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2010/09/14

オノデラユキ オルフェウスの下方へ

きっかけはある人物が宿泊中のホテルの部屋から突然姿を消し行方不明になったという事件の記事だった。奇妙なのは、その人が突然消えたということ以外にホテルの部屋には何も異常は見当たらなかったこと。部屋の鍵は内側から掛けられていて窓もしまっているし、荷物もそのまま、鍵もその部屋の中に置かれていた。ミステリーとしては仕掛けが少ない。事件から二年半後、私はそのホテルの同じ部屋を指定して宿泊した。その人の「行方」に興味があったから、その室内を撮影するために。写真が何かしらの形跡を留めることもありえるから。

ところでもうひとつ、この失踪事件と繋がると確信している記録がある。遥かな地下世界からやって来た予言者、あるいは狂人についての逸話である。それは太平洋のど真ん中、マオリの長の口述として18世紀のイギリス船の航海日誌に付録的に記述されたものだ。西洋人の来訪も予言者によりすでに知らされていた。その不思議な狂人が世界で最も長い名前の村から30キロほど離れた場所に現れたのは、今日から280年前のこと。地下を旅してきた人、未来のことを語る旅人についての典型的な伝説である。

その人物が現れた場所はちょうど失踪事件があったホテルの部屋の真下1万2700Kmの地点。まるで空想旅行記のようではないか、と思いながらも私はその人物の後を追うために、というよりはその人が見た風景、つまりこのホテルの部屋のまっすぐ下方の先に広がる世界が見たいがために、その場所に移動することになる。

私は、北緯40度25分51秒 ー 西経3度42分28秒 の場所から、南緯40度25分51秒 ー 東経176度17分32秒 の場所遥か下方へ移動した。

1726年、その人が眺めたであろう風景はその場所が世界地図に置き換えられる前からその様に存在していたし、他者によって発見され所有される遥か昔からそこにある。

私は今や逆に、遥か下方となったホテルの部屋のことを思い出しながらその場所を写真に収め風景を共有した。

(2010年7月27日~9月26日 「オノデラユキ 写真の迷宮へ」 東京写真美術館にて)

2008/12/14

あるカメラマンの死

「あんまり、こうマッチョにしないでねっていうか、こう、わかるだろう?マッチョっぽくされちゃうと、どうもさあ・・・・・・」

最初のインタビューを終えた夕暮れどき、南アフリカの写真家、ジョアオ・シルバは少し遠慮がちにそう言った。あまり、おどろおどろしく書いてほしくない、ということらしい。戦場を駆け回るカメラマンが、米国のピュリッツァー賞を受賞直後、自殺する。その背景をまとめた米国の雑誌『タイム』や、『ニューズウィーク』を彼は指している。

確かにどれも自殺したカメラマンの繊細さ、戦場報道でこわれていく心の軌跡を、あまりに「できすぎた物語」として描いている。

自殺した写真家の名はケビン・カーターという。ジョアオはその友人で、やはり南アフリカをベースに主に戦場の写真を撮るカメラマンだ。私がケビンの自殺の背景を調べ始めたのは、彼が撮影した「ハゲワシと少女」という写真がきっかけだった。スーダン南部で撮られ、一九九四年に米国のピュリッツァー賞を受けた写真だった。

私が初めてその写真を目にしたのは日本でだった。多分、新聞で目にしたのだと思う。そのときの微かな驚きと、少し眉を寄せいぶかるような気持ちになったのをよく覚えている。

砂漠からサバンナへと変わるブッシュ帯。手前に、やせ細った黒人の子がまるでイスラム教徒がモスクで祈るような姿勢で地面に突っ伏している。その奥、数メートルのところにハゲワシが羽をおさめ、何かを待っている。ハゲワシはよく見るとのんびりしているようにも見えるし、獲物に目を光らせているようにも思える。いや、特に目的もなくただ、そこにいるだけなのかもしれない。実際に何が起きていたのかはわからない。でも、写真を見た多くの人々ははっきりとしたメッセージをそこに感じとる。

「アフリカの戦場では子供たちがハゲワシの餌食になっている。世界にはこんなにも悲惨な生がある」

私の中にそんな言葉が浮かび、この写真を撮った人物は、そのとき、どんな様子だったのか、なぜ、こんな場面に出くわすことになったのかと、そのことに関心が向いた。

アフリカの原野に住んでいれば悲劇はあるだろう。だが、この写真にはそんな不慮の事態をとらえた「決定的瞬間」以上のものがあるように思えた。同じころ、ニュースで四国の少女が土佐犬に噛み殺されるという事件があった。それは、とても不幸な不慮の事故と言えるが、それ以上のはっきりとしたメッセージはない。なぜなら、現場が日本だからだ。だが、このハゲワシの前に突っ伏した少女は、アフリカでも特に肌の色が濃いスーダンの女の子だ。それだけで世界に配信される写真には、アフリカ、戦場というキーワードがついてまわり、すぐさま政治的な意味が加わる。

私がアフリカに暮らしてからもなおこの写真にこだわっていたのは、「アフリカのリアリズム」というものについて考え続けていたからだ。悲惨さの脇に普通の人々の日常がある。悲惨な風景の中にさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある。だから、アフリカを日本に伝える者として、悲劇のイメージばかりを送り出すことに、次第に抵抗を感じるようにもなっていた。でも、ケビン・カーターのあの写真にはそんな生半可な思いを打ち砕く衝撃力があった。

あの写真はどうやって生まれたのか。取材を始めたのはアフリカに来て二年が過ぎた九七年のことだった。

撮影の前になぜ少女を救おうとしなかったのか。写真をめぐる議論は主に米国の週刊誌メディアでふくらみ、ケビンはそんな批判にたえかねて自殺した、という風聞が南アフリカでも広がっていた。だが、人はそんな風にきれいに死ぬだろうかという疑問が私にはあった。そんなことをたずね歩き、たどりついたのが、ケビンをスーダンに連れていったもう一人の写真家、ジョアオ・シルバだった。

歯切れのいいジョアオの言葉は痛快だった。彼が多用する「クール(いかす)」という、やや気安い、子供っぽい英語表現も心地良かった。戦場が好きな写真家でありながら、男らしさなどかけらもなく、趣味の自動車レースやプラモデルづくり、テレビゲームに熱中するタイプだった。

 

一九九三年三月十一日、スーダン南部コンゴール州のアヨド村。ケビンが、目の前にいる少女とハゲワシのどちらにピントを合わせようかと迷っていたとき、ジョアオはそこから数百メートルのところにいた。

「時間は三十分しかない。だから、俺たちは走り回ってた。村々に食料を届ける国連機、オペレーション・ライフライン・スーダンっていうやつ、聞いたことあるだろ?それに乗れるっていうんで、俺はケビンを誘っていったんだ。あのころ、あいつ、もう生活が完全に破綻してて。アルバイトでやってた深夜のディスクジョッキーの仕事も、トークラジオの仕事も契約が取れなくて、離婚もしてて、まともに食えなくて、変な女につかまって、麻薬づけになってて。だから、『おい、ケビン、行くぞ、アフリカの真ん中、スーダンに行くぞ』って、引っ張っていったんだ。あいつ、質に入れてたから、手元にカメラもなかったんだ」

「国連機に乗って、平原みたいな、一応滑走路みたいなところに降りたんだんだ。職員が『三十分後に離陸する』っていうから、俺たちはもう必死に走り回った。絵はないか、絵はないかってね。お前はあっち、俺はこっち行くからって。俺? 俺はあのとき、ゲリラいるだろ?ゲリラ。連中が二つに割れたって聞いていたんで、でもはっきりとした証拠もないから、ゲリラ兵に会えないかなって思って、村っていうか、小屋だけの集落を見て回ったんだ」

「俺たちが降りて、ミーリーズ(食糧のトウモロコシ粉)を下ろし始めたら近くにあった避難民の小屋から女たちがわーっと一斉に飛行機に近づいてきた。まあ、普通の光景だから、適当に何枚か撮って。俺は、『兵隊、兵隊』って、ゲリラばかり探してた。ケビンはそのとき飛行機の近く、数十メートルのところにずっといたみたいだ」

ジョアオは初対面の相手にはいつもこうなんだろうか。時に立ち上がり、両手を広げてややオーバーな演技をしながらひとり語り続ける。それは、もしかしたら、照れくささや気恥ずかしさを隠す一つの防御反応かもしれない。

狭い仕事部屋の破れたソファの上を猫が時折、関心なさそうに行き来する。壁には友人の写真家が撮った南アフリカの内戦時の写真や、ポスターが無造作に張られ、書棚にはネガの入った小型の段ボール箱が山積みされている。本などない本棚にはつくりかけのホンダの大型バイクの模型が大事そうに飾られていた。

「あいつ、南アフリカ、ソウェト(ヨハネスブルグ南西の黒人居住区)のドンパチは知っているけど、飢餓の取材は初めてだから、ショックだったみたいで、しきりに飢餓の子を撮ってた。ショックっていうか、まあ、あいつは、何ていうかエキセントリックなとこ、あるから、ああいう光景に参りやすいじゃないかな、結構。俺とか、大丈夫だろ。見るものは見ると、さて、じゃあ、次どうしようかって。いちいち立ち止まって感傷にふけったりしないだろ。そんなの後ですりゃいいって。俺?俺はもう飢餓は何回も見ているから。あ、またかって感じ?はいはいってね。だけど、そりゃ撮るよ、一応は。ゲリラ撮れなかったときのための予備っていうのか。そうそう。えーと、この写真。あんた来るっていうから用意しといたんだ」

ジョアオが差し出したプリントにもやせ細った少女が写っていた。同じ少女か?一瞬そう思うほど、よく似ていた。この少女もやはり両手で目をふさぎ、それもまた、見ようによっては祈るような格好をしている。「三匹の子豚」の物語で最初にオオカミに吹き飛ばされてしまったような小屋が干し草の平原をバックに写っている。

「これは?」

私の興味深げな様子に満足したのか、ジョアオは嬉しそうに言葉を続ける。

「この子、ケビンの写真と同じ子って思うだろ。実は、違うんだ。ほら、見てみ。こっちの子は白いビーズの首飾りつけてるだろ。でも、俺の方の写真の子はつけてないだろ。これ違う子なんだよ。俺もやっぱり一応はケビンと同じような写真を撮ってたんだ。で、俺の写真?結局どこにも載らなかったな。いや、南アフリカの新聞に載ったかなあ。そのとき?だから、ゲリラ兵がいないから、まったくしょうがねえなあって思って、そしたら一応、飢餓の子も撮っておこうと思って、構えて、待って、動きが欲しいなっていろいろ、角度決めて、そしたら目をふさいで泣くような格好をしたから、カシャカシャカシャって何枚か撮って。
さあてと、兵隊いないかなってまた歩き出したんだ。そんなもんだろ。親?親はすぐそばで食糧もらうのにもう必死だよ。だから手がふさがってるから、子供をほんのちょっと、ポン、ポンとそこに置いて」

「ケビンが撮った子も同じ。母親がそばにいて、ポンと地面にちょっと子供を置いたんだ。そのとき、たまたま、神様がケビンに微笑んだんだ。撮ってたら、その子の後ろにハゲワシがすーっと降りてきたんだ、あいつの目の前に。あいつ?あの時、カメラ、借りてきたやつだから、180ミリレンズしか持ってなかったんだ。だから、そーっと、ハゲワシが逃げないように両方うまくピントが合うように移動して、10メートルくらい?そのくらいの距離から撮ったらしい。で、何枚か撮ったところで、ハゲワシは、またすーっと消えていったって」

「見てみろよ。おんなじような写真撮ってて、あいつの前にたまたまハゲワシが降りてきて、そんでもってポーンとピュリッツァー賞。俺の前には何も降りてこなくて、はい、普通のボツ写真。ま、そんなもんよ。戦場で撮っているとそうだろ。一瞬だよ、一瞬。ドンパチが始まって、たまたま道路一本隔てた死角にいたら、何も撮れなくて、たまたま、銃撃戦のちょうど真ん中の戦車の陰かなんかにいたら、すべて見渡せて、いい絵が何枚でも撮れる。そんで、ハイ、どんぴしゃっとピュリッツァー賞」

そばに母親がいて、子供をちょっと置いただけ。そんなたわいのない真相が私には意外だった。なぜなら、その少女は、あの原野の中に一人でたたずんでいたと勝手に思い込んでいたからだ。

「時間がないんでケビンのところに戻ったら、あいつ仰向けになって、煙草スパスパ吸って、空に向かってうわごと言ってんだよ。俺はその時点では、そんなすごい写真撮ったって知らないから、また、ケビンがおかしくなっているって思っただけだけど、あいつ、『アイヴ、ガッタイトゥ(撮った)、やったんだ、撮ったんだ、すごいの撮った、俺、撮ったんだ』なんて涙流さんばかりに興奮してて、またこいつがって思って『行くぞ、行くぞ』って言ったら、『家に帰って、娘(当時九歳)を抱きしめたい』なんて言うから、これはまともじゃないって思ったけど、こっちは写真をまだ見てないから、彼が本当のところどんな気持ちだったのか、そのときはわからなかった」

ナイロビに戻り写真を焼いてみて驚いた。

「こりゃ、すごい写真だって思って、すぐに『ニューヨーク・タイムズ』の知り合いに売り込んだんだ。そしたらなかなか載らなかったけど、何日かたって一面にでかく載ったんだ」

写真「ハゲワシと少女」は三月下旬の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面にカラーで掲載された。撮影から十日あまりが過ぎていた。

絶賛と共に、「撮影など振り捨て、なぜ、真っ先に少女を助けなかったんだ」という批判が米『タイム』誌などを中心に沸き起こり、報道のモラルを問う論争に発展した。『ニューヨーク・タイムズ』はその後、異例のおことわりを掲載する結果になった。

「撮影者の報告では、ハゲワシは追い払われてから、少女は再び歩き始めるまで回復した」と。

ケビンはこうした批判に反論しなかったが、地元紙にこう答えている。

「ああいう現場に行ったこともない人間に個人的な体験を話してもしようがない」

「状況や暴力について陳腐な意見を聞くと、俺の脳はシャッターを下ろしてしまうんだ」

でもジョアオに言わせれば、本人はかなり気にしていたそうだ。

「『お前は良いことをしたんだ。あのすごい写真を撮って、それがロンドンのヒースロー空港の看板にでかでかと載って。義援金が集まって、スーダンに送られて。とにかくお前は正しいことをしたんだ』。そう言っても、あいつはまたしばらくたつと、話を蒸し返して、ひとり気にしていた。もともと繊細なんだ、あれは。だけど、俺に言わせりゃ、少し馬鹿げているよ、少女を救えだなんて。救えったって、すぐそばに母親がいるんだぜ。アフリカの女は怖いんだよ。下手に勝手に子供を抱き上げたりなんかしたら、何すんのって母親が大慌てで飛んできて、どやされるよ。手出しなんかできるかよ」

ケビンは女づき合いにだらしがなく、自堕落を気取っているところもあった。その半面、自信がなく過敏で、他人の視線を常に気にしている弱さもあった。アンゴラの内戦の徴兵を逃れた二十代のころは躁うつ病で通院し、二度も自殺未遂を起こしている。

アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アで、黒人居住区の戦闘写真で名をあげ始めた八九年八月、地元紙の写真コラムにこんな一文を残している。

「写真報道とは奇妙な商売だ。私は仕事の大半を劇的な場面探しに費やしている。そんな中、手っ取り早く売れるのは、紛争中の人間たち、ヒューマン/ドキュメント、そして暴力だ。その手の写真を見て大喜びする読者が多いからだ。じゃあ、なぜ撮るのかと聞かれればこう答えるしかない。私はただ、自分の写真が載るのを見たいだけだと」

彼はこのころから、センセーショナルな写真を撮ることに疑問を抱き始めている。興味深いのは最後の一文、彼の開き直ったような口ぶりだ。

「おれはただ、自分の写真が紙面に載ればいい、それだけだ」

あえてそう言い切ってしまうところに、彼のやや過剰な自意識がある。

九四年七月二十七日未明。ピュリッツァー賞受賞決定から三ヶ月、授賞式から一ヶ月もたたないその日、ケビンはヨハネスブルグ郊外サントンにある自宅近くの緑地公園に車を止め、愛用の薬物、マンドラクスを吸いながら、車内に排ガスを引き込み自殺した。遺書の冒頭には「パパとママ」と書かれ、その下に電話番号。その下に「親友たち」とあり、すでに死んだカメラマンの友人の名と、カッコでくくられた別れた妻の名と電話番号、そして「ジョアオ・シルバ」と彼の番号がある。その脇には小さな字で「言葉にできないほど彼(ジョアオ)が好きだ」と記されていた。

(『絵はがきにされた少年』 藤原章生 集英社 「第一章 あるカメラマンの死」から)



2008/12/07

ケビン・カーターさんの告白

「国連などの食糧配給センタ-から500メ-トル離れたところで一人の少女に出会った。こんな風にうずくまって(真似をして見せる)必死に立ち上がろうとしていた。その光景を見たあと、いったんはその場を離れたが、気になってもう一度引き返した。すると、うずくまった少女の近くにハゲワシがいて、その子に向かって近づいて行った。
その瞬間、フォト・ジャ-ナリストとしての本能が“写真を撮れ”と命じた。目の前の状況をとても強烈で象徴的な場面だと感じた。ス-ダンで見続けてきたもののなかで、最も衝撃的なシ-ンだと感じた。自分はプロになりきっていた。何枚かシャッタ-を切ってからもっといい写真を撮るのにハゲワシが翼を広げてくれないかと願った。15分から20分ひたすら待ったが、膝がしびれはじめ諦めた。起き上がると、急に怒りを覚え、ハゲワシを追い払った。少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ-の方へよろよろと歩きだした」
「この後、とてもすさんだ気持ちになり、複雑な感情が沸き起った。フォト・ジャ-ナリストとしてものすごい写真を撮影したと感じていた。この写真はきっと多くの人にインパクトを与えると確信した。写真を撮った瞬間はとても気持ちが高ぶっていたが、少女が歩き始めると、また、あんたんたる気持ちになった。私は祈りたいと思った。神様に話を聞いて欲しかった。このような場所から私を連れ出し、人生を変えてくれるようにと。木陰まで行き、泣き始めた。タバコをふかし、しばらく泣き続けていたことを告白しなくてはならない」

(NHK教育「メディアは今―人命か報道優先か・ピュリツアー賞・写真論争―」94・6・30放送)

参考:ネットジャーナル「Q」 第153回 再考「ハゲワシと少女」の写真(08・11・30記)



2007/06/25

ティモシー・マクヴィー

写真を、現実の痕跡としてではなく、純粋に象徴とみなす行為は、視覚の矮小化である-


視覚的原理主義者、とでもいおうか。いうまでもないが、十年前、アメリカの湾岸戦争の写真にたいするふるまいは、
まさにこうした行為だった。乗り物や人家や橋をコンピューター・ゲームの標的のように破壊していく「スマートな」爆弾、
退却中に殲滅されるイラク軍、バグダッドのアミリヤ防空壕がアメリカの手で容赦なく爆撃されて、家族を失いすすり泣くイラクの女たち。


9月11日、こうしたイメージの波が記憶に環ってくるとともに思い出されるのは、幽霊のごとき存在、中西部生まれの国産テロリスト、
湾岸戦争上がりの退役兵だった男が、米軍攻撃によるイラクの子どもたちの死を引き合いにだしつつ、
自分が殺したオクラホマの子どもたちについて皮肉に「付帯的損害(コラレタル・ダメージ)」だと語ったこと、警察に尋問されて、
米軍の戦争捕虜マニュアルにのっとった答えを返したことである。アメリカでは、この幽霊、ティモシー・
マクヴィーが処刑されてから一年もたっていないことを、誰もあえて口にはしなかった。しかし彼の暴力行為が許しがたいばかりか、
そのニヒリズムが、9・11のニヒリズムと並行関係にあるのは間違いない。両者を関係づけることで、国内よりもむしろグローバルな、
政治行為の文脈が読みとれるだろう。あの時点では、こうして敵と味方のあいだの国境線はぼやけさせるのは、あまりに恐ろしかったのだ。


(『テロルを考える』「グローバルな公共圏?」 スーザン・バック=モース 村山敏勝訳 みすず書房 P38)


補足:ティモシー・マクヴィー

アメリカ合衆国オクラホマ州オクラホマシティで発生し、168名の人命が失われたオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の主犯。
11の連邦法違反により有罪を宣告され、2001年6月11日、連邦刑務所内で死刑が執行された。

(Wikipedia "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%99%E3%82%A4">
ティモシー・マクベイ
より)



写真は神学的なテクノロジーだ

「写真は神学的なテクノロジーだ」とピーター・オズボーンはいっている。写真は指標記号であり、
物質世界の了解可能性を記す痕跡だからだ。この場合痕跡は、
テロリストが送った意図的なメッセージの多様な意味すらすり抜ける余剰となっている。原理主義的な意味ではなく「神学的」なのである。
原理主義は、バイブルであれコーランであれ、テクストに頼り、世界を意図をもった運命として解釈する。このような解釈は、
写真の物質的な痕跡を排除する。写真の意味は、大いなることばによるあらかじめの決定を乗り越えてしまう。
破壊のイメージのトラウマ的な強度はまさにここにある。まるで映画のように見えはするが、そのイメージは意図されずして真実であり、
否定しがたく物質であり現実である。そしてこの現実は、象徴的なメッセージに泥を塗る。


(『テロルを考える』「グローバルな公共圏?」 スーザン・バック=モース 村山敏勝訳 みすず書房 P37)



2007/05/11

ダイアン・アーバスが恐れていた評判

ダイアンが恐れていたのは、自分がただ「奇形者を撮った写真家」として知られるということだった。自分の動機が誤解されるのは、
たまらないことだった。他の写真家以上に覗き趣味があるわけではなかったし、「病的」でもなければ「異常」でもなかった。ただ、社会が
「倒錯」とか「不浄」というレッテルを貼ったものに魅せられた自分の気持ちを正直に表現しただけなのだ。


ダイアンに言わせれば、顔や境遇に興味をひかれた人たちの写真を撮りたかっただけなのである。その頃には、
1959年から書きためてきたノートがかなりの量に達していた。そこには、何百人もの人生の短い挿話-ロマンス、苦悩、災厄-が、
ほとんど判読しがたい文字で走り書きされていた。だが、名前がちゃんと書かれていないので、それが誰だかはわからない。それらの秘密は、
異常者とそうでない人びとが、撮影の過程で彼女を信頼して打ち明けてくれたものだからだ。ダイアンは彼らの話にいつも喜んで耳を傾けた。
彼らの話の内容ばかりでなく、それによってかきたてられる自分の反応にも強い興味をおぼえた。おたがいに言葉をかわし、
ダイアンがカメラのシャッターを押しはじめると、両者を隔てていた溝-人種、年齢、期待、さらには狂気という溝まで-が、
しばしのあいだ消滅してしまったからだ。


秘密を話し、分かちあうことで、ダイアンと被写体とは個人的に結びついたが、これこそがまさしく彼女の仕事の核だった。
何かを秘密にすることは、それを価値あるものにするひとつの方法でもあった。秘密が神秘性を深め、聖なるものへの信仰をうながした。
秘密が小人とユダヤの巨人の満たされぬ渇望をきわだたせ、両者を結びつけたのである。


想像力に富んだ写真家の例にもれず、ダイアンも写真というメディアの限界を感じた-したがって、
そこに物語や秘密を介在させないかぎり、彼女の映像は無意味だった。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P434-P435)



ダイアン・アーバス 近代美術館での観客反応

ダイアンは毎日のように美術館を訪れ、自分の作品のそばを歩きまわって耳をすました。そして、こう言っている。
「人の言うことを聞くのは好きです・・・・・・ひとりの婦人は写真を見てこう言いました。『このダイアン・
アーバスという写真家に会ってみたいものだわ』。つまり、こんなに気味の悪い写真を撮るからには本人も気味の悪い女だろうというわけです。
ご夫妻でやってきて、ご主人のほうが『これはいい写真だ。この人たちを昔から知っているような気がするよ』と言ったところ、奥さんのほうは
『まさか』と叫んだものです」


しかし、やがては耳をそばだてるのにうんざりしてしまった-感想のほとんどが「奇妙だ」、「醜い」、「いやらしい」、「誇張している」
、「ぞっとする」といった蔑みの言葉だったからだ。


友人たちからは、もっと心を強くして人が作品に否定的な意見をはいても平然としていられるようになれと言われた-人が何を言おうと、
それはその人間の問題であって、自分とはかかわりがないと考えるように、と、ジョン・パトナムは、ガートルード・
スタインがピカソをさとしたときの言葉を引用した。「すべての独創的な芸術は最初こそ違和感を与えるが、やがては受け入れられるのだ」と。


それでも、ダイアンはしだいにおちこんでゆき、ほめられても手放しで喜べなくなった。
じぶんとしてはひとりでこつこつ仕事をするのが好ましいと考えていたのだが、いまでは写真界のみならず、一般大衆が彼女の仕事に関心を持ち、
これ以後は何をやっても人に注目されることになったのだ。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P433-P434)



ダイアン・アーバス「ニューズウィーク」誌インタビュー

写真展が始まってからまもなく、ダイアンは『ニューズウィーク』の記者アン・レイの長時間にわたるインタビューに応じた。
ある日の午後、会場を一緒に歩きながら、小人や怒っている子どものポートレートの前に足を止めて考えながら、ダイアンはこう告白した。
「近代美術館で写真展が開けるというのはたいへん嬉しいことです。すばらしい出来映えだと思うし、展示もみごとです・・・・・・でも、
ジョン・シャーコフスキーがいなかったら、わたしは出品しなかったでしょう。彼はすばらしい人です」そして、こうつけ加えた。
「この八年間を費やして-ずいぶん長いこと写真にうちこんできたわけですが-模索し-探求して-それまでやったことのないこと-
子どものときに夢みていたことをやりました-サーカスに通い・・・・・・サイドショーを見物し・・・・・・」。しかし、突っこまれても、
自分のモデルや彼らの境遇については、あたりさわりのないことしか話したがらなかった。


レイの印象では、「ダイアン・アーバスは人の秘密を聞きだすことには自信をもっていた」が、
それだけにその秘密は自分の胸にしまっておかなければならないと考えていた。「わたしは不器用なところで仕事をしています」と、
ダイアンは言った。「それに反して、リチャード・アヴェドンは優雅なところで仕事をしています。それはどういうことかというと、
被写体を前にすると、わたしは相手を動かすかわりに、自分を適用させてしまうのです・・・・・・しかし、
まずい写真を撮るのは大事なことです-まずい写真こそが新しい経験につながるのですから・・・・・・
カメラのフレームをのぞきこむのは万華鏡をのぞくのに似ていて、いくら振ってもきれいに拡がってくれないこともあります・・・・・・
わたしは取り得のない人間です・・・・・・やりたいことが何もできません。実際、やりたいことが何もできないようなのです。ただ、
スパイになるだけ。わたしが撮った人の中にはもう死んだ人もいるし、すっかり変わってしまった人もいます・・・・・・
わたしには要領のいいところがあります・・・・・・利口というわけではないのですが、どんな状況にも自分を合わせていけるのです。
わたしの選ぶ写真のプロジェクトは、どうしてかマタ・ハリのようになります。ただ生命を賭けるのではなく、自分の人格や評判を賭けるのです-
それほどのものがあるわけではありませんが」と言って、ダイアンは笑った。
「人は誰しもひとりの人間にしかなれないという制約のために苦しむのです」


ダイアンはニュージャージー州ロゼールで撮った瓜二つの双生児のポートレートの前で足を止めた。おそらくこれは、
彼女のヴィジョンの核心-正常の中の異常さ、異常の中の正常さ-を、他のどの作品よりも端的に表現していると思われる。「可愛らしい双子で、
まったく正常だと思いました」と、ダイアンはつぶやいた。「でも、社会によっては、双子は異常だとされ、忌み嫌われるのです」


やがて、ダイアンはまた別のポートレートの前で立ち止まった。
髪を漂白した豊満なバーレスク女優が散らかった化粧台の前に坐っている写真である。ダイアンは言った。
「この人はバーレスクがすたれたときのまま変わっていないようです。いつもベティ・グレーブルの髪型をして、
コルクの中底のついたプラットフォーム・シューズをはいているのです」


意識的に歪めて撮るのかと聞かれて、ダイアンはこう答えた。「写真を撮るというプロセス自体に多少の歪みがともないます・・・・・・
でも、わたしは歪めることには興味はありません・・・・・・自分の意図とカメラの機能をあれこれとかんがえざるをえなくなります・・・・・・
カメラはまったく言うことをききません、だから、両方のバランスをとるようにせいいっぱい努力します・・・・・・詩情、アイロニー、幻想、
すべてがそこに組みこまれているのです」


彼女の作品をジョゼフ・コーネルの箱にたとえる人があり、特に安物の美術品に埋まっているアパートの「未亡人」
のポートレートを見てそう言うと聞かされて、ダイアンは喜んだようだった。「わたしはコーネルの秘密が好きです。
小さな箱につまったあの小さな秘密が。それから、スタインバーグとピンターの『ホームカミング』にはとても惹かれます。
あの劇のセリフにはたくさん秘密がありますから」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P431-P433)



マリオン・マジッドのアーバス写真に接した時の心理的体験分析

アーバスの写真に接したときの複雑な心理的体験を、マリオン・マジッドは『アーツ』誌で鋭く分析した。


「身近な人間の寝顔を見てその奇妙さに気づいた者なら知っていることだが、これを見て誰しも一種の罪悪感をおぼえずにはいない。
(アーバスの写真を)見て顔をそむけなければ、その人はかかわりをもったのである。小人や女芸人の視線をとらえたとき、
写真と見る者とのあいだに和解が成立する。あえて見たことによって、一種の浄化作用が働き、われわれはうしろめたい切迫感を解消する。
いわば写真がわれわれに見ることを許すのである。つまるところ、ダイアン・アーバスの芸術の偉大な人間性は、一見、
彼女が侵害したように見えるプライバシーを浄化しているところにあるのだ」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P430-P431)


 



2007/05/10

ダイアン・アーバス兄のハワードの写真論

「人びとのうちで、たとえば旅行者がそうだが、ある風景に接すると反射的に写真を撮ろうとする者は、わたしがみるところ、
人生にたいしてとても防衛的なのだと思う。彼らは死んだ現実を手に入れたがっているようだ。二次元の過去のみが真の(歴史的な)
実在だとでもいうように」


彼はさらに「カメラの第一の嘘」は「カメラは偽らない」とか、「一枚の写真は一千語に値する」という言葉だと語る。
物質文明の所産たるカメラが伝えるものは「『時間と空間におけるひとつの位置』(ホワイトヘッド)に置かれたもの」の外面にすぎない。
「それとは対照的に、言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、それはものそれ自体というより関係の所産なのだ。カメラは、
新聞記者がもとうと哲学者あるいは探偵がもとうと、秘密をさぐり、すべてを露出し、あらわそうとする・・・・・・カメラは知りたがる。
しかし、わたしの仮説が正しいとすれば、それによって得られる知識はつねに不満足なものであることが弁証法的に決定づけられているので、
写真を撮ることに終わりがありえない・・・・・・したがって粗略に扱われ、次の写真を撮るというかりそめの興奮の中で忘れられてしまうのだ」
。ハワードは次のように結んでいる。「写真(妹の芸術)にたいするこの批評は、無垢なものにたいする罪としての著述(わたしの芸術)と、
明確に対比させることを意図したものだ。たとえば、先に『言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、
それはもの自体というより関係の所産なのだ』と言った。これは審美的にはまったく筋の通った考えだと思うが、
もっと卑近な観点からも注目に値する。つまり、写真ではなく言葉と結びつくことによって、
わたしは両親のことをせんさくしてきたという非難からひそかに逃れようとしている。彼らの行ないはいぜんとして『目に見えない隠された』
ものなのだ」


『虚構の人生の日記』が出版されたとき、ダイアンは写真に関するハワードの考察は無視してほかの部分を読んだ。そして、
何よりも驚かされたのは、子どもの頃の記憶がそっくりだということだった。「わたしたちは同じ目録をもっている」と、彼女は語っている。
「ハワードは年のいかない少年の頃に味わった感覚を忘れることができなかった」。それは「(サンレモのアパートの)
エレベーターの前の窓のない廊下」に立ったときのもので「・・・・・・非常に不吉な感じだった。両側の扉は閉まっており、
三番目の引き戸も閉まっていた。それはぎりぎりの孤独をあらわしていた。(学校に行くためにエレベータを待っていたのだろうか?)」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



2007/05/08

年をとることについて、ダイアンアーバスの反応

一時期、ダンス教室に通って太腿の贅肉を取ろうとしたこともある。ひとりの女友だちが一緒だったが、
あるとき更衣室で着替えていたとき、ダイアンは彼女に年をとるのがこわいと打ち明けた。その頃、ダイアンはパームビーチの母親を訪ねた。
ガートルードはあいかわらず元気だった - なお美しく、「積極的で」、煙草を手放さず、買物を楽しみ、カード遊びに興じていた - が、
ダイアンの知っている他の人びとはそうではなかった。弱々しい老夫婦が -歩行器や杖にすがって - 日のあたる歩道をとぼとぼ歩いていた。
うつろな視線は虚空をさまよっていた。話題といえば心臓移植、使いやすい補聴器、動脈硬化や肝臓癌にかかった知人のことばかりだった。


そのような老人たちを目にすると、ダイアンはひどく気持ちが沈んだ。年をとりたくはなかった!
 肉体は老化するのに想像力は衰えないと思うとたまらなかった。自分の想像力が前よりもずっと鋭く、奇抜になっていると感じていたのだ。
あるとき、鏡にうつった美しい友人の顔を見つめながら、ダイアンは「あなたが羨ましいわ」とつぶやいた。年齢はあまり違わないのに、
彼女が皺ひとつなく張りきった滑らかな肌をしているので妬ましかったのである。そのあと、ダンス教室を出て通りを歩くときにも、
ダイアンは何度も羨ましいと繰り返した。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P460)



2007/05/07

ダイアン・アーバスからみたオズワルド夫人

ダイアンは、カメラを向けられる人間につきもののストイックな自己満足も観察しつづけた。その一例は『エスクァイア』
の編集室で撮ったリー・ハーヴェイ・オズワルドの母親のポートレートである。三十分しか時間がなかった。
オズワルド夫人がやってきたのは息子の手紙を雑誌に売るためだった。「息子の遺品を片っ端から売り歩いていました」と、
ダイアンは語っている。「それだけでなく、信じられないくらい誇らしげな顔をしていたのです -
 自分が世界一すごいことをやったというようでした・・・・・・経験をつんだ看護婦みたいにも見えました・・・・・・笑っていたけど -
 どこか不自然でした。何故笑っていたのでしょう? 何がそんなに嬉しかったのかしら? ほとんど話はしませんでした。
向こうは話をしたくてうずうずしていましたが。実際、彼女にとっては最高の瞬間だったのです。
(彼女の息子はケネディ大統領を暗殺したのですが)その様子は息子が何かすばらしいことをやってのけたというようでした。
息子を身籠もってからの四十年間というもの、自分がすべてを裁量してきたみたいで、信じられないほど威厳にみち、
誇らしげな表情を浮かべていました」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P392-P393)



ダイアン・アーバス、アメリカ横断旅行

1963年の晩夏に、ダイアンはマーヴィン・イズラエルにすすめられて、珍しくグレイハウンド・
バスで二週間のアメリカ横断旅行をしている。彼女は期待に胸をふくまらせていた。この旅行によって、祝いごとやページェント、
フェスティバル、コンテスト、家族の集まり、野球の試合などを撮影するというグッゲンハイムのプロジェクトが完成するはずだったからだ。


バスに乗ると、ダイアンはアメリカの広大な風景に目を奪われ、無数の新しい映像から目を離すことができなかった。
まばたきするあいだに、新しい世界を組み立てることができた。実りゆたかな果樹園、どこまでもつづくなだらかな丘、雨ざらしの廃車置場、
ネオンのきらめくモーテルがあった。工場、スラム街、葬儀屋、学校、動物園、ガソリン・スタンドがあり、
クレオパトラばりのどぎつい化粧をし、汚れたホームウェアを着た女たちがいた。あるバーでは、ジョン・F・
ケネディ大統領そっくりさんがよろよろと立ち上がり、ドイツ語で「わたしはベルリンっ子だ!」と叫んでいた。


旅先から、ダイアンは、未知のものを求める初めての冒険をともにしたフィリス・
カートンをはじめ幼な馴染みの友人に簡潔な文面の絵葉書を送り、別の友人にはこう書き送った。「何もかもすばらしく、息をのむばかりです。
わたしは映画の中でよくやるように、腹ばいになって前進しています。ばかげて聞こえるかもしれませんが、
人生がほんとうにメロドラマだということを知りました」


後年、ダイアンはこの全国横断旅行をして恐ろしい目にあったことをほのめかしたが、その経験がどういうものかはついに説明しなかった。
危険は刺激になったし、彼女はいつも危険をおかすことに喜びを感じていた。妥協は嫌いだった。危険だとわかっている相手でも話しかけて、
結果がどうなるかを確かめるのだ。それでいいではないか? 荒々しい洗礼を受けてはじめて「見ること」や「感じること」が可能になる。
カメラを盾としていればほんとうに悪いことなど起こりはしない、とダイアンは固く信じていたのだ。恐ろしいのは自分の内面だけだ、
と彼女は友人にもらしたことがある。外にあるものが自分に害を及ぼすはずはないのだ、と。


のちに、ドゥーンはこの旅行について知っているのはこれだけだと断って、次のように書いている。
アリゾナで臨時停車したバスに乗り遅れて、彼女の母親は「わっと泣きだし」、どうしてもニューヨークに戻り、
八歳になる娘のエイミーをサマー・キャンプへ迎えに行かなければならないと言った。「それを見て気の毒に思った人が、自分の車に乗せてくれ、
フルスピードでとばしてバスをつかまえた」。帰宅したダイアンは、この旅行は「力だめしだったが、なんとか切り抜けたので、
もうどこへでも行けることがわかった」と言った。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P380-P382)



ダイアン・アーバスにおける性

「ダイアン・アーバスほどあけすけにセックスを語る人はいなかった」と、フレデリック・エバースタットは言う。
「男にベッドを誘われて断ったことは一度もないと言っていた。そんな話を、ビスケットのつくり方でも説明するようにさらりと口にするのだ」


また故ジョン・パトナムはこう語ったことがある。「ダイアンによると、できるだけさまざまな人と性関係をもち、
肉体的にも感情的にも心理的にも真実の経験を重ねたいということだった。人間の殻を打ち破る最も手っとり早く確実な方法は、
性行為だとも言っていた。そういう経験を、ダイアンは『冒険』 - あるいは『イベント』 - と称していたが、実際、
彼女のすることすべてが『冒険』だった。自分の生活をそんなふうに語ることで、自分を高揚させ、正当化していたのだろう」


道徳の入りこむ余地はなかった。ダイアンに言わせれば、人間は男女を問わずに自由に、
できるだけ多くの変化にとんだ性関係をもつべきだった。しかし、そういった愛人たちから感情的に満たされるかどうかということになると、
話は別である。ダイアンは性のテクニックについては話すことができた - 硝酸アミル(オーガズムを長びかせるとされるドラッグ)
を使うとか、愛人のひとりからクライマックスに導かれ、エヴェレストの頂上に登ったような気分になるなどと。だが、
新たに長つづきする恋愛関係を保てるかどうか、あるいはそれを望むかどうか - 誰かに本当に打ちこむこと - については、
決して語らなかった。むしろ、もはや愛情など信じていないし、いわんや感情など問題ではないと言いきることが多くなった。


ダイアンの喜びは、多くの場合、いまでは自分が誘惑する側だということだった。写真の世界で成功するにつれて、
彼女はセックスの面でも積極的になった。カメラが彼女の身を守ってくれる盾であり、カメラをもっていれば禁断の場所に近づけるので、
彼女はそれを利用したのである。


ダイアンの話を聞かされた女友だちの中には、ダイアンが「安っぽいスリル」を求めているだけだと考える者もいた。
「彼女に自分の関係した男の話をされるとうんざりした」と、ある女性は語り、こうつけ加えている。「ダイアンの『冒険』
があんなに次元の低いものだとわかってがっかりしました。文字どおり流されているだけなのですから」。しかし、
中にはダイアンの勇気をほめる者もいた。ダイアンが「性交を通じて解放を求めている」(性の喜びを肯定する女性は政治的存在なのだ)
と信じたのである。つまり、ダイアンは性的要求を率直に認めるばかりでなく、実際に行動することによって、タブーを打ち破っているのだ、と。
(タブーを破ることにたいするダイアンの態度は、親しい友人たちによく知られていた。
自慰や生理の出血を誇らしく語ったのはダイアンが最初だったし、黒人に惹かれ、既婚者に欲望を感じるとも言った。)
ダイアンのためにヌードでモデルになったことのある若い画家、キャッシー・アイゼンはこう語っている。「わたしたちの世代の女性にとって、
ダイアン・アーバスはヒロインでした。でも、ダイアンは母親になる前にああいう奔放な生き方をすべきだったのです。
彼女の娘たちがどう感じているのか気になります」


だが、ダイアンは自分を革命的だとは思わなかったし、ましてや女権拡張論者だなどと考えたこともなかった。男性の愛人にたいしては、
自分の性体験を自慢しながらも、受け身の女の役割を演じつづけた。「ダイアンは二つの顔をもっていた」と、ある男性は語っている。「つまり、
性の犠牲者と貪欲な女という二つの面だった。わたしが彼女を求めなかったら、自分はだめになってしまったろうと言ったことがある」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P360-P362)



2007/05/06

ダイアン・アーバスに関する二人の証言

それに反して、ダイアンは仕事で金を得ることに複雑な感情を抱いていた。金をかせぐことを、いつも恥じていたのだ。「写真を売ると、
すぐにいい写真ではなかったという気がしてしまう」と語ったこともある。だが、こんな気持ちも、
新たな注文を引き受ける妨げにはならなかった。


『エスクァイア』のロバート・ベントンからは多くの依頼があり、ベントンに言わせると「ほぼ月に一件」の仕事があった。
こうしてダイアンは、奇抜な模様の敷物の上で子犬と踊っているストリッパーのブレーズ・スター、ジェーン・マンスフィールド母娘、
都市計画専門家のジェーン・ジェーコブズと息子、無神論者のマダリン・マレーを撮った。


「ダイアンは最新のコンタクト・シートをもって美術部にやってきたが、わたしはいつも驚かされた」と、ベントンは語る。「というより、
つねにこちらの予想をくつがえされたのだ」。乳房にスパンコールをつけたブレーズ・スターも、中流階級の理想のカップル、
オジーとハリエットも、でっぷり肥って誇らしげな母親となったジェーン・マンスフィールドも、
ダイアンが撮るとニューヨークの奇形者たちと同じような緊張感をはらんでいたのである。そのうちにベントンは「われわれ(写真を見る者)
も彼ら(撮影された人びと)とまったく変わりがない」ことに気がついたという。「それがダイアンならではの独特のスタイルだった -
 一見したところは単純だが、非凡なアプローチによってすべての対象と取り組み、相手が何者であろうと態度は変わらなかった。そして、
奇形者でも普通の人間でも、ある面では同じ存在だということを示す。ダイアンの作品の中では『奇形者』とか『健常者』
という言葉は意味がなくなってしまう。ダイアンにとってどちらも同じだし、相手によって手心を加えることもなかったからだ」


デヴィッド・ニューマン(ベントンと組んで仕事をしたことがある)もこう語っている。
「ベントンとサリーの結婚式の写真を撮ったときも、ダイアンはまったく手心を加えなかった。
あの写真はいまでもベントンの家の居間に飾ってあるが、じつにセンセーショナルな写真だ。しょせんは月並みだと思われる儀式を、
ダイアンは細部にいたるまで克明に記録している - 儀式こそ、ダイアンが執着していたものではなかったろうか?
 ダイアンは進行順序に従ってすべてを撮影し、自分もその一部になりきっていた。サリーが母親に手伝ってもらってウェディング・
ドレスを着ているそばで、ダイアンはシャッターを切りつづけていた。また、式の直後に、
リムジンの床に這いつくばって狂ったようにシャッターを切っていたのも覚えている」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P348-P349)



ニール・セルカークの証言

ダイアンの死後、彼女の焼付けをしたニール・セルカークによれば、「ダイアンはほとんどリリースを取れなかった」という。
ダイアンが生きていたら、彼女の作品をこれほど広範に展示するのは難しかったことだろう。モデルの多くが、
ダイアンの表現に強い不満を抱いていたからだ。しかし、セルカークが言うように「本人が死んでしまったので、
彼らはどうしようもないと思った」のである。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P441脚注)



写真のポストモダニズム

プリンスやシャーマンの作品に採用されているアプロプリエーションという手法を、最もラディカルな方法で提示したのはシェリー・
レヴィン(1947~)である。彼女は1979年から82年の間に、エドワード・ウェストンやウォーカー・エヴァンズ、エリオット・
ポーターといったモダニズム写真の巨匠として評価されている写真家が撮影した写真を複写し、
その写真を自らの作品として展示する展覧会をおこなった(法的な観点から見るならば、
このような手法は写真家の著作権を侵害する違法行為である)。このシリーズ作品の一つである「無題-エドワード・ウェストンに倣って」
(1981年)という作品は、ウェストンが1925年に息子のニールを撮影した写真を流用したものである。ちなみにこの作品は、
シャーカフスキーの『写真を見ること』でも取り上げられている。このカタログでシャーカフスキーは
「ウェストンほど天賦の目と直感に恵まれている写真家はいない」のであり、「ウェストンの視覚は、
日常のなかで体験される物事を有機的な彫刻へと変容させている」と述べている。さらにこの写真について、
「クローズアップで捉えられた幼い男の子の胴体は、彫刻のような美しい線を描いている」と高く評価している。


このように芸術作品として高く評価されている写真に対して、
レヴィンがおこなったアプロプリエーションは次のような考えに基づいている。
ウェストンが息子のニールを撮影したネガからは数多くのプリントが制作されている。つまり写真は同じソース(原型)
から制作されているのだから、どのプリントもオリジナルとは考えられない。また、作品の元になったネガも「オリジナル」
という地位に位置づけられるものではない。「オリジナル」と呼ばれうるのは、撮影されたニールの体でもない。なぜなら、
アプロプリエーションをおこなう側から見るならば、その対象となっているのは、(当然のことながらニールの体ではなく)
ウェストンが制作した作品だからである。このように捉えてみるならば、ウェストンの写真には「オリジナル」は存在しない。つまり、
レヴィンは複写という手法によって、写真作品における「オリジナルの不在」を提示したのであり、彼女の主張は、
芸術としての写真の価値を擁護するシャーカフスキーのそれとは対極的なものだったと言えるだろう。


(「写真を読む視点」 小林美香)



2007/05/05

ダイアンアーバスとメイ・ウェスト

ダイアンは午後早くに着いた。ブラインドをおろした部屋には灯がともり、
ウェストは泳ぐような奇妙な足どりで影の中から姿をあらわしたが、いかにも傍若無人な態度だった。そして、シャッターの音を伴奏に、
健康食品や浣腸やセックスの美容上の効果などについてしゃべったが、それはいずれも若さを保つための努力だった。「日にあたっちゃ駄目よ!」
と、ウェストはしゃがれ声で警告した。「太陽の光にあたるとしわができる!」そう言って、
ウェストはもう何年も日中はアパートから出たことがないとつけ加えた。「太陽は大嫌いだわ」。ダイアンはそれに答えて、
自分もあまり太陽は好きではない。太陽はぎらぎらしすぎて神経にさわり、いらいらするし、まぶしくて目が開けられないからだと言った。
二人は、闇のほうがずっと好きだということで意見が一致した。


撮影がすむと、ウェストはダイアンに百ドル札を渡し、「ありがとう、ハニー」と言って、衣ずれの音とともに出ていった。
ダイアンはこれが習慣なのだろうと思った -1930年代に、
ウェストは映画のセットでスチール写真を撮るカメラマンにチップをはずんでいたのである。しかし、
ダイアンはお会いできてとても嬉しかったというメモをそえて、お金は返した。ところが、1965年1月号の『ショー』誌に、
ダイアンの皮肉な文章のついた写真が掲載されると、ウェストは激怒して弁護士を雇い、発行人のハンティントン・
ハートフォードに抗議する手紙を書かせた。「不都合かつ残酷で、まったく美しくない」ということだった。ダイアンは度を失った。
「モデルの中に自分が発見したものを相手が気に入らないと、彼女は本当に驚いた」と、チャーリー・レノルズは語っている。しかし、
そこにはダイアンがとらえた外面的なイメージ以上の何かがあって、それがつねに相手を困惑させたのだ。この場合、ウェストは -
肉体の曲線美を誇示しているが- 賞賛すべき女性には見えなかった。そして、
彼女の寝室の調度はハリウッドならではの現実のイミテーションでしかなかったのである。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



二人のダイアン・アーバス評

まさにこの頃 -1962年から64年- こそ、ダイアンの生涯で最も創造力とエネルギーのあふれていた時期だった。


ようやくローライにも馴れたダイアンが、それによって撮りはじめ、
1962年に撮り終えた一連の写真の中に大人の扮装をした子どもたちの写真がある。ダンス・コンテストにのぞむジンジャー・
ロジャースとフレッド・アステアのようなポーズをとる子どもたちのほかに、
おもちゃの手榴弾をもって難しい顔をしている少年を撮った有名な写真があり、これはセントラル・パークで撮影したものだ。


当時ダイアンは自分の作品をひたむきに撮りつづけるばかりでなく、『ショー』をはじめとするいくつかの雑誌の仕事もしていた。
もっとも、『ショー』のアート・ディレクターのヘンリー・
ウルフはダイアンの荒削りで生々しい作品にかならずしも満足していたわけではなかった。「グロリア・
スタイネムの記事につける写真をオハイオ州の映画館で撮影してもらったが、使えなかった -出来がよくなかったのだ- それに、
人間針刺しのポートレートも掲載しなかった。ダイアンはなんとかしてくれと言ったが」。ウルフは洗練された紳士で、その後ジェーン・
トレイヒー -のちに写真家となる- とともに広告代理店をつくって成功するが、彼はこう打ち明けている。「ダイアンを見ているといつも、
自分が人生を楽しんでいることに罪悪感をおぼえたものだ。ある晴れた土曜日のこと、重そうなカメラをぶら下げたダイアンと出会って、
『こんなすばらしい天気に写真かね』と声をかけると『不幸な人たちを探しにいくの』という返事だった。わたしはとてもついていけなかった」


しかし、1962年に『ショー』の別の記事でダイアンと一緒に仕事をしたアラン・レヴィの印象はまったく違っていて、彼は『アート・
ニューズ』にこう書いている。「ダイアンから自己紹介の電話をもらったが、笑いながらあなたの仕事をする写真家『のダイアン・アーバス』
ですと言った・・・・・・会ってみると、ほっそりとした小柄な女性で、黒いセーターに茶色の革のスカートという服装で、
十代の娘のようだった」。二人は組んで、ナショナル・シューズのテレビ・コマーシャルづくりをルポした。「雇われ仕事で、ディーアン -
誰もが彼女の名前をそう発音していた- と一緒だったこのときほど楽しい思いをしたことはなかった


(中略)


二人は一度だけ衝突した、とレヴィは書いている。『ショー』の仕事が終わったとき、レヴィは結果に満足したが、
ダイアンはそうではなく、写真の下に自分の名前が出るのをいやがった。(写真は小さく、つづき漫画のようなレイアウトだった。)
「それに反して、当時のわたしは、記事に二人の名前が並ぶことを何よりも望んでいた」と、レヴィは言う。「それで、
なんとか説得しようと思い、たしか一通だけ感情的な手紙を書いて、きみはぼくを傷つけていると文句を言った。彼女から電話があって、
名前を出してもいいと言われたのは締切日の前日だった」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスの裸の人びと

ダイアンの「裸の人びと」は、版元が見つからないために日の目を見なかったが、ヌーディスト・キャンプでの撮影は、
ダイアンにとってきわめて刺激的な経緯となった。撮られる相手にすっかり協力したからである。そもそも撮影の許可を得るために。
自分も裸になる必要にせまられたわけだが、これは彼女にとっても撮られる人びとにとっても覚悟のいるところだった。
「十分ぐらいは変な感じでしたが、それを過ぎれば何でもありません」と、ダイアンは言った。「ヌーディスト・キャンプは、
わたしにとってすごい素材でした」。ダイアンはヌーディスト撮影の体験をマーヴィン・イズラエルや娘たちや友人に繰り返し語ることによって、
その印象を整理していった。最初の印象は「幻覚の世界に入りこんだようで、しかもその幻覚が誰のものともわからない感じでした。最初は、
ほんとうにめんくらいました・・・・・・あんなに大勢の男の人が裸でいるのを見たことはなかったのです。
最初に見かけた男の人は芝刈りをしていました」


ダイアンはヌーディスト・キャンプについて多くの感想を抱いた。「あそこには社会の全階層が網羅されています。テント暮らしの人や
(ヌーディストになる人の大半は安あがりだからだということだった)トレーラーハウスの住人から、一戸 -それも大邸宅と言えそうな-
 を構えている人まで・・・・・・これは社会全体の縮図であり、そこでは誰もが平等だとされます -
ニュージャージーにはあちこちにヌーディスト・キャンプがありますが、それはニューヨーク州ではヌードがご法度だからです」


ダイアンは別の現象 -都市に住む、「かけす」と呼ばれるヌーディスト -についても語っている。この種の人びとはヌーディスト・
キャンプには参加しない -市内のアパートに住んで、帰宅すると衣服のすべてを脱ぎ捨てるのである。


ダイアンはあるとき、キャンプで刑務所の所長と会ったことがある。シンシン刑務所に勤めるその男は、
浜辺を散歩するヌーディストたちを何時間も眺めては、彼らが身につけているアクセサリーから職業をあてようとしていた。
ヌーディストたちは全裸ではあったが、男はパイプをくわえ、靴と靴下をはいていたし、煙草を靴下にはさみこんでいた。
また女性は帽子をかぶり、イヤリングやネックレスをつけ、ハイヒールやサンダルをはいていた。「ほんとうにいやらしい感じだった」
とダイアンは語っている。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)