産業革命は、かつて分離派信徒たちが心を燃え立たせた改革と同じ急進的で過激な革命のたんなる始まりであるにすぎなかった。
だが新しい教義はまったく唯物主義的であり、人間の諸問題は物財が無限に与えられさえすればすべて解決できると信ずるものであった。
その物語は繰り返し語られてきた。すなわち、市場の拡大、石炭と鉄の存在に加え綿工業に適した湿潤な気候、
十八世紀の新たな囲い込みにより土地を奪われた多数の人々、自由な諸制度の存在、機械の発明、
等々の原因が絡みあって産業革命を生じさせたのである、と。だが、明確になったことは、
そうした連鎖の中からどの一つの原因を取り出してみても、
あの突然で予期しない出来事の真の原因として特記するに足るものはないということである。
では、この革命そのものは一体どう定義すべきか、その根本的特質は何であったのか。それは、工場都市の勃興か、スラムの出現か、
児童の長時間労働か、特定部門の労働者の低賃金か、人口増加率の上昇か、それとも諸産業の集中か。われわれの見解では、
これらはすべて一つの根本的変化すなわち市場経済の確立に付随したものにすぎないのであり、またこの制度の本質は、
機械が商業社会に与えた衝撃を理解しなければ十分に把握することはできないのである。
機械がかの出来事をひき起こしたと主張するつもりはないが、次の点は強調しておかなければならない。すなわち、
精巧な機械設備がひとたび商業社会で生産に用いられるや、自己調整的市場の観念が必然的に姿を現わすということである。
(『大転換』 カール・ポラニー 吉沢英成、野口建彦、長尾史郎、杉村芳美訳 東洋経済新報社 P53)