「ダイアン・アーバスほどあけすけにセックスを語る人はいなかった」と、フレデリック・エバースタットは言う。
「男にベッドを誘われて断ったことは一度もないと言っていた。そんな話を、ビスケットのつくり方でも説明するようにさらりと口にするのだ」
また故ジョン・パトナムはこう語ったことがある。「ダイアンによると、できるだけさまざまな人と性関係をもち、
肉体的にも感情的にも心理的にも真実の経験を重ねたいということだった。人間の殻を打ち破る最も手っとり早く確実な方法は、
性行為だとも言っていた。そういう経験を、ダイアンは『冒険』 - あるいは『イベント』 - と称していたが、実際、
彼女のすることすべてが『冒険』だった。自分の生活をそんなふうに語ることで、自分を高揚させ、正当化していたのだろう」
道徳の入りこむ余地はなかった。ダイアンに言わせれば、人間は男女を問わずに自由に、
できるだけ多くの変化にとんだ性関係をもつべきだった。しかし、そういった愛人たちから感情的に満たされるかどうかということになると、
話は別である。ダイアンは性のテクニックについては話すことができた - 硝酸アミル(オーガズムを長びかせるとされるドラッグ)
を使うとか、愛人のひとりからクライマックスに導かれ、エヴェレストの頂上に登ったような気分になるなどと。だが、
新たに長つづきする恋愛関係を保てるかどうか、あるいはそれを望むかどうか - 誰かに本当に打ちこむこと - については、
決して語らなかった。むしろ、もはや愛情など信じていないし、いわんや感情など問題ではないと言いきることが多くなった。
ダイアンの喜びは、多くの場合、いまでは自分が誘惑する側だということだった。写真の世界で成功するにつれて、
彼女はセックスの面でも積極的になった。カメラが彼女の身を守ってくれる盾であり、カメラをもっていれば禁断の場所に近づけるので、
彼女はそれを利用したのである。
ダイアンの話を聞かされた女友だちの中には、ダイアンが「安っぽいスリル」を求めているだけだと考える者もいた。
「彼女に自分の関係した男の話をされるとうんざりした」と、ある女性は語り、こうつけ加えている。「ダイアンの『冒険』
があんなに次元の低いものだとわかってがっかりしました。文字どおり流されているだけなのですから」。しかし、
中にはダイアンの勇気をほめる者もいた。ダイアンが「性交を通じて解放を求めている」(性の喜びを肯定する女性は政治的存在なのだ)
と信じたのである。つまり、ダイアンは性的要求を率直に認めるばかりでなく、実際に行動することによって、タブーを打ち破っているのだ、と。
(タブーを破ることにたいするダイアンの態度は、親しい友人たちによく知られていた。
自慰や生理の出血を誇らしく語ったのはダイアンが最初だったし、黒人に惹かれ、既婚者に欲望を感じるとも言った。)
ダイアンのためにヌードでモデルになったことのある若い画家、キャッシー・アイゼンはこう語っている。「わたしたちの世代の女性にとって、
ダイアン・アーバスはヒロインでした。でも、ダイアンは母親になる前にああいう奔放な生き方をすべきだったのです。
彼女の娘たちがどう感じているのか気になります」
だが、ダイアンは自分を革命的だとは思わなかったし、ましてや女権拡張論者だなどと考えたこともなかった。男性の愛人にたいしては、
自分の性体験を自慢しながらも、受け身の女の役割を演じつづけた。「ダイアンは二つの顔をもっていた」と、ある男性は語っている。「つまり、
性の犠牲者と貪欲な女という二つの面だった。わたしが彼女を求めなかったら、自分はだめになってしまったろうと言ったことがある」
(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P360-P362)