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2007/06/14

自由市場をすべての問題の万能薬とする空虚なイデオロギー

市場の社会的深化は矛盾に満ちた結果を生じさせた。「自由競争」のイデオロギーが支配的になり、
企業は自由市場の名のもとで社会の再生産や管理といったものにより深く浸透する。その一方で、市場の社会的深化によって、
国家と企業の複合的な連携と結合が強まり、生や知にかかわる私的所有の領域は拡大し、それは排他的独占的な障壁で守られることになった。
こうしてみると、「民営化」や企業市場の権力の増大は、「選択の自由」の幅を広げるどころか、逆に狭めるものと考えられるだろう。
とするなら、経済理論と新自由主義による日々の実践は、ますます乖離してしまう。おかしなことに、理論と実践との間に、
生きた経験から生み出された乖離の存在がありながら、新自由主義理論の信奉者たちは自分たちへの批判を「ユートピアを語っている」
と切り捨て、新自由主義が世界で唯一の「現実」であると主張する。自由市場をすべての問題の万能薬とする空虚なイデオロギーは、政治的、
社会的、文化的自由にかかわる豊穣かつ複合的な事象を、単に「企業の成長の自由」という概念へと矮小化した。


(『自由を耐え忍ぶ』 テッサ・モーリス-スズキ 辛島理人訳 岩波書店 P173)



2007/06/10

新自由主義における技術革新

新自由主義理論は技術革新を、新しい製品、新しい生産方法、新しい組織形態の追求に駆りたてる競争の強制力にゆだねる。しかし、
この推進力は企業家の常識にあまりに深く埋め込まれているために、物神崇拝の対象さえなっている。
どんな問題にも技術的解決策があるというわけだ。企業ばかりでなく国家機構(とりわけ軍隊)の中にもこの考えが定着するにつれて、
技術革新の強固な自立化傾向が生じ、それは安定性を損ないうるだけでなく、場合によっては逆効果にさえなりかねない。
技術革新を専門とする部門がこれまで市場になかった新製品とその新しい使い方を編み出すような場合(たとえば新薬が生産され、
そのために新しい病気もでっち上げられる)、技術の発展が暴走する可能性がある。そのうえ、有能な新参者が技術革新を動員して、
支配的な社会的諸関係や諸制度を掘りくずすこともある。彼らはその活動を通じて、
自分たちの金儲けに有利になるよう常識さえもつくりかえるかもしれない。このように、技術の発展力学、不安定性、社会的連帯の解体、
環境悪化、脱工業化、時間・空間関係の急激な変化、投機的バブルなどといったことと、
危機を醸成する資本主義内部の一般的傾向とのあいだには、密接なつながりがある。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P99-100)



2007/06/07

新自由主義国家に関する一般理論内部のあいまい点や対立点

第一に、独占企業をどのように解釈するのかという問題がある。競争はしばしば独占ないし寡占をもたらす。というのも、
より強い企業がより弱い企業を駆逐するからである。 (中略) いわゆる「自然独占」の場合はそれよりも難しい。電力供給網、ガス・
パイプライン、上下水道システム、さらにはワシントン-ボストン間の鉄道路線などが、それぞれ複数で競合しあっても無意味だろう。
こうした分野では、供給・アクセス・価格設定上の国家規制は不可避である。 (中略)


第二の大きな争点は「市場の失敗」に関する問題である。市場の失敗が起きるのは、
個人や企業が自分たちの責任を市場の外部にはじき出し-専門用語で言えば「外部化」し-、
自分たちにかかってくるコストのすべてを払おうとはしない場合である。この古典的事例が環境汚染である。そのさい、
個人や企業は廃棄物処理費用を免れようと、環境のことなど一顧だにせずに有害廃棄物を投棄する。 (中略)
 新自由主義者たちがこうした問題の存在を認めると、ある者は一定の譲歩をして限定的な国家介入に賛成するが、他の者たちは、
何か治療をしようとすればほとんど確実に病より悪い結果をもたらせるのだから何もしない方が良いと主張する。
何らかの介入が行われるべきとしたら、それは市場メカニズム(たとえば、課税、インセンティブ、汚染物質排出権の市場取引など)
を通じてなされるべきということに、大方の新自由主義者は一致する。「競争の失敗」に対しても同じようなアプローチが選択される。契約関係、
二次契約関係が増えるにつれて、取引コストも増大する。 (中略)


通常、市場の活動主体はみな同一の情報にアクセスできると想定されている。
自己利益にもとづいて合理的な経済的決定を下す諸個人の能力を妨げるような、権力や情報の非対称は存在しないということが想定されている。
だが、実際にはこのような条件はめったにないし、むしろ、情報や権力の非対称性にもとづくいくつかの重要な結果が生じている。
他人よりも情報や権力を多く持っている行為主体にとっては、その利点を利用して、いっそう大きな情報と権力を獲得することさえ容易にできる。
知的所有権(特許権)の確立は、さらなる「レントの追求」を促す。特許権をもつ者はその独占権力を用いて、独占価格を設定するか、
非常に高額の代金が支払われないかぎり技術移転を妨害しようとする。それゆえ国家が対抗処置をとらないかぎり、
非対称な権力関係は減少するどころか、時とともにますます増大する傾向にある。完全な情報や対等な競争環境といった新自由主義の想定は、
無邪気なユートピアであるが、富の集中とその結果としての階級権力の回復を意図的にごまかしているかのどちらかである。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P98-99)


レントに追求:「レント」とは何らかの独占状態から生じる特別の利益のこと、技術の独占から生まれるのが技術使用料、
土地の独占から生まれるのが地代である。「レントの追求」とは、そうした独占事業を維持・拡大することで、レント収入を追求することをいう。


補足:現在において著しいのは、医療関係、たとえばエイズ治療薬は特許の集合である為、
国家が介入しない限りアフリカなどの貧民者が多数を占めるアフリカ諸国では高額のため利用できない状態。もしくは、
最近のバイオテクノロジーにおける状況。医療保険制度の中で製薬会社への支払い割合はおそらくかなり高い。特許・著作権(遺伝子コード)
などの問題は、恐ろしく専門的ではあるが、直接に我々の生活の中に入りこんでいる問題でもあると、僕は認識している(amehare)



新自由主義派の理論家たちは民主主義に対して根深い不信を抱いている

新自由主義派の理論家たちは民主主義に対して根深い不信を抱いている。多数決原理による統治は、
個人の諸権利や憲法で保障された自由にとって潜在的脅威だとみなされている。民主主義はぜいたく品とみなされ、
政治的安定を保障する強力な中産階級の存在と結びついた適度な豊かさのもとでのみ実行できるとされている。したがって、新自由主義者は、
専門家やエリートによる統治を支持する傾向にある。民主主義や議会による意思決定よりも、
行政命令や司法判断による統治の方がずっと好ましい。新自由主義者は中央銀行などの主要機関を民主的な圧力を守ろうとする。
法の支配や立憲体制の厳格な解釈を軸にすえる新自由主義理論の前提では、紛争や対立は法廷で調停すべしということになる。
いかなる問題であれ、その解決策は、法制度を通じて個々人によって追求されなければならい。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P96-97)



理論における新自由主義国家

新自由主義国家は理論的には、強固な私的所有権や法の支配、自由に機能する市場や自由貿易の諸制度を重視している。これらは、
個人の自由を保障するのに必要不可欠なものとみなされている社会的諸制度である。その法的枠組みは、
市場における法的人格同士の自由な交渉による契約上の義務にもとづいている。行動・表現・
選択の自由という個人の権利や契約の不可侵は保護されなければならない。したがって国家は、全力をあげてこれらの自由を守るために、
それが独占している暴力装置を用いなければならない。ひいては、ビジネス集団や企業(法的には個人とみなされている)
がこうした自由市場と自由貿易の制度的枠内で活動する自由も、根本的に善だとみなされている。民間企業や企業家のイニシアチブは、
技術革新を引き起こし富を創出する上で決定的なものだとみなされている。技術革新を保護するために、
たとえば特許制度を通じて知的所有権が保護される。生産性が持続的に向上すれば、高い生活水準がすべての人にもたらせることになっている。
新自由主義理論においては、「上げ潮は船をみな持ち上げる」とか、(上層から下層へと富が)「したたり落ちる(トリクルダウン)」
と想定されており、一国内であろうと世界規模であろうと、
自由市場と自由貿易を通じてこそ最も確実に貧困を根絶することができるのだと考えられている。


新自由主義がとりわけ熱心に追求しているのは、さまざまな資産を私有化することである。明確な私的所有権が存在しないこと-
多くの発展途上国ではよく見られることだ-は、経済発展と人間の福祉の改善とに対する制度的障壁の中で最大のものの一つだとみなされている。
土地の囲い込みと私的所有権の確立は、いわゆる「共有地の悲劇」(土地や水といった共有財産を個々人が無責任に過剰利用する傾向)
を避ける最良の方策だとされている。かつては国家の手で運営ないし規制されていた諸部門は、私的所有の圏域に引き渡され、
規制は緩和されなければならない(あらゆる国家干渉からの自由)。競争-個人間、企業間の競争、また何らかの地域的単位(都市、地域、国、
地域集団)間の競争-は最大の美徳だと考えられている。もちろん、市場競争の基本ルールはきっちりと遵守されなければならない。
そうしたルールが明確に定められていないとか、所有権があいまいな場合には、国家はその権力を行使し、市場システムを押しつけるか、
このシステムそのものをつくり出さなければならない(たとえば汚染物質排出権の市場取引)。競争と結びついた民営化と規制緩和は、
官僚的形式主義を排し、効率と生産性を引き上げ、品質を改善し、負担を軽減する-安価な商品・サービスによって直接的に、
税負担の軽減によって間接的に-とされている。新自由主義国家は、グローバル市場の中で他国と並ぶ一個の単位として、
競争上の地位改善につながるような国内再編と新たな社会諸制度を継続的に追求しなければならない。


市場での人格的・個人的自由が保障される一方で、各人には自分自身の行為と福利に対する責任があるとみなされている。この原則は、
福祉・教育・医療・年金といった分野まで拡張される(チリやスロバキアではすでに社会保障は民営化されており、
アメリカでも同じことをめざすいくつかの提案がある)。

各人の成功や失敗は、何らかの社会システム上の問題(たとえば資本主義に内在する階級的排除)のせいであるよりも、
むしろ企業家的美徳の欠如とか個人的失敗(たとえば教育による人的資本への十分な投資を怠ったなど)という観点から解釈される。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P94-96)


 



2007/06/02

レーガンとサッチャーの成功

レーガンとサッチャーの成功はさまざまな形で評価することができるだろう。
だが次のことを強調しておくことは非常に有意義であるように思われる。すなわち、彼らが、これまで少数派だった政治的・イデオロギー的・
知的立場を採用し、それを一気に主流の地位に押し上げたことである。


彼らがその形成に助力した諸勢力の同盟関係と彼らが率いた多数派勢力とは、
次世代の政治的リーダーたちが取り除きたくでも取り除けない遺産となった。レーガンとサッチャーの成功を最もよく証明するのは、おそらく、
クリントンやブレアにとって政治的に立ち回る余地が非常にかぎられていて、
たとえ自分のよりましな本意に反しても階級権力の回復プロセスを維持する範囲内にとどまらざるをえない状況下に置かれたことであろう。


そして、ひとたび新自由主義が英語圏の世界に深く根づくと、
資本主義が全体として国際的に機能しているその仕方に新自由主義がかなり適合的であるという事実を否定することが難しくなった。このことは、
われわれが後で見るように、英米両国の影響力と権力が新自由主義をいたるところで押しつけたにすぎないと言っているわけではない。
この二つのケーススタディが十分に示しているように、国内状況やその後の新自由主義的転換の性質は、
イギリスとアメリカではかなり異なっており、この点を敷衍して考えるなら、どこにおいても、
外部の影響や強制のみならず国内の諸勢力もまた決定的な役割を果たしているという予想が成り立つだろう。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P88-89)



1990年代アメリカの新自由主義的現状

労働過程におけるフレキシブルな専門化と勤務のフレックスタイム制を求める高尚な要求は、新自由主義のレトリックの一要素となった。
それは個々の労働者にとって魅力的になりえたし、とりわけ、
強力な組合がしばしば恩恵を独占している構造から排除されていた者たちにとってはそうであった。


労働市場におけるより大きな自由や行動の自由は、資本家にとっても労働者にとっても利益になると大いに宣伝された。ここでもまた、
新自由主義的価値観がほとんどの労働者の「常識」にたやすく組み込まれた。
活動的な潜在力を有したこのフレキシブル化がどのようにして高搾取のフレキシブルな蓄積のシステムに転じたのか
(労働配分における時間と空間のフレキシビリティの増大から得られた利益のすべては、資本に回収された)、これは、
なぜ1990年代のほんの短い期間を除いて実質賃金が停滞あるいは低下し、各種の付加給付が減少したのかを説明する鍵でもある。


新自由主義の理論は、失業は常に自発的なものであると都合よく考えている。労働には「最低賃金」なるものが存在し、
それを下回ると労働者は働かないことを自ら選好する。失業は労働の最低賃金が高すぎるから生じるのだ。その最低賃金は、
部分的に福祉給付によって設定されるのだから(そしてキャデラックを乗り回す「福祉の女王」というお話があふれていた)、
クリントンによって遂行された、「われわれのよく知る福祉」
に対する新自由主義改革が失業を減らす決定的な一歩になると考えるのは理にかなっているというわけだった。


「われわれのよく知る福祉」:クリントンは1992年の大統領選公約で、フードスタンプや母子家庭への公的扶助(AFDC)
に代表される既存の福祉を終わらせると公約し、それが、公的扶助受給者を減らして就労を促すことを目的とした1996年の福祉改革
(福祉切り捨て)につながった。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P77-78)



2007/06/01

新自由主義とポストモダニズムの親和性

1970年代初頭には、個人的自由や社会的公正を追求する人々は、
多くの者が共通する敵とみなすものと対峙することで共通の大儀をつくり上げることができた。
介入主義的国家と同盟する強力な企業集団がこの世界を支配しており、個人に対する抑圧と社会的不公正を生み出しているとみなされた。
ベトナム戦争は不満の爆発をもたらす最もはっきりとした触媒であったが、企業と国家による環境破壊、愚劣な消費主義の推進、
個々の社会問題に対する軽視、人々の多様性に対する十分な配慮が欠如していること、個々人の可能性や個人の自由な行動が国家の規制や「伝統」
なるものによって厳しく制限されていること、こうしたこともまた広範な憤りを生んだ。


公民権が争点になり、セクシュアリティや「性と生殖に関する諸権利」も重要な役割を果たした。
68年の運動に携わったほとんどすべての者にとって、社会の隅々に侵入してくる国家は敵であり、変革すべき対象であった。
そして新自由主義者もその点には容易に同意することができたろう。


しかし、資本主義企業や、ビジネス界、市場システムもまた、是正されるべき主要敵とみなされていたし、
場合によっては革命的変革の対象でさえあった。それゆえ、68年の運動は資本家階級の権力にとっても脅威であった。そこで、
個人的自由の理想を乗っ取り、それを国家の介入主義や規制政策への対立物に転じることで、資本家階級は自分たちの地位を守り、
ひいてはそれを回復することさえできると考えた。新自由主義はこうしたイデオロギー的任務を果たす上で格好のものだった。だがそのためには、
消費者の選択の自由-特定の生産物に対してだけではなく、ライフスタイルや表現様式、多種多様な文化実践に対するそれ-
を強調する実際的な戦略によるバックアップが必要であった。


新自由主義化にとって政治的にも経済的にも必要だったのは、
差異化された消費主義と個人的リバタリアニズムの新自由主義的ポピュリズム文化を市場ベースで構築することであった。このことはまさに、
新自由主義が、長年舞台の袖に潜んでいて今日まさに文化の領域でも知の領域でも支配的潮流として全面開花している「ポストモダニズム」
と呼ばれる文化的推進力と少なからぬ親和性があることをはっきりと示している。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P63-64)



個人の自由という価値観と社会的公正という価値観

個人的自由を神聖視する政治運動はいずれも、新自由主義の囲いに取り込まれやすい。たとえば1968年の世界的規模での政治的反乱は、
より大きな個人的自由を求める願望に強く触発されていた。これはとくに学生たちにあてはまった。たとえば、
1960年代のカリフォルニア大学バークレー校の「表現の自由」闘争に鼓舞された学生たち、パリやベルリン、
バンコクで街頭に繰り出した学生たち、1968年のオリンピック直前のメキシコシティで情け容赦なく射殺されたような学生たちである。
彼らが求めたのは、親や学校、企業、官僚制、国家による束縛からの自由であった。
だが1968年の運動では社会的公正もまた主要な政治目標であった。


しかしながら、個人の自由という価値観と社会的公正という価値観とは、必ずしも両立しない。
社会的公正の追求は社会的連帯を前提とする。そしてそれは、何らかのより全般的な闘争、
たとえば社会的平等や環境的公正を求める闘争のためには、個人の欲求やニーズや願望を二の次にする覚悟を前提とする、
社会的公正と個人的自由という二つの目標は68年の運動の中では容易に融合しなかった。その緊張関係は、伝統的な左翼
(社会的連帯を支持する組織労働者や政党)と個人的自由を要求する学生運動とのあいだの緊張をはらんだ関係に最もよく表されている。
フランスで1968年の動乱の最中に疑念と敵意がこの二つの派(すなわち共産党と学生運動)を分裂させたのはその典型である。
こうした違いを乗り越えることができないわけではないが、両者の間に楔が打ち込まれる可能性があることを理解するのは難しくはない。
個人の自由を根源的なものとして重視する新自由主義のレトリックは、国家権力の獲得による社会的公正を追求する社会勢力の隊列の中から、
リバタリアニズム(自由至上主義)、アイデンティティ・ポリティクス、多文化主義、さらにはナルシスト的な消費主義を分裂させる力をもつ。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P61-62)



文化的な偏見が存在する場合には真の問題を大きく見誤らせ、不明瞭にし、偽装されることがある

一般にこの同意の根拠となるのが、アントニオ・グラムシのいう「常識(コモンセンス)」(それは「共通に持たれる感覚」と定義される)
である。常識は、地域的ないし国民的な伝統にしばしば深く根ざした文化的社会化の長期的な慣行の中から形成される。それは、
その時々の問題に批判的に関与することで形成される「良識(グッドセンス)」とは異なる。それゆえ常識は、
文化的な偏見が存在する場合には真の問題を大きく見誤らせ、不明瞭にし、偽装されることがある。


神や国への信仰、あるいは女性の社会的地位についての考え方といった文化的・伝統的価値観や、共産主義者・移民・異邦人・「他者」
への怖れといったものが、他の現実を隠蔽するために動員される。政治的スローガンは曖昧なレトリックを凝らすことで、
特定の戦略を覆い隠すことができる。「自由」という言葉は、アメリカ人の常識的理解の中であまりにも広く共鳴を受けるので、それは
「大衆への扉を開くためのエリートたちの押しボタン」になってしまい、ほとんどあらゆるものを正当化する。


今から見るとこのようにしてブッシュはイラク戦争を正当化することができたのである。だからグラムシは、政治問題は
「文化的なものに偽装される」と「解決不能」になると結論づけた。政治的同意の形成についての理解を深めるために、
われわれはその文化的外皮の内部から政治的意味を抽出しなければならない。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P60-61)



新自由主義とは

新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、
自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、
と主張する政治経済的実践の理論である。国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持することである。たとえば国家は、
通貨の品質と信頼性を守らなければならない。また国家は、私的所有権を保護し、市場の適正な動きを、
必要とあらば実力を用いてでも保障するために、軍事的、防衛的、警察的、法的な仕組みや機能をつくりあげなければならない。
さらに市場が存在しない場合には(たとえば、土地、水、教育、医療、社会保障、環境汚染といった領域)、
市場そのものを創出しなければならない-必要とあらば国家の行為によってでも。だが国家はこうした任務以上のことをしてはならない。
市場への国家の介入は、いったん市場が創り出されれば、最低限に保たれなければならない。なぜなら、この理論によれば、
国家は市場の送るシグナル(価格)を事前に予測しうるほどの情報を得ることはできないからであり、また強力な利益集団が、
とりわけ民主主義のもとでは、自分たちの利益のために国家介入を歪め偏向させるのは避けられないからである。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P10-11)



2007/05/17

世界の労働事情

弘前市の女性は縫製の仕事をしている。01年に時給604円だったが、06年に610円になった。
青森県の最低賃金が610円になったからだ。5年間で6円の値上げはあまりに少ないので、会社に交渉したら。「中国人の研修生は、
時給300円で働いている。不満なら辞めろ」と言われた(朝日新聞 07年2月6日)。


ILO報告によると、東南アジアの若年(15~24歳)失業率は95年は9.7パーセントだったが05年には16.
9パーセントになった。アジアの人口増加が背景にある。2050年までにインドで5億7000万人、パキスタンで1億6000万人増加し、
その内、0歳から14歳までの子どもが30パーセントを占める(朝日新聞、06年8月29日)。


同調査で、世界の若年総人口は10億人、労働人口は6億5700万だが、失業は13.5パーセントで、
95年から05年までに1000万人増えた。人口増が13パーセントで雇用増が4パーセントだからだ。中東と北アフリカの若年失業は25.
7パーセントだ。全失業者の44パーセントは若者だ(朝日新聞、06年10月31日)。


韓国では無職の若者が120万人、「白手=ペスク」と呼ばれ、軽蔑の眼差しでみられる。逆に若者たちは56歳以上の人たちを
「あんたたちがいるから我々が就職できない」といい「給料泥棒」と呼んでいる。(朝日新聞、07年1月7日)。問題を個人化し、
互いに憎しみ合う心性はグローバル資本にとって都合がいい。


韓国では高学歴者ほど就職難である。大卒正社員は50パーセント弱で、過半数が短期の単純作業に就く。
日本の大学進学率は52パーセントだが、韓国は82パーセントにもなる。教育と学歴がいかに幻想をふりまくかが分かる。


06年の3月から4月にかけ、フランスでは、新雇用法に抗議して300万人の市民や学生や労働者がデモに参加した。アメリカでは、
移民規制の抗議デモは200万人に達したから、仏米同時に数百万の人々が街頭に出たことになる。


フランスでは輸送関係労働者と学校教職員がストに参加した。若者が線路や道路に侵入し、交通網が寸断された。全国で13パーセント、
パリでは40パーセントの高校で授業ができなかった。


ロスアンゼルスでは5万人の高校生がウォーク・アウトと称して、学校の塀を乗り越えて歩き始めた。それに呼応しアリゾナ・シカゴ・
ニューヨーク等の高校生がネットで連絡し、ウォーク・アウトをした。


フランスの新雇用法では、26歳未満の若者を理由なく解雇できるようにしようとした。若年失業率が9パーセント、
高卒失業が14パーセント、中卒失業が40パーセント、移民系の若年失業は50パーセントに達する。失業率50パーセントとは、
進学しない者のほぼ全員が失業していると見た方がいい。


アメリカの場合、1986年の移民法改正で、その時までの移民が合法化された。だがその後の移民が後を絶たず、
新移民は1200万人になり、各地で移民を締め出す動きが生じた。移民のために「医療や教育費の負担が増し、国益を損ねる」との声に応え、
政府は移民制限法を出した。


ラチーノといわれるヒスパニック系の人々は、建設業や農業や清掃や調理の仕事に就き、安い賃金で働いてきた。
それを犯罪者扱いするのは何事か、と反発している。不正移民取締法が通れば、アメリカ国籍を持つラチーノの子たちが、
国籍のない親と別居せざるを得ない。


フランスとアメリカ両国とも、共通の背景がある。労働力の国際移動だ。アメリカは直接移民が問題となっているが、
フランスも東欧や中近東からの移民があり、それが国内の雇用を悪化させたからだ。


先進国政府は、移民を止めれば自由化に反することになり、移民を止めなければ、
国内の若者や労働者の反発を招くジレンマに立たされている。グローバル経済の動きを止めない限り、解決しそうもない。


多国籍企業はアジア・アフリカ・ラテンアメリカと東欧諸国の経済格差を利用して収益をあげ、物と金が国境を越えて移動しているのに、
人の移動だけをストップするのは不可能である。


世界の最低賃金は3億5000万人(OECD調査)いる児童労働の賃金だろう。中でも1億7000万人いるスゥエット・ショップ
(搾取工場)では時給6円である。経済の自由化が続けば、先進国の労働者の賃金が限りなくこれに近づく。


労働者の使い捨て時代に突入した。「クリネックス・レイバー」と言われ、労働者がティッシュペーパーのように使い捨てられる。
各国の政府は国際労働市場のシステムを変えずに、劣悪な労働条件を国民に強いている。
このシステムを作ったのはWTOに結集した多国籍企業だが、その力は国家を凌駕している。


フランスやアメリカの抗議デモや若者の暴動はこのシステムに反対した。「このシステムが国民の将来の生活を脅かす」という意識があり、
その意識を持つ人々が数百万人に達した。


数百万のデモは日本で見たことがない。日本の労働者や若者も同じ状況に置かれているのに、それに気づいていない。この国では、
心性操作が巧みに行われているからではないか。自らの置かれた状況への認識を欠くことが怖い。全体状況を知らずに、
身辺に見る犯罪や貧困を個人のせいにし、「誰か悪いヤツが隣にいる」と思う。その思いが民衆ファシズムにつながる。


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢)