2007/06/11

夏目漱石 『硝子戸の中』 「八」

 不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。
そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。


「死は生よりも尊とい」

こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。

 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、
乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。

 だから私の他に与える助言(じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。
どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人(いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。
すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、
互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。

「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」

 こうした言葉は、どんなに情なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に赴むこうとする病人に、
わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝らしている。こんな拷問に近い所作が、
人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しているかが解る。
私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。

 その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷けられていた。
同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面を輝やかしていた。

 彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱き締めていたがった。不幸にして、
その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。


 私は彼女に向って、すべてを癒す「時」の流れに従って下れと云った。
彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥げて行くだろうと嘆いた。

 公平な「時」は大事な宝物を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。
烈しい生の歓喜を夢のように暈してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々しい苦痛も取り除ける手段を怠たらないのである。

 私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口(きずぐち)から滴る血潮を「時」に拭わしめようとした。
いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。

 かくして常に生よりも死を尊いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充ちた生というものを超越する事ができなかった。
しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸な自然主義者として証拠立てたように見えてならなかった。
私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。


(『硝子戸の中』 夏目漱石 夏目漱石全集10 ちくま文庫 筑摩書房)