ダイアンはアヴェドンの人間離れしたエネルギーと絢爛たる才気に舌をまいた。
アヴェドンはローマの不気味な地下室でも精神病院でも同じように情熱をこめて撮ることができた。アヴェドンがその頃手がけていたのは、
動いているファッションだった。衣裳もヘアもメークも霧のようにかすんで豪華な雰囲気をかもしだすものである。
「リチャードはいつも自ら課題を設定して写真を撮り、それを解決していた」と、ダイアンは評している。
アヴェドンが最もはりきって取り組んだのは名士のポートレートだった。「有名人の顔は極端な状況とマッチする・・・・・・
彼らの顔をつくったのがそれぞれの業績だからだ」と、アヴェドンは説明している。早くも1948年に(その年から『シアター・アーツ』
誌の編集スタッフとして仕事をはじめたが、それは一介のファッション写真家に甘んじたくなかったからだ)、
彼はほとんど恭々しさの感じられる態度で『南太平洋』のメアリー・マーティンや『ミスタア・ロバーツ』のヘンリー・
フォンダといったスターたち、自分のエージェントのオードリー・ウッドの隣でよくポーズをとっているテネシー・
ウィリアムズの柔和なポートレートを撮っている。1958年頃には、ポートレートの範囲がショー・ビジネスの世界から芸術全般へとひろがり、
アヴェドンはいっそう大胆になった。
詩人のエズラ・パウンドが髪をふり乱してレンズに向かって何ごとか叫んでいる姿、しわだらけのアイザック・
ディネーセンが魅せられたように目をすえているところをとらえた写真などである。そのあとは一連の迫力にみちた映像がつづく、
疲れきって陰険そうな表情を浮かべているために警察の手配写真のように見えるドロシー・パーカーやサマセット・モームのポートレートである。
だが、ダイアンはアヴェドンの手法にひっかかるものを感じていた。彼のやり方はかならずしもフェアでないと思った。
印画に修整を加えてぼかしたり誇張したりしているため、フィルムに写った有名人の顔が歪曲されることもあったのだ。
それにダイアンがポートレートを撮るために気が遠くなるほど時間をかけるのにたいして、アヴェドンは写真を撮る相手といとも
「容易に親しくなれる」能力を活用していた。初対面の二人の人間が「十分間」だけ一対一で深い関係を結ぶのだが、「撮影が終わると、
ありがとうと礼を言って、その場から逃げ出す算段をする」のだ。エズラ・パウンドやマリリン・モンローを撮ったときの感想を聞かれて、
アヴェドンはこう答えている。「忘れた。撮っているときは夢中だから、相手が何を言い、自分が何を言ったかなんて覚えていないよ」。
覚えていられないなんて、ダイアンには信じられないことだった。彼女はすべてを覚えていた。だが、人さまざまだった。
ダイアンがこの頃信条としていたのは(スタイケンと同じく)、写真が「それ自体で完全なもの」だということだった。つまり、
全き真実をとらえた映像は事実に即したものであると同時に超越的なものでなければならないということである。
ダイアンは自分のポートレートの本質を美化したり、そこに細工をほどこしたりすることを望まなかった。ダイアンが望んだのは、
対象の生命を劇的に表現することだった。
(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)