テレビ番組や映画で馴染みのアメリカ流弁護士の活動、つまり、陪審員を説得するさまざまなレトリックや駆け引き、
口先で白黒のすべてが決定されるあり様は、現代版ソフィストの痛快活劇といってよい。
日本では司法制度の違いから同様の自由な活動は見られないが、ことジャーナリズムに関しては、アメリカと大差ないと言える。
ワイドショーやパフォーマンスに満ち溢れた討論番組は、言論の効果や印象を最大限に追求し、人々への迎合で世論を煽りながら、
それがもたらす教育影響に無反省であり続ける。その底辺には、身もふたもない保守的な価値観と権威への迎合が、またその反面、
嫉妬や憎悪や好奇心といった感情を煽る態度が蔓延している。そういった番組に「知識人」の名で登場し、
無責任な言説を垂れ流す学者や評論家たちも、原題のソフィストと言えるのかも知れない。
また実質的な政策よりも、マスメディアをつうじた派手な言動によって世論や人気を煽る政治家たちも、その延長線上にいる。
口下手ではあるが根回しの特異な旧来の日本型政治家(といっても、戦前には尾崎行雄のような雄弁な政治家が稀ではなかったことも想起したい)
に代わって、テレビの討論番組で瞬時に機転のきく言葉を発して聴衆の印象を勝ち取ることに長けた政治家が、
たしかに増えているように見受けられる。
大学の頂点とする学問・高等教育機関は「アカデミズム」と呼ばれ、プラトンの学園「アカデメイア」の名を受け継いでいる。しかし、
それは、授業料を取って学生に知識を与える教育産業へと傾斜しており、実用性や効率性を強調する昨今の風潮は、
ソフィスト的な教育を助長させているかのようである。受験という具体的目標のために学生に知識を与える予備校なども、それと相補的に見える。
私たちがソフィストの負の側面としてイメージする現象は、現代の日本社会でもいたるところに見られる。その意味では、ソフィストは、
現在の私たちの生にとっても、きわめてリアルな問題である。
にもかかわらず、私たちはプラトンのきびしい批判もソフィストたちの妖しい力も、共に忘却しきってしまっている。ソフィストは、
私たちが呼吸する空気のような自明さをもって、私たちの回りに、そして私たち自身の内に棲みついているのかもしれない。
(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)