2007/06/01

個人の自由という価値観と社会的公正という価値観

個人的自由を神聖視する政治運動はいずれも、新自由主義の囲いに取り込まれやすい。たとえば1968年の世界的規模での政治的反乱は、
より大きな個人的自由を求める願望に強く触発されていた。これはとくに学生たちにあてはまった。たとえば、
1960年代のカリフォルニア大学バークレー校の「表現の自由」闘争に鼓舞された学生たち、パリやベルリン、
バンコクで街頭に繰り出した学生たち、1968年のオリンピック直前のメキシコシティで情け容赦なく射殺されたような学生たちである。
彼らが求めたのは、親や学校、企業、官僚制、国家による束縛からの自由であった。
だが1968年の運動では社会的公正もまた主要な政治目標であった。


しかしながら、個人の自由という価値観と社会的公正という価値観とは、必ずしも両立しない。
社会的公正の追求は社会的連帯を前提とする。そしてそれは、何らかのより全般的な闘争、
たとえば社会的平等や環境的公正を求める闘争のためには、個人の欲求やニーズや願望を二の次にする覚悟を前提とする、
社会的公正と個人的自由という二つの目標は68年の運動の中では容易に融合しなかった。その緊張関係は、伝統的な左翼
(社会的連帯を支持する組織労働者や政党)と個人的自由を要求する学生運動とのあいだの緊張をはらんだ関係に最もよく表されている。
フランスで1968年の動乱の最中に疑念と敵意がこの二つの派(すなわち共産党と学生運動)を分裂させたのはその典型である。
こうした違いを乗り越えることができないわけではないが、両者の間に楔が打ち込まれる可能性があることを理解するのは難しくはない。
個人の自由を根源的なものとして重視する新自由主義のレトリックは、国家権力の獲得による社会的公正を追求する社会勢力の隊列の中から、
リバタリアニズム(自由至上主義)、アイデンティティ・ポリティクス、多文化主義、さらにはナルシスト的な消費主義を分裂させる力をもつ。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P61-62)