共和国においては、各々の村にふたつの重要な場所がある。ひとつは、選挙で選ばれた代表者が公共の事柄について議論をする役場であり、
もうひとつは教師が子供たちに教師なしで考えること、すなわち自律を教える学校である。いや、もう少し分かりやすいイメージを使えば、
国民議会とソルボンヌ大学ということになろうか。デモクラシーにおけるふたつの重要な場所は、寺院とドラッグストア、
あるいはカテドラルと証券取引所である。
共和国は、子供のなかに人間を見る。そして、たとえ子供を押さえ込んでしまう危険をおかしても、
子供のなかの成長すべきものに対して働きかける。デモクラシーは人間のなかの子供に気に入られようとする。
大人として扱うと退屈させてしまうのではないかと恐れるからだ。いかなる子供もそれ自体として愛らしいということなどない、
と共和主義者は言う。彼は子供が精神的に向上することを欲するからである。これに対して、
人間というものは突きつめれば大きな子供なのだから、みな愛すべき存在なのだ、とデモクラットは結論づける。もう少しはっきり言えば、
共和国は子供が嫌いで、デモクラシーは大人に敬意を払わないのである。
共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、
それは何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある。ところが、デモクラシーにおいては、反対に、
学校が社会に似ていなければならないのである。デモクラシーにおける学校のもっとも重要な任務とは、
労働市場に見合った生産者を養成することなのだ。その場合、学校は「社会に対して開かれて」いることが要求されるし、
また教育は各人が好きなように選ぶことができる「アラカルトな教育」でなければならない。共和国においては、学校は囲い壁の背後にある、
固有の規則を持った閉ざされた場所以外のなにものでもない。この社会から閉ざされているという性質がなければ、学校は、社会的、政治的、
経済的、宗教的な力の矛盾した作用に対して、独立性(ライシテ=非宗教性の類似語だ)を保つことができないのである。
学校についてこんな言い方をするのは、人間を彼の置かれた環境から解放しようとする学校と、逆に、
その環境によりよいかたちで送り込もうとする学校は、名前は同じでもまったく別物だからである。
共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出すと言われ、デモクラシーの学校は競争力のある馬鹿者を育成しているというわけだ。
これは両陣営による意地の悪い批判の応酬である。
共和国は学校が好きだ(そればかりか学校を讃える)。デモクラシーは学校を恐れる(そしてないがしろにする)。しかし、
両者がいちばん愛し恐れるもの、それは依然として学校における哲学教育である。
ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別するもっとも確かな方法は、哲学が高等学校で、
すなわち大学入学以前に教えられているかどうかを調べることである。
ヨーロッパのもっともデモクラティックな地域であるプロテスタント文化圏の北ヨーロッパでは、
高校最終学年で哲学教育の代わりに宗教教育がおこなわれている。デモクラシーの教育システムにおいては、
哲学はやってもやらなくてもいい情操教育の補完程度に考えられており、牧師と詩人が分担して受け持っている。他方、共和制では、
哲学は必修科目である。そして哲学教育の目的は何かといえば、それはさまざまな理論を提示することではなく、
生徒たちの心に問題意識を発生させることにある。共和制において、知識人を民衆に有機的に結びつけているのは、
生徒の社会的出自がいかなるものであろうと、学校なのであり、そのなかでもとりわけ哲学の授業なのである。
(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)
(補足1:カテドラルとはカトリック教区のこと)
(補足2:本文は1989年にフランスでおきた「イスラム・スカーフ事件」論争におけるドゥプレの意見を提示する形をとっている、
共和制において教育は重要であるのは間違いないが、底流に本事件があるのも忘れてはならないと思う)
(補足3:ライシテ(非宗教性)とは、日本で言うところの「政教分離」のこと。フランス憲法の第一条に示されている根幹にある原則。無論、
ライシテは宗教弾圧ではなく、諸々の宗教の共存を可能にする仕組み。学校では教師といえども宗教的表示する印「たとえば十字架」
を身につけることはない。)