終戦時、サハリンには約40万人の日本人がいた。昭和21年に結ばれた「米ソ引き上げ協定」によって、日本人ついては、
引き上げが許され(24年までに約30万人が帰国)たが、ソ連にとって終戦と同時に「無国籍者」とされた、朝鮮半島出身者については、
ソ連が出国を認めなかったために、サハリンへの残留が余儀なくされた。
これについて「日本人だけが、さっさと帰って朝鮮半島出身者だけを見捨てた」という悪質なプロパガンダが流されたが、当時、
占領下にあった日本は、そうした決定に関与すらできなかったのである。先にも書いたが、彼らがサハリンに留め置かれたのは、
ソ連が国交のない韓国への出国に難色を示していたからだ。背景には、北朝鮮への配慮があったという。2005年に、
韓国政府が公開した外交文書によれば、1974年にサハリンから日本経由で韓国へ帰国しようとしていた残留韓国人約200人が、
やはり北朝鮮に配慮したと思われるソ連の拒否によって出国が認められなかったケースが明らかになっている。
各国政府が無関心を決め込むなか、当事者の一人で、昭和33年に日本に帰国していた故・朴魯学氏・堀江和子さん夫妻ら、
日本にいた民間人の力によって、一時帰国、永住帰国への道が開かれたことも既に述べた通りだ。そのままなら「美談」に終わるはずの話が、
政治問題・外交問題になってしまったのは、50年12月、残留韓国人4人を原告にして東京地裁に提訴された「サハリン残留者帰還請求訴訟」
がきっかけである。18人の大弁護団の中心的な立場にいたのは、後に「従軍慰安婦」訴訟でも”活躍”した人物だった。
日本政府の見解は一貫して、「法的責任はない」というものだったが、やがて「人道的支援」を行うことに追い込まれる。
そしてこの問題はやがて、人道的支援から、「戦後補償」へとすり替えられて行くのだ。
日本政府に法的責任がない、というのはまったく正しい。昭和40(1965)年の日韓条約で、「解決済み」の問題であり、
先の韓国の外交文書公開では、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることも明らかになっている。
しかも”そもそも論”で言えば、戦前、戦時中に朝鮮半島からサハリンへ渡った人たちの多くは、外地手当などによる「高給」
に魅力を感じて企業の「募集」に応じて、自分の意思で行った人たちである。つまり、日本政府に無理矢理連れて行かれたわけではない。
先の新井佐知子氏は「私たちが帰国を支援した人たちも、ほとんどが「募集」でサハリンへ渡った人たちでした。
(1944年から朝鮮半島で実施された)正式な徴用令状で行った人は数百人にも満たないでしょう。当時は『強制連行』
なんて言葉すら無かったのです」と断じている。
実際、安山の『故郷の村』に住んでいる住民(一世)に聞いてみると、多くの人は「募集で行った」と答えている。
帰国運動を行った朴魯学氏(故人)も、昭和18年に樺太人造石油会社の募集に応じて、サハリンへ渡った一人だ。朴氏は、
サハリンで貰った給料で、韓国の家族に、家一軒が建つほどの仕送りが出来たという。妻の堀江和子さんによれば、
何が何でも日本政府の責任を主張する仲間(残留韓国人)に対して、「強制連行などではなかったじゃないか」と、
朴氏が咎めることがたびたびあった。
韓国政府や残留韓国人の団体は、こうした見解を認めようとはしない。「たとえ募集や官斡旋で行ったとしても、日本支配下のことであり、
事実上の強制であった」(韓国政府関係者)というのである。そして理論上、苦しくなると、「人道的支援」を持ち出すのだ。
だが、新井氏は、「私たちが世話をした人の中には、募集でサハリンに渡り、お金を稼いで、いったん戻ってきた後、
ばくちでスッテンテンになって、もう一度、自らサハリンへ行った人もいました。もちろん、強制などではありませんでした」と反論している。
結局、日本は外向的摩擦を怖れるあまり、求められるままに、「理由なき支援」を続けてきたのだ。もちろん、
国際社会で責任ある立場として、日本が「人道的支援」を行うのはいい。だが、70億円は、明らかにその範囲を超えている。
(月刊誌『正論』 2007年6月号 「サハリン 残留韓国人への追加支援で密かに盛り込まれた「3億円」」)
補足:「故郷の村」とは、韓国・安山市に2000年2月に完成した、サハリンからの帰国者支援のために建設したアパート群(八棟)。
建設費27億円は日本が出している)
70億円とは、一時帰国支援金・住宅施設建設費(安山アパート、仁川療養所など)・サハリン残留者支援金・永住帰国者支援金などの、
現在までに日本政府が支援した費用総額。