1963年の晩夏に、ダイアンはマーヴィン・イズラエルにすすめられて、珍しくグレイハウンド・
バスで二週間のアメリカ横断旅行をしている。彼女は期待に胸をふくまらせていた。この旅行によって、祝いごとやページェント、
フェスティバル、コンテスト、家族の集まり、野球の試合などを撮影するというグッゲンハイムのプロジェクトが完成するはずだったからだ。
バスに乗ると、ダイアンはアメリカの広大な風景に目を奪われ、無数の新しい映像から目を離すことができなかった。
まばたきするあいだに、新しい世界を組み立てることができた。実りゆたかな果樹園、どこまでもつづくなだらかな丘、雨ざらしの廃車置場、
ネオンのきらめくモーテルがあった。工場、スラム街、葬儀屋、学校、動物園、ガソリン・スタンドがあり、
クレオパトラばりのどぎつい化粧をし、汚れたホームウェアを着た女たちがいた。あるバーでは、ジョン・F・
ケネディ大統領そっくりさんがよろよろと立ち上がり、ドイツ語で「わたしはベルリンっ子だ!」と叫んでいた。
旅先から、ダイアンは、未知のものを求める初めての冒険をともにしたフィリス・
カートンをはじめ幼な馴染みの友人に簡潔な文面の絵葉書を送り、別の友人にはこう書き送った。「何もかもすばらしく、息をのむばかりです。
わたしは映画の中でよくやるように、腹ばいになって前進しています。ばかげて聞こえるかもしれませんが、
人生がほんとうにメロドラマだということを知りました」
後年、ダイアンはこの全国横断旅行をして恐ろしい目にあったことをほのめかしたが、その経験がどういうものかはついに説明しなかった。
危険は刺激になったし、彼女はいつも危険をおかすことに喜びを感じていた。妥協は嫌いだった。危険だとわかっている相手でも話しかけて、
結果がどうなるかを確かめるのだ。それでいいではないか? 荒々しい洗礼を受けてはじめて「見ること」や「感じること」が可能になる。
カメラを盾としていればほんとうに悪いことなど起こりはしない、とダイアンは固く信じていたのだ。恐ろしいのは自分の内面だけだ、
と彼女は友人にもらしたことがある。外にあるものが自分に害を及ぼすはずはないのだ、と。
のちに、ドゥーンはこの旅行について知っているのはこれだけだと断って、次のように書いている。
アリゾナで臨時停車したバスに乗り遅れて、彼女の母親は「わっと泣きだし」、どうしてもニューヨークに戻り、
八歳になる娘のエイミーをサマー・キャンプへ迎えに行かなければならないと言った。「それを見て気の毒に思った人が、自分の車に乗せてくれ、
フルスピードでとばしてバスをつかまえた」。帰宅したダイアンは、この旅行は「力だめしだったが、なんとか切り抜けたので、
もうどこへでも行けることがわかった」と言った。
(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P380-P382)