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2007/11/05

セキュリティの上昇

セキュリティという言葉は、さまざまなニュアンスを有しているが、近代においてセキュリティの基軸となったのは、social
security と national
security だろう。つまり主権国家の枠を前提とし、外に向かっては国家安全保障として、内に向かっては社会保障として作動するセキュリティの装置である。フーコーは、おそらく、社会保障を念頭におきながら、近代の人口という集合体レヴェルを通して作動するマクロな権力行使の主要な場所をセキュリティの装置として特徴づけた。ヤングの図式でいえば、そこではセキュリティの装置は内包・統合という作用と密接にむすびついて動員されていたといえよう。だがいま、そこではセキュリティの上昇とみなされうる事態で最大に焦点化しているのは、もはや一見「穏やか」な社会保障ではない。セキュリティは一方で<社会的なもの>の持ち分を離れ、市場化されプライヴァタイズされていく。他方で、それは、いわば「内向きの軍事化」としても浮上してきている。その<内>の境界もいまや不分明化しており、それが現代社会を考えるとききわめて重要になるわけだが・・・・・・



いまここで大ざっぱな輪郭を描いておけば、従来の内包ないしは統合を旨とした社会編制は、<人口>を対象とするマクロな規制のレヴェルで作動する権力の編制の場であるセキュリティの装置とミクロな身体にかかわる規律の装置の二つの異質な権力装置の接合がその土台を形成していたと言えるだろう。他方、セキュリティが<排除>へというベクトルを積極的に描き出すためには、セキュリティの装置と規律の装置のむすびつきの後退、そしておそらく「管理統御権力」と名指され徐々にその仕組みが明らかにされているような装置との新たなむすびつきが必要となるのではないだろうか。


(『自由論』 酒井隆史 青土社 P.261)



2007/10/29

ポストフォーディズムにおいては

ポストフォーディズムにおいては、生産性の上昇はもはや完全雇用とは相関関係のうちにはない。
効率性と生産性を上昇させるために必要なのはむしろ解雇、レイオフ、配属転換、パートタイム化などの多様な形態をとる人員の削減をとおした
「ダウンサイジング」なのである。カステルはさらに、彼が「情報社会」
と呼ぶ新しい資本の編制のもとでの階級関係がはらむ主要な特徴としての<排除>について、それを「大衆としての大衆と労働者/
消費者としての大衆の分離」。と定義している。つまり、ネーションの範囲内のほとんど全人口を潜在的な労働者あるいは・
かつ消費者として見なしていた時代は決定的に終わったということだ。新しい資本の編制は、生産者が同時に消費者であることを期待していない。
あるいは万人が(潜在的な)生産者であることを期待していない。現代の資本主義においては、労働コストをどこまで下げるかが、
利潤の要となる源泉であり、グローバル化、情報ネットワーク化によって資本は、
地域やそこに居住する生産者の論理をまったく考慮することなく、生産点をフレキシブルに移転する。移転したあと、
残された人びとはもはや単なる「無用な人間」となるわけだ。

ジグムント・バウマンは次のようにいう。今日の貧困者を明日の労働者へと調教することはかつては経済的にも政治的にも有意義なものであった。
それは工業を基盤にした経済の車輪に潤滑油をさし、さらに「社会的統合」という任務をも果たしたのであった。ところがこの経済的・
政治的意味は現在ではもはや失われている。労働力とそれにかかわるコストを削減しながらも、
利潤のみならず製品の生産性まで上昇させる方法を学んだ現在の資本は、もはや大量の労働者を必要としていないのだから。
「労働階級から自らを解放する」(マリオ・トロンティ)という資本主義の歴史を貫いてきた資本家階級の夢想はほぼ実現しつつあるのだ。


(『自由論』 酒井隆史 青土社 P.266-267)



2007/10/28

イギリスの犯罪学者ジョック・ヤングの見方

イギリスの犯罪学者ジョック・ヤングは、現代の状況を「多様性(diversity)」と「困難さ(difficulty)」
の上昇として捉え、その上で後者のみがあらゆる手段で抹消されるよう社会の布置が編制されつつある、という。近代から後期近代(late
modernity)へという図式に依拠し、そのうえで内包(包括)社会(inclusive society)から排除社会
(exclusive society)へ、という特性を付与するヤングによれば、
近代社会と後期近代社会は多様性と困難さへの対応においてちょうど反転した立場をとる。近代社会は多様性には不寛容であり、
困難さには比較的寛容である。近代社会は、多様性を、吸収されかつ同化されるものとして捉え、またじっさいに吸収・
同化への努力を試みてきたが、その一方、手に負えない(obdurate)人間や頑強な反逆者の存在や意義申し立てを、
社会が受けとめるべき個人の矯正/更正や社会自身の改革の努力へのさらなる試練として捉えたのである。一方、後期近代社会は、
多様性や差異性を称揚し、それを消費社会というクッションによってたやすく受け入れ無害化する。ところがこの社会は、困難な人間や
「危険や階級」と見なされるものには我慢できない。それゆえ彼らにたいしては最上の洗練された防壁を構築しなければならない・・・・・・
(Young 1999 p.59)。まさにセキュリティの上昇と呼びうる事態は、このような(ヤングの時期区分にのっとるならば)
後期近代社会の特徴の表現である、と言えるだろう。
そしてこの傾向に付随してあらわれるのは近年とりわけ突出しつつある<排除>あるいは<隔離
(incapacitation あるいは segregation)の実践である。


(『自由論』 酒井隆史 青土社 P.260)