本書で論じていくように、ソフィストは、つねに哲学そのものの可能性への挑戦として、私たち自身に問いを突きつける存在である。
私たちはソフィストと対決することによってのみ、哲学の可能性を手にすることができる。とすると、ソフィストを忘却してきた哲学の歴史こそ、
問い直されるべきものではないか。ソフィストを消し去ったこの二千年にも及ぶ哲学史は、その実、哲学が成立していない状況、「哲学」
が名のみさまよう舞台であったのかもしれない。それとも、「ソフィスト」という職業が消えても、哲学者の営みにおいては、
実にソフィストは変わらず重要な役割を演じ続けてきたのであろうか。
十九世紀半ばに、ドイツの厭世哲学者ショーペンハウアーは、「大学の哲学について」という論文で、同時代のフィヒテ、シェリング、
そしてヘーゲルを、似非哲学者、ソフィストとして、徹底的に非難した。そこでは、真理の探究に従事する本当の哲学者に対して、
金銭を稼ぐために哲学に従事する学者が対比され、プラトンの対話篇『プロタゴラス』でのソフィスト批判が、直接に参照されている。
ショーペンハウアーは、自らの哲学の基礎をプラトンとカントに求め、当時流行のヘーゲル哲学に対抗したことで有名である。「ソフィスト」
という古代の名称は、同時代のライヴァルを攻撃するレッテルとして、かろうじて姿を留めていた。
ソクラテスが自らの生において、そして、プラトンが対話編において示した「哲学者」とは、人々の生を吟味に晒し、
社会のあり方を批判する危険な存在であった。ソクラテスは、彼の対話を交わした多くの人々の反発を惹き起こし、
やがて裁判にかけられ刑死する。しかし、やがて「哲学」が学問や職業として確立され社会に定着すると、その存在は自明視されてしまう。
当初哲学が突きつけた厳しい問いは、専門家集団の内輪のパズルへと回収されて、象牙の塔のなかの遊戯と化してしまう。現在「哲学者」とは、
大学で専門的な問題を論じ、過去の思想を教えることで給与をもらったり、哲学書と称する書物を世に出すことで社会に権威をもつ職業人
(プロフェッショナル)を意味している。
だが、自明の栄誉をもって認知されている時、哲学はむしろ死に瀕しているのかもしれない。デカルトの「魔物」やカントが対決した
「懐疑論」は、哲学そのものの可能性を根源から問い直すことで、真摯な思索の途を切り拓いていった。私はそのような事態、すなわち、
哲学の成立と可能性そのものを、ギリシアという原点に立ちもどって捉え直したい。そのために、「ソフィストとは誰か」
という問いを考えたいのである。
もし私たちがソフィストの問題を忘却しきっているとしたら、その時、私たちは真に哲学に与ってはいない、というべきであろう。他方で、
ソフィストとは、そのような忘却の暗闇に逃げ込むことを本性とした存在である(プラトン『ソフィスト』参照)。
ソフィストは哲学者と区別された存在でないと思わせることが、ソフィストの本領なのである。その意味で、ソフィストの忘却こそが、
ソフィストによる哲学への挑戦の成功ともいえる。そのソフィストを明るみ引き出し、それと正面から対決していくことにより、
私たちははじめて、哲学する者となり得るのではないか。
(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)