早野透(はやのとおる):右翼はなぜテロに走るのか、鈴木さん、お願いします。
鈴木邦男(すずきくにお):私も十四、五年前まで過激な運動をしていましたから、放火をする人の心情も少しはわかるのです。
それは発言の場がないので、何か事件を起こせば、少しは動機や志も取り上げてくれるだろうということなんです。絶望感なんです。
それからいま、どんどん社会が右傾化していますから、一部にはソ連も崩壊したし、
自分たちの望むような時代になったから右翼を止めようという人もいるんですが、一方で昔から右翼をやってきた人たちの中には、
最近ちょっとでてきた保守派の文化人や評論家のほうが過激な物言いをするので、自分たちは乗り越えられてしまったのではないかという焦り、
不安を感じる人もいる。そうすると、俺たちには言論の場がないから身体でやるしかない、ということになる。侠気の世界ですからね。
加藤さんがおっしゃられたように、テロリズムが言論とまったく別の世界で起こっているかといえば、そうではない。
言論がテロを焚きつけているんです。
右翼の場合、大体、二次情報、三次情報を読んで「けしからん、こいつは国賊だ」となることが多い。それは、『諸君』とか『正論!』とか
『Will』を読んでということもあるし、あるいは、私は最近新聞のオピニオン雑誌の広告などを見て「どこかで見た風景だな」
と感じたのですが、あれは全共闘時代の立て看と同じなんです。「××をやっつけよう」とか「××粉砕」とか、激越に、
やっつけるべき敵を示している。
いまは「ちょっと待てよ」という雰囲気がないのです。「そこへ行くと危ないんじゃないか」とか「ナショナリズムは暴走するんじゃないか」
とか、ゆっくり考えたり話したりではなくて、パッと決め付けたほうが勝ってしまう。
私はこういう問答時代の時代にあって、大事なことは、どんな危険な、偏向した考えでも、過違ったと思える考えでも、
一度言論の場に上げるということだと思います。そしてそれを言論の場で批判する。
私が変わったのも言論の場を与えられたからです。言論の場というのは非常に厳しいものだと思いました。怖いと思った。
しかしそこからやらなければ一般の人にも伝わらないし、ただの犯罪者で終わる、それではダメだと思ったのです。
(「世界」 岩波書店 2007年1月号「いま「言論」の自由を考える」)