ドナルド・ジャッドのこのことばは名高い。「誰かが自分の作品はアートだといえば、それはアートだ」。
1966年に最初にいわれたときには、文化体制への順応を批判していたこのことばは、現在の状況では完全に中和され、無力になっている。
アートとはアーティストがすることだ -こうしてアーティストの存在論は、ただの同語反復と化し、アーティストの絶対的な権力は、
社会的無力に転換される。現代アートは、判断、趣味、重要性といった法にいっさいしたがわず、
アーティストの決断主義にのみ服しているからこそ「自由」であり、アーティストはといえば、スキャンダル、戯れ、退屈、ショックと、
なんでも与えることができる-社会的・認知的な効果をもたない存在様式であれば、、なんにでもなれる。「良い」アートですら、
この無味乾燥な環境では、卑小なものになるのを免れない。「政治的」アートですら脱政治化され、
たんに現代の数ある実践ジャンルのうちのひとつになる。どんなものにもなる権利はあるのだが、どれもどうでもよいものなのだ。
アート作品が認識論的に定義されるのではなく、「アーティスト」
という存在が存在論的に定義されるというこの困った転換が示しているのは、グローバルに商業化され、
自己完結して自己満足しているアート世界に抗議しようとするアートが、骨抜きにされているということだ。
(「テロルを考える」 『グローバルな対抗文化?』 スーザン・バック=モース 村山敏勝訳 みすず書房)