「写真は神学的なテクノロジーだ」とピーター・オズボーンはいっている。写真は指標記号であり、
物質世界の了解可能性を記す痕跡だからだ。この場合痕跡は、
テロリストが送った意図的なメッセージの多様な意味すらすり抜ける余剰となっている。原理主義的な意味ではなく「神学的」なのである。
原理主義は、バイブルであれコーランであれ、テクストに頼り、世界を意図をもった運命として解釈する。このような解釈は、
写真の物質的な痕跡を排除する。写真の意味は、大いなることばによるあらかじめの決定を乗り越えてしまう。
破壊のイメージのトラウマ的な強度はまさにここにある。まるで映画のように見えはするが、そのイメージは意図されずして真実であり、
否定しがたく物質であり現実である。そしてこの現実は、象徴的なメッセージに泥を塗る。
(『テロルを考える』「グローバルな公共圏?」 スーザン・バック=モース 村山敏勝訳 みすず書房 P37)