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2007/02/16

楽園への歩み、写真展「人間家族」

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"http://amehare.lolipop.jp/quotes//media/img_20070215T175717549.jpg"
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「この写真は、ユージン・スミスが第二次世界大戦で負傷した後の新しい生活を象徴したもの、
闇のなかから光あふれる世界へと踏み出そうとする彼の内面性を表すものとして位置づけあれている。「楽園への歩み」は、
1955年にニューヨーク近代美術館で開催されそのご世界各地を巡回した写真展「人間家族」展にも出品された。この写真展では、人生の旅-
世界中の人々が同じように生まれ、成長し、学び、働き、対立や問題を乗り越えて生きていくこと-が、
世界中の写真家が撮影した写真のシークエンスと言葉によって表されていた。「楽園への歩み」は会場の出口付近に展示され、
幼い子どもの後ろ姿は、世界中の人たちに向けられた希望のメッセージ - 暗闇のなかから光の方へ、
すなわち戦争という暗い過去から明るい未来へと歩んでいこうというメッセージ - が込められていた。ユージン・
スミスが父親として撮影した幼い子どもたちのスナップショットは、「楽園への歩み」
という題名の作品として発表されたり展覧会のなかに位置づけられることによって、特定の子どもを捉えたものとしてだけでなく、
彼の心情や希望や未来という抽象的な概念を表象するような図像として読み取られるようにもなったのである。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)


「ホイットマン流の国家のエロチックな抱擁の最後の溜息は、それを普遍化して一切の要求を剥ぎ取った形ではあるが、
スティーグリッツの同時代人で、フォト=セセッションの共同設立者であったエドワード・スタイケンが1955年に組織した写真展、
「人間の家族」の中で聞かれた。68ヶ国、273人の写真家の503枚の写真は一点に集中し、人類は「一つ」であり、
人間は欠点もあれば卑劣でもあるが、やはりいいやつだということを証明することになっていた。写真にはあらゆる人種、年齢、階級、
体型の人びとが写っていた。多くはとりわけ美しい肉体をしており、あるものは美しい顔をしていた。
ホイットマンが彼の詩の読者に彼とアメリカに同化するように迫ったように、スタイケンは個々の観客が描写されている多数の人間と、
そしてできることならどの写真の主題とも、つまり世界の写真術の市民全員とも同化が可能になるようにその展覧会を構成したのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



2007/02/07

スタイケンの写真展「人間の家族」

「ホイットマン流の国家のエロチックな抱擁の最後の溜息は、それを普遍化して一切の要求を剥ぎ取った形ではあるが、
スティーグリッツの同時代人で、フォト=セセッションの共同設立者であったエドワード・スタイケンが1955年に組織した写真展、
「人間の家族」の中で聞かれた。68ヶ国273人の写真家の503枚の写真は1点に集中し、人類は「一つ」であり、
人間は欠点もあれば卑劣でもあるが、やはりいいやつだということを証明することになっていた。写真にはあらゆる人種、年齢、階級、
体型の人びとが写っていた。多くはとりわけ美しい肉体をしており、あるものは美しい顔をしていた。
ホイットマンが彼の詩の読者に彼とアメリカに同化するよう迫ったように、スタイケンは個々の観客が描写されている多数の人間と、
そしてできることならどの写真の主題とも、つまり、世界の写真術の市民全員とも同化が可能となるようにその展覧会を構成したのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



ホイットマンの詩

「ホイットマンは感情移入、不調和のなかの調和、多様性のなかの単一性を説いた。あらゆるもの、あらゆるひととの精神的な交わり-
加うるに(それがえられる場合は)官能的な結合-は、いろいろな序文や詩のなかでくり返しくり返し、
はっきりと提案されている気まぐれな旅である。この全世界に向かって提案したいという熱望が、
また彼の詩の形式と調子に命令を与えもしたのである。ホイットマンの詩は読者を賛美して新しい存在状態(政治制度を目論んだ「新秩序」
の小宇宙)へと誘い込む精神のテクノロジーである。その詩はマントラのように機能的で、エネルギー荷を伝導する手段なのである。反復、
大げさな律動、休止なしの行送り、それに押しの強い詩語は読者を精神的に空中に浮かばせ、過去と、
アメリカの願いの共同生活とに同化できるような高みに彼らを押し上げるのを意図した、世俗的霊感の噴出である。しかし、
他のアメリカ人との同化のこのメッセージは、今日の私たちの気質には馴染みないものである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



エヴァンズの写真

「英雄的な抑揚がなくとも、エヴァンズの計画はやはり美と醜、貴と賤の間の差別を平等にするというホイットマンのそれから出ている。
撮影された個々の事物や人物が一枚の写真になり、それによって彼のどの写真とも道徳的に等価になる。
エヴァンズのカメラは1930年代初期のポストモダンのヴィクトリア朝風建物に等価になる。
1936年アラバマ州の町の大通りに並ぶ商店の建物にも、同じ形式美をもたらした。
しかしこれは水準を上げることであって下げることではなかった。エヴァンズは自分の写真が「博学で、権威があり、卓越している」
ことを望んだ。1930年代の道徳の世界はもう私たちのものではないから、こういう形容詞は今日ではほとんど信じられなくなっている。
だれも写真が博学であることなど要求するものはいない。だれもそれがどうして権威をもてるものなのか想像できるものはいない。
だれもなにかが、わけても写真などが、どうして卓越しうるものなのか理解できるものはいない」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



撮影すると言うことは重要度を授けること

「撮影すると言うことは重要度を授けることである。おそらく美化しえないような被写体はないであろうし、
さらにすべての写真に本来備わっている、被写体に価値を付与しようとする傾向を抑える方法はない。

しかしホイットマンの福音書のパロディである、写真映像の現代文化に見られるように、価値の意味自体が変わりうるものである。
前民主主義の文化の大邸宅では、写真を撮られる人物というのは有名人である。ホイットマンが情熱をこめて目録を作り、
ウォーホールが肩をすくめて評価した。アメリカの経験の共同耕作地では、だれもが有名人である。その瞬間をとっても、
ほかのなにかより重要というものはない。どの人物をとっても、ほかのだれかより面白いというひとはいない。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)