2007/06/09

北方領土のこと

二十世紀が終わろうとしている1997年、日本政府とロシア政府はようやく重い腰をあげ、アジア・
太平洋戦争以来決着がつかないままになっていた懸案事項の解決に乗り出した。すなわち、和平条約の調印と両国国境の確定に関わる作業である。
両国の交渉で焦点となる事項のうちもっとも重要なものは、いわゆる「北方領土」-国境線のロシア側では、南クリル(千島)として知られる、
ハボマイ(歯舞)、シコタン(色丹)、クナシリ(国後)、エトロフ(択捉)-の統治管轄という問題である。これまで、
この問題をめぐる論争は、国家間の権力政治という古典的な言語を用いておこなわれてきた。ロシア政府の視座からみると、
クリル諸島を自国領だと請求する根拠は、これが十七世紀にロシアの探検隊によって「発見」されたという事実に求められる。他方、
日本の観点からみると、この列島は北海道の地理的延長として定義される。それゆえ、日本政府は「北方領土」を「我が国固有の領土」
の重要部分であるとみなし、これを領土として認知するようにと要求するのである。


現在にいたるまで、交渉の表舞台で繰り広げられてきたのは、首脳外交、つまり御歴々が演ずるドラマであった。しかし、
この舞台の袖から非公式の声がかすかに聞こえはじめている。クリル諸島の現在の居住民は、
ロシア中央政府から長年にわたって受けてきた侮蔑的扱いに憤慨の意を表明し、独自の計画にもとづき、島を日本に貸与すると提案した。一方、
参議院議員(当時)萱野茂(かやのしげる)をはじめとする著名なアイヌの活動家たちは、ロシア人や日本人が「発見」するはるか昔から、
したがって日本政府がロシアに隣接する日本領土として北海道を創出する以前から、すでにこの列島にはアイヌ住民が居住していたのだ、
と政府首脳にむけて主張した。萱野は、アイヌにはこの列島の将来にかかわる交渉に参加する権利があると主張する。しかもこれは同時に、
国境線の北側の先住ニヴフ共同体の指導層からも、正当な主張だと認知されている。ニヴフ共同体の人びとからすれば、
クリル諸島及び近隣のサハリン(樺太)島とは、幾世紀にもわたり、アイヌ共同体とともに形成してきた相互活動領域にほかならないのである。


(『辺境から眺める』 テッサ・モーリス=鈴木 大川正彦訳 みすず書房 P1-2)


補足:北海道は、英国人にとっての北アメリカ同様に先住民から土地を搾取することで領土化された、という明白な事実を時として忘れる。
萱野茂氏は2006年5月6日に79歳の生涯を閉じた。
アイヌの英雄叙事詩ユーカラを紹介するなどアイヌ文化の振興に多くの功績を残された方でもある。