍隊のヘルメットに海兵隊の長靴といういでたちだった。
(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)
参考として以下の書籍を挙げる。
・硫黄島の星条旗 (文春文庫)
ジェイムズ ブラッドリー (著), ロン パワーズ (著), James Bradley (原著), Ron Powers
(原著), 島田 三蔵 (翻訳)
映画「父親たちの星条旗」の元となった書籍で、ヘイズと同様にヒーローの一人になった、ジョン・ブラッドリーの息子が著者になっている。
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